1話
関東結界都市、鍛冶町。早朝の涼しい風が駆け抜ける中、長屋立ち並ぶ街並みを歩く一人の男性。
彼は少しぶかぶかの麻の衣服を身に纏い、くすんだスニーカーを鳴らしながら地図を見つつ目的地へと進んでいく。
季節は春。まだ時刻は早く、大きな石造りの道路には人の気配がない。
普段は活気ある町だが、今は少し寂し気な空気が漂っていた。
男はやがて一軒の建物に辿り着く。
二階建てで瓦屋根。大きなガラス越しには大量の本棚が並び、鍛冶町には珍しい雰囲気を醸し出していた。
彼は静かに物音を立てぬようガラス戸を引き、おずおずと建物内に入っていく。
「……ここ……? で合ってるのかな」
地図とにらめっこしながら、現在地を二度、三度と確かめる。
メモ書きにはノックをせず入るようにと書いてあったが、屋内に人の影がない。
どうにも不気味な空気を感じ取り、もう一度外から確認してみようかと戸に手をかけたとき……。
「お早いですね。間違いありませんよ。新宮ハヤト様、ですね」
まったく気配を感じさせず、彼の背後から声がかかる。
足音は一切しなかった。視界にも入っていなかった。
意識外の声かけに一瞬驚愕したハヤトだったが、なんとか顔には出さず振り返る。
(!)
途端、彼は蛇に睨まれた蛙のような錯覚を覚えた。
いったいなぜ、今の今まで彼女の存在に気が付かなかったのだろうか。
本来であれば、店内に入った瞬間に彼女を認識できていなければおかしい。
それだけの存在感を放つ女性が、ハヤトの目の前にいた。
身長は彼より少し低い程度。腰まで届く黒く艶やかな髪を靡かせ、切れ長の瞳でこちらを覗き込む絶世の美女。
スラっと長い脚に女性らしさの目立つ腰付き。シミひとつない白い肌は男物と思われる紺色の執事服に包まれていた。
夜明け色の深く淡い瞳に視線を合わせると、どこまでも吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。
「……どうなさいました? ギルド長が奥でお待ちです。こちらへどうぞ」
声をかけられ、ハッとするハヤト。
女性は事務的な表情を変えることなく踵を返し、本棚の群れをすぎて行く。
なおも狐につままれたような顔のハヤトはしかし、彼女を追って奥の階段を昇って行った。
「まだ早朝ですから、店員もおりませんし店も開いていません。今はギルド長と私しかいませんの」
……どうやらハヤトの表情を「店内が静かすぎることに驚いた」と受け取ったらしい女性が、律儀に注釈を述べる。
決して、互いの沈黙が気まずかったわけではない。
だが、それが幸いした。
それまで呆然としていたハヤトは、ようやくここで自我を取り戻す。
「あの、自己紹介が遅れてすみません。廃品回収屋の新宮です。貴女は……?」
階段を上りながら、ハヤトは女性に自己紹介する。
「……? あぁ、こちらこそすみません。名乗っておりませんでした」
後ろから声をかけられた女性は、ふと思い出したように足を止め、階段を一段下がりながら振り返る。
その一瞬、ハヤトの眼前に彼女の整った顔が近づいて、再び謎の錯覚が彼を襲った。
「私はこのギルドの受付嬢、瑠璃と申します」
不思議な感覚だと、ハヤトは素直に思った。
彼女は目の前にいるのに、そこにいないかのような。
絶大な存在感を持ちながら、あまりにも輪郭が希薄。このような感覚は、今までの人生で一度も味わったことがなかった。
単に美しい、というだけでは説明がつかない。
まるで何者かに操られているかのように、視線が彼女に釘付けになってしまう。
再度硬直したハヤトを置き去りに、階段を上り切った瑠璃は重厚な大扉を三度ノックする。
コンコンコンという小気味良い音が鳴り響き……。
「入っていいよ」
中から、若い男性の声が聞こえる。
おそらくは彼が、ハヤトをここへ呼んだ人物だろう。
ハヤトは一度唾をゴクリと飲み込み、意を決して扉を開く。
「やぁ、初めましてだね。新宮ハヤト」
扉の先に待ち構えていたのは、銀髪に銀の瞳という、特徴的な男性だった。
断じて、悪鬼羅刹の類ではない。
だが、彼と視線を交わした瞬間、ハヤトは瑠璃とは別種の存在感を抱いていた。
身長はハヤトと同じ程度。平均より少し高いというくらいだ。
しかし、ピンと伸びた背筋は早朝の気だるさを微塵も感じさせない。
両の足でしかと地を踏みしめ、動作のひとつひとつに気品すら覚える。
例えるのならば、聳える霊峰のような……。
「そんなにジロジロ見つめられると照れるんだが……。もしかして男色……っていうやつなのかい?」
そこで、彼は冗談めかしたようにニヘラと微笑みながらハヤトの瞳を覗き込む。
驚いてバッと顔を背けたハヤトは、こちらもニヘラと苦笑しながら頭を掻いた。
……男色というわけではないが、彩の見えない特徴的な銀瞳は同性のハヤトですら美しさを感じてしまうほどだった。
「まぁ立ち話もなんだ。座りなよ」
男性はハヤトをソファに座らせ、対面の席に移動する。
そっと、いつの間にかコーヒーを淹れていた瑠璃が熱々のカップを二つ並べて退出した。
「それじゃ、改めまして。僕の名前は神河聖蓮。よろしく、ハヤト」
言いながら手を差し伸べる聖蓮。その手をとった途端、何か絶大な気配を感じ取ったのは、きっと気のせいではない。
今度も表情には出さなかったハヤトだが、その瞳は大きく揺れていた。
「そしてようこそ、表の世界から来た来訪者よ。僕たちは君を歓迎する」
彼の背後に聳えていたのは、霊峰などではない。もっと巨大な……。




