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男の名前は福口哲郎  作者: 福口哲郎


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3/3

父の日

今日。


父の日。


男には関係のない日だった。


いや、関係がないというより――


縁がない日だった。


子どもの頃は父の日なんて特別意識したこともなかった。


学校で「お父さんありがとう」と似顔絵を描かされた記憶はある。


照れくさそうに渡したことも、たしか一度くらいはあった気がする。


だけど今となっては、その先が何もない。


男には妻もいない。


つまり子どももいない。


誰かに「お父さん」と呼ばれる未来も見えない。


父の日は、男にとって祝う日ではなく、自分には存在しなかった人生を見せつけられる日だった。


テレビをつける。


街頭インタビュー。


「父の日だからプレゼント買ってくるからお金ちょうだい!」


「お父さん、いつもありがとう!」


笑いながら子どもが言う。


母親が財布を出しながら、


「結局お父さんのお金じゃん」


スタジオが笑う。


出演者も笑う。


画面の中は異世界か、幸せそうだった。


男は笑えなかった。


そんな何気ないやり取りすら羨ましかった。


羨ましくて仕方なかった。


子どもがいて。


母親がいて。


笑いながら文句を言って。


そんな当たり前が存在していることが、胸に刺さった。


男の人生には一度も訪れなかった景色だった。


テレビを消した。


部屋は静かになった。


冷蔵庫の音だけが聞こえる。


静かすぎて耳が痛かった、おかしくなりそう。


外へ出た。


理由はなかった。


家にいると余計に苦しくなる気がしたから。


近くのミスタードーナツの前を通った。


行列だった。


最近人気のモッチュりんドーナツ目当てなのか、店の外まで人が並んでいた。


五十人くらいいるだろうか。


一人でスマホを見て待つ人もいた。


友達同士で話している学生もいた。


でも男の目に入ったのは家族連れだった。


父親。


母親。


そして小さい子ども。


子どもが嬉しそうにドーナツを指差している。


父親が笑いながら頭を撫でている。


母親が写真を撮っている。


並んでいる時間すら楽しそうだった。


男は少し離れた場所から見ていた。


横目で。


気づけば睨んでいた。


別にその家族が悪いわけじゃない。


何も悪くない。


それなのに胸の奥が痛かった。


なんで。


なんで皆そんな普通の幸せを持っているんだ。


男にはない。


一度もない。


手を繋いで歩く相手も。


帰る家を待つ人も。


父の日にプレゼントを渡す子どもも。


何もない。


ただ辛かった。


嫉妬だった。


悔しかった。


そして――少しだけ寂しかった。


もし人生が違っていたら。


もし学生時代に友達が一人でもいたら。


もし誰かと付き合っていたら。


もし仕事が続いていたら。


もし。


もし。


もし。


そんな妄想だけが増えていく。


男は目を逸らした。


何事もなかったように歩き出した。


コンビニで缶コーヒーを一本買った。


一人で飲んだ。


とても苦かった。


男の名前は福口哲郎。


三十八歳、独身。


彼女いない歴三十八年。


童貞。


社会のクズ。


ゴミ。


人間失格。


いじめ。


差別。


そんな言葉を自分にひたすら貼り続けてきた男。


だけど――


本当に欲しかったものは、地位や名誉や金や人権や幸福や平和やそんな大それたものじゃない。

 


誰かと笑いながらドーナツを食べる。


たったそれだけだった。

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