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ボーン……ボーン……ボーン……。
(え?)
知らぬ間に書斎の壁掛時計が鳴り、私は目で文字を追うのを止めた。十二時を告げる音を耳にして、長い間独酌読書をしていたことに気付く。「長い間」とはいっても、約三時間ほどであるが。
ふと見れば、ボトルの液体が半分以下になっていた。甘く飲みやすいワインだったので、思いのほか減りが早かった。なんとなく体が熱い。若干酔ってしまったか。それか、恋愛小説を読んで少しばかり高揚しているのかもしれない。
もう十二時なんだ、と脳が認識するが否や、眠気が生じてきた。程好くお酒が回っているせいだろうが、なんとまあ、私の体の切り替えの素早いこと。
(もう寝ようかな。あの人が帰って来る前に)
ふわあ。あくびをしながら目を擦り、小説に栞を挟む。「準夜番」の勤務時間がいつまでなのかは知らないが、彼が家を出たのは夕方だったので間隔的にはそろそろな気がした。近衛兵は「準夜番」、「夜番」、「日番」の三交替制らしい。夜勤、ご苦労様です。
最後にもう一杯だけ飲もうと安物のグラスにワインボトルを傾ける。ここまで飲んでおいてなんだが、減ってしまうのが惜しいので二口で飲み干せる程度に注いだ。
私の好きな甘くフルーティーな味。このワインは美味しい。今度ターニャさんに会ったらもう一度お礼を言おう。
赤紫のワインをぐーっと喉に流し込んでいると、「ガチャっ」という金属音がドアの方から聞こえてきた。鍵を開ける音だ。彼はカインさんからこの家の合鍵を貰っている。
(あ、帰ってきちゃった)
ウィッグがずれていないかささっと手で確かめ、空になったグラスをテーブルに置き私は彼を出迎えた。同棲生活初めの方は彼が帰ってくる度に挙動不審になっちゃってたけど、今ではだいぶ慣れたものだ。
「おかえりなさい、兵士様。お仕事お疲れ様です」
席を立って愛想よく笑い、穏やかな、それでいて明るい声を出す。
彼は後ろ手でドアを閉め、上がり框でブーツを脱いだ。うむうむ、私がお願いした事、ちゃんと身についてきてるではないか。そうなのよ、面倒かもしれないけど、日本では玄関で靴を脱ぐものなのよー。
『兵士様、大変厚かましいお願いをさせていただいてもよろしいでしょうか? 申し訳ありませんが、この家はですね、造り上土足厳禁なのです。ご面倒をおかけしますが、家に入ってすぐの段差で履物を脱いで頂ければと思います』
と、下手に下手に丁寧に頼み、同棲初日に彼に「玄関」というものを使ってもらった。こんな風習ペッカイナにはないのに、彼は嫌そうな顔一つせず(相変わらずの八の字眉だったけど)私の言った通りにしてくれている。
「……──いま」
血の気のない唇が微かに動き、ボソッと小さく音を出した。よく聞き取れなかったけど、口の動きとタイミングからして「ただいま」と言ったんだと思う。
青白い肌、くすんだプラチナブロンド、八の字眉、濃い隈……天井に吊るしてあるランタンに細っそりとした身体が照らされ、そのシルエットに生っ白さを感じる。いつ見ても不健康そうだ。
……。
……。
挨拶を返してくれた彼は、じっと私に目を向けている。これは毎度のことで、この人はこうやってよく私をぼうっと眺めてくる。思い返せば、初めて会った時からそうだ。彼は人と──特に女性と対話する事が苦手だから、こういうのも仕方がないのだろう。
少々居心地は悪いが、彼のコレにも多少免疫がついてきた。そわそわしそうになるのを堪え、私はにこやかな表情で「どうされました?」と首をかしげる。こうすれば、大概彼は自分の部屋に帰っていく。
……。
……。
(あれ? おかしい)
こちらを見つめる彼へどうしたのかと声を掛けると、いつもであればふいっと視線を逸らすか「別に」と呟いて自室へ行ってしまうのに、今日はそうではないようで。
灰青の双眸をぼんやり私に向け、棒のようにつっ立ちいつまで経っても動こうとしない彼。
(な、何? どうかしたの? 何か用かな。あ、もしかして私がお酒飲んでた事に驚いてる? それとも体調悪い?)
「兵士様、どうしましたか。大丈夫ですか?」
内心ドギマギしつつ、もう一度話しかける。すると彼は目線を私から離し、テーブルのワインボトルをじーっと見つめた。
(おおっ、ワインボトル見てる。飲みたかったりとか? そういえば、この前夜に公園で会った時、この人からお酒の匂いがしてたなあ。お酒、好きなのかな)
「ええと、今日はですね、ターニャ様に頂いたワインを飲んでいたんです。……兵士様もお飲みになりますか?」
私好みの美味しいワインだったので彼に分けてあげるかどうかちょっと迷ったが、ターニャさんから貰ったボトルはあと一本あるのでまあいいかなあと。
それに、なんとなくだけど彼は断りそうな気がする。これまで、「ご飯食べませんか」「お菓子焼きました」「果物ありますよ」と言っても、断られてばかりだったから。水は勝手に飲んでるみたいだけど。
ワインボトルを凝視していた彼は、ワンテンポの間を空けてゆっくり頷いた。
(えっ、飲むの!? うーん、予想が外れた。最近カンが冴えてないなー)
自分で飲むか尋ねておいて、彼が頷いたことに私は驚いていた。何かを提供しようと申し出て頷かれたことがなかったし、この人、飲酒しそうにないじゃない? 飲むならお酒より薬の方が似合ってる。うわ、すんごい失礼だ私。今のは取り消そう。
「そうですか。では、用意しますのでお掛けになってお待ちください」
彼に何かを振る舞うのはこれが初めてになる。ちょっと緊張。いやいや、私が作ったものじゃないけれど。
上がり框の前で棒立ちしている彼に座るよう促し、私は食器棚へ向かった。背後から視線を感じる。また彼に見られているのか。落ち着かないなー。ヅラがずれてたらどうしよう。
金色の髪に手をやりそうになるのを我慢し、私は食器棚のガラス戸を開けた。手持ちの食器の中から綺麗そうなグラスを選び、軽く水で濯いでテーブルへ戻る。ああ、彼と目が合った。あらあら、やっぱりこっち見てたんですね。
丸テーブルにちょこんと掛ける彼の席にグラスを置き、ワインボトルでお酌をする。こんな時、日本にいた頃は、「事務長、いつもお世話になっております。事務長のおかげで安心して仕事ができています。デキる男って素敵ですよね」なーんて、お世辞たっぷり付けてたなあ。あの上司どうしてるんだろ。元気でやってるだろうか。
不意に日本で働いていた職場の上司や同僚を思い出す。普段は厳しい上司や仕事仲間も、飲み会の時はいくらか柔らかかった。「いつも頑張ってるね」と褒めてくれたり、冗談を言って場を笑わかせてくれるくらいに。だからどんなにしんどくても、辞める気になれなかったんだ。
とくとくと注がれる赤紫の液体に、かつての職場やそこで働く人々の姿が揺らめいた気がした。
「どうぞ。お口に合えばいいのですけど」
ゴト……。とワインボトルをテーブルに載せ、彼の方へグラスを滑らせる。
彼は私とグラスを交互に見据え、やがて静かにグラスを手に取り口に運んだ。みるみるうちにワインが彼の口腔内に流れてゆき、私はぎょっとした。
これは、一気飲みか。一気飲みなのか。
(うおっ、一気かい一気! あんた顔色悪いのにお酒の一気飲みなんてして大丈夫なの? そんなにお酒飲みたかったの? それとも喉が渇いてたの?)
一気飲みが彼に似合わなくて、予想外の飲みっぷりに張り付けていた笑顔が吹っ飛ぶ。私は目を丸くしてどんどん無くなる赤紫色のワインに見入っていた。
芳醇で濃厚でフルーティーなワインは、グラスにうっすらとした赤紫の膜を残して消えた。ぐびぐびではなく、すーっと彼の喉に飲み込まれていったのだ。飲み始めて三十秒も経っていないのではなかろうか。
彼が緩やかな動作でグラスをテーブルへ置く。私はそこで我に返った。
「いい飲みっぷりですね。もう一杯いかがですか?」
精一杯の爽やかな笑みを作り、ワインボトルに手を伸ばすと、彼はふるふる首を横に振った。二杯目はいらないようだ。気を遣ってるのかな。
「遠慮しなくていいですよ。まだありますから」
にこっと口角を上げ、返事を待つ。彼は何も言わずに空になったグラスを見ていた。
無言。沈黙。静寂。
なんとも言えない空気が漂い、私はワインボトルを持ったまま彼の斜め前で佇んだ。
ぼつぼつ声をかけてみようかな、と思っていると、彼の細い体が微かに揺れ、テーブルに乗っている手がきゅっと拳の形になった。
「……君は、僕のこと、気味悪くないの」
下に俯き、消え入るような声で途切れ途切れに綴られた言葉。
「え?」
彼がなんと言ったか理解する前に、声が出た。先ほどのセリフを頭の中で反芻させ、どういう意味があるのか検討するが、それは遮られた。
「僕、こんなだから……怖いし、気味悪いでしょ」
枝毛の多い前髪の隙間から、灰青の双眸が上目遣いにチラついている。私の様子を窺うような、返事を求めるような、どこか澱んだ目をしていた。
「? いえ、別に気味が悪いとは思いませんけど──」
どうしてそんなことを聞くのだろう。もしや、彼は気にしているのだろうか。そういや、この前「自分の容姿を女の人が怖がる」って言ってたなあ。まあ……その、独特ではあるもんね。
疑問に思いつつ、間が空かないよう答えを返す。
私は八方美人で小心者。「気味が悪いか」と問われ、「はい」と言うような──人を傷つけ、荒波を立てるようなこと、できなかった。よっぽど嫌いな、もしくは有害でない人間以外に悪印象を与えたくはない。
第一、私は彼の事を「気味が悪い」と思っていなかった。城で初対面を果たした際は、正体がバレないか、職質されないかで外見云々どころではなく。次に公園で会った時はあまりの顔色の悪さに心配になったくらいで、「気味が悪い」「怖い」とは感じなかった気がする。
顔を上げて大きく瞬いた彼に向け、私は言葉を続けた。
「でも、心配にはなりますね。やっぱり、いつ見てもお顔の色が優れないですから、どこか具合が悪いのかと」
言いながら、静かに座る彼を見下ろす。あれ、眉間の皺がいつもより少ない。八の字眉の角度もちょっと緩くなってるし、目もなんとなく大きく感じる。
下瞼にくっきり浮かぶ濃い隈、生気の欠けた灰青の瞳、青白い肌、血色の悪い薄い唇に、八の字に歪んだ眉、傷んだプラチナブロンド、ほっそりとした体躯……。
顔のパーツにちょっとした変化はあったが、基本は変わっていなかった。
彼はやっぱり、不健康そう。
(──そうだ)
病的な容貌を見ていた私の頭に、閃が一つ降りてきた。ちょうど彼の顔色の悪さに関する話題になってるところだ。ずっと気になっていたことを聞いてみよう。
食い入るように私を凝視している彼に向け、私は思い切った質問を繰り出した。
「兵士様、持病はお有りですか?」
保険会社で使われてそうなフレーズだな、と、言った後に思った。
自失するほど酔っていたわけではないが、ワインのせいで少しばかり気が大きくなっていたのかもしれない。そう親しくもない人へこんな立ち入った事を聞くなんて、普段の私だったらしないだろう。大体、聞いてどうするんだって話だし。
相変わらず彼はスロー。数十秒ほど黙然とし、薄紫色の唇を微かに開く。
「……ない」
ふるふると首を横に振り、ぼそりと呟くように言った彼。
(嘘、ないんだ! その顔色と体型で? はあー、そうなのね)
「体調がお悪くもないのですか? お医者にかかられたりとか──」
信じきれなくて、ついもう一歩踏み込んでしまう。だいぶ無礼だ。
彼は再度首を振り、私の問いを否定した。
「そうですか。兵士様、肌が青白いので具合が悪いんじゃないかと心配だったんです。すみません、急にこんなことをお聞きして」
ぺこっと頭を下げて謝罪する。そんな私へ、彼は小さく「別に」と言った。
正直、何かしらあると思ってたので、「ない」という答えに耳を疑った。まあでも、「ある」って言われてもどう返すか困るから、なくて良かった。人間、健康が一番だよね。や、「健康」ではなさそうか。……本当に病気じゃないかは疑わしいし、隠してるのかもしれないし。
(嘘かホントかはともかく、知りたいことが一つ聞けた)
ちょっとした満足感に気分を良くした私は、視界に入った彼の右手に何気なく目をとめた。
男の人にしては細い手。手背にはうっすらとした瘡蓋が幾つかある。先日、私が手当てした擦り傷だろう。赤くなったり腫れたりしていない。化膿はしていないようだ。
「あ、手の怪我、綺麗になってますね。良かった」
へらり。締まりのない笑顔が出てしまった気がするが、酒のせいか満足感のせいか正す気にはならなかった。
彼は私の言葉に反応し、視線を自身の右手に落とす。作られていた両の拳が緩み、彼はそうっと左手を右手に添えた。傷を確認してるのかしら。
一瞬、包帯替わりに使った私のハンカチをどうしたか尋ねようかと思ったが、もしハンカチを捨てていたら彼は返答に迷うのではと考え、やめることにした。
だって、同棲始めて一週間経つのにハンカチ返してくれないってことは、あのハンカチ、もう彼の手元にないんじゃないの? 一緒に暮らしてるから、返すタイミングなんて腐る程あったのにさあ。いやいや、捨てられてても別に怒んないよ私は。あのハンカチはそうなってもいいから包帯替わりに使ったんだもん。
(まあいいや。ワインとグラス片付けて寝よーっと。んふふ、今日はよく眠れそう)
「グラス、下げますね」
自分の分と、彼の分。二つのグラスを持ったところで、低くぼそぼそとした音が耳に入った。
「本当に気味悪くないの。僕のこと」
「へ?」
突然の問いかけに虚を突かれ、思いっきり間抜けな声を零してしまう。だめだ、私、結構地を出してしまっている。冷静になれ、冷静になれ。慎重で気が小さくてずる賢い余所行きの私に戻れ。
己を戒め、手を止めて彼を見やる。しかし、そんな自戒はすぐに霧散してしまった。
灰青の双眸がえらく真剣味を帯びていて、なぜだか笑いが漏れた。素で。
今になってワインが効いてきたのだろうか。いやでも、可笑しいんだもの。私、そんなに信用ないの? なんでそんな、何回も聞いてくるの? 違う違う、馬鹿にしてるんじゃないんだけど、どうしてだか笑いのツボがおかしくなっちゃっててどうしようもないというかなんというか。
どっちかというと、私は笑い上戸なんです。ほんとごめんなさい兵士様。私、ものすっごい失礼だ。
「すみません、笑ったりして。さっき言った通り、兵士様は気味悪くなんてないと思いますよ。私は」
笑いを噛み殺し、せめて微笑む程度にしようと頑張りながら答える。
「気味が悪かったら、きっとこんな風に笑えてないです」
なかなか引っ込まない笑いと格闘していると、彼は二度、パチリパチリと瞼を開閉させた。半開きの瞼はいつもより開かれ、八の字の眉根の角度も緩くなっている。
僅かに違う彼の顔と大きく瞬く仕草に、私は「驚き」を感じ取った。
(……あ。もしかして、びっくりしてる?)
「兵士様、そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
(ほんの少し。ほんの少しだけど、見えた気がした。この人の「気持ち」)
合っているかは分からないけど、彼の感情を初めて捉えられた私は更に気を良くした。
──嬉しかったのだ。
正体を知られたくはないが、同棲はしたくなかったが、私は彼のことが嫌いな訳ではない。不思議で、不健康そうで、表情が読めなくて──そんな彼に興味があり、恋人やら婚約者やら抜きで仲良くなってみたくて。
その一歩を踏み出せたような気がして、嬉しかった。
ニコニコしている私を見上げ、彼はまたもや大きく瞬く。彼がこうやって瞬くのは、驚いているからかもしれないなと思った。
「人間はこの世界にウン十億といるんです。兵士様の事を怖がったり気味悪がったりするご婦人がいらっしゃるそうですけど、そうでない人もたくさんいると思いますよ。私みたいに」
そこで私は言葉を切る。これ以上はやめておこう。あんまり深く干渉して気に障ってもいけない。彼と私の仲はまだまだ浅いのだから。
私は酒に呑まれるような女ではない。酔いはしていても理性はきちんとある。調子に乗り過ぎて後々後悔しないように、こうやってセーブをかけておかないとね。
彼が何も言わないのを良い事に、私は彼から離れてテキパキと動いた。グラスを洗い、ワインボトルを仕舞い、洗面所で歯磨きを済ませ……あとは寝るだけ。
「では、私はもう寝ますね。兵士様も早く休まれた方がいいですよ。おやすみなさい」
依然、椅子に座りっぱなしの彼へ言い、ニコッと笑う。うん、歯を磨いてスッキリしたせいか、もう妙な笑いが込み上げてくることはなかった。所詮、軽い酔いだったのだ。
ドアノブに手をかけ彼の返事を待っていると、ワンテンポもツーテンポも遅れ、耳慣れたボソボソ声が聞こえた。
「おやすみ……なさい」
「はい。おやすみなさい」
最後におすまし顔を送り、自分の部屋に入る。鍵をかけると、自然に溜息とニヤニヤ笑いが出た。
金髪ウィッグを外し薄手の寝巻きに着替えてベッドにダイブ。何分も経たぬ間に、強い睡魔に襲われた。今夜はぐっすり眠れそう。寝坊しないようにしないとね。
今日は今までで一番、彼とのやり取りに手応えを感じた。もっと距離が縮まったら──少なくとも二人で会話を楽しめるくらいになれればなあとぼんやりしながら、私は意識を手放した。




