第1話 目覚め、荒野、そして水
最初に感じたのは、土の匂いだった。
腐葉土。湿気。それと、何か別の成分。
獣の体臭に近い。ただしどの獣とも一致しない。
嗅いだことのない匂いだった。
龍司は仰向けのまま、天を見た。
木だ。高い。幹が太く、梢が空を塞いでいる。
光が何本か降りているが、直射ではなく、
葉のフィルターで色が変わっていた。
その葉の形が、おかしかった。
おかしい、という言葉が
正確かどうかは分からない。ただ、見慣れない。
日本の山林で育った感覚が、
あの葉は知らないと言っていた。
葉脈の走り方が違う。縁の形が違う。
光の透け方が違う。全部、微妙にだが、確実に。
整備士を二十年近くやると、
違和感を無視できなくなる。
エンジンの音が一ミリずれていても耳が止まる。
あの葉は、そういう種類の違和感だった。
龍司は上体を起こした。
体が動いた。痛みはなかった。むしろ体が軽い。関節の痛みがない。
それも少しおかしかったが、今は後回しでいい。
「……死んだか」
誰にともなく言った。試しに喉を使っただけだ。
対向車が来た。それは覚えている。
国道の右折レーン、雨上がりのアスファルト。
バイクのフロントホイールが、
ヘッドライトを受けて光った。
そこまでは覚えている。
この森は日本じゃない。
断定するには早い。
しかし消去していくと、残るのはそこだ。
どこかの山に飛ばされた、
という線を先に消した。この植生は国内にない。
季節も気温も、記憶にある感触とずれている。
空気が濃い。酸素が多いのか、
別の何かが混じっているのか、
吸うたびに少し重い感じがある。
龍司は立ち上がり、手のひらを見た。
整備士の手だ。
油が滲んだ皺。指の付け根の硬さ。
長年の作業で変形した関節の形。
全部そのままだ。
四十三年間使い込んだ手が、
丸ごと持ち越されてきた。
周囲を見回した。森が続いている。
方向を確かめようとしたが、
太陽の位置が木に隠れていた。風が来た。
龍司はそちらへ歩き始めた。
止まっていても何も分からない。
機械は動かさなければ診られない。
人間も、たぶん同じだ。
一時間ほど歩いて、龍司は地図を諦めた。
正確には、頭の中に地図を描こうとするのを
やめた。特徴のない木が続く。岩が出る。
沢があると思えば消える。傾斜が変わる。
それだけだ。
腹が鳴った。喉が乾いた。汗をかいた。
そういう体の話だけが具体的で、
残りは全部不確かだった。
日本ではない、というところまでは
固まっていた。では何か。
龍司はその答えを急がなかった。
急いで間違えるより、
歩きながら材料を集めた方がいい。
答えが出るのは、もう少し後でいい。
そこで音がした。
重い。大きい。
木が折れた。一本ではなく、連続して。
まるで大きな塊が森を
押し分けてくるような音だった。
龍司は反射で走った。理屈じゃない。
音のサイズと速度が、体に危険を教えた。
太い幹の陰に滑り込み、体を張り付かせ、
息を止めた。
影が来た。
四つ足。馬ほどの高さがある。
皮膚が硬質で、鱗というより
固い革のようだった。顔が大きく、牙が見えた。
目が黄色く光っていた。
龍司の隠れた幹の二メートル手前で止まり、
首を上げて空気を嗅いだ。
息を止め続けた。
十秒。二十秒。
影は別の方へ消えた。
木にもたれたまま、
龍司は心拍が落ちるのを待った。
落ち着いてから、頭の中を整理した。
あの生き物は、知っている動物ではない。
鱗を持つ四足獣。馬より大きい。
明らかに肉食だ。
こういう生物が、日本に存在した記録はない。
では、ここは日本ではない。
では、何か。
龍司はしばらく黙って考えた。
考えた末に出た答えは、
ゲームやアニメで何度も見た絵だった。
剣と魔法と魔物が存在する、別の世界。
異世界転生。そういう話だ。
馬鹿げていると思った。
しかし今見た生き物を前にして、
別の説明を組み立てるだけの材料がなかった。
「……そういう話か」
呟いた。腹立たしかったが、受け入れた。
状況を否定して時間を潰すのは、
龍司の流儀ではなかった。前世でもそうだった。
どれだけ理不尽な状況でも、
まず現状を確認して、
できることから手をつけた。
それ以外にやり方を知らなかった。
歩き続けた。
日が傾き始めた頃、斜面で足を滑らせた。
落葉が積もった急斜面だった。
ブーツが滑り、体が転がった。
数メートル落ちて、太い根に腹をぶつけて
止まった。息が詰まった。
「生きてるか」
上から声が来た。
男が斜面の縁に立っていた。
長い髪。深い髭。外套の下に剣がある。
首筋に古傷が一本走っていた。
体格が重く、足の置き方が落ち着いていた。
木が立っているみたいに、揺れない。
龍司と同じくらいの歳に見えたが、
顔に刻まれたものが違った。
「生きてる」
「怪我は」
「腹を打ったが、骨はない」
「水は」
「飲んでない」
男は水筒を投げてきた。
龍司は受け取り、一口飲んだ。冷たかった。
喉が一気に落ち着いた。飲みすぎなかった。
「礼を言う」
「いらん」
男は斜面を下りてきて、
龍司の腕を引いて立たせた。それだけだ。
助けたというより、処理したという感じだった。
歩き始めた男について行った。説明はなかった。
龍司も求めなかった。
この男が森を知っているのは、
歩き方を見れば分かる。それだけで十分だった。
ハーゲンと名乗ったのは、
洞窟の焚き火の前だった。
「傭兵だったが、今は違う。ただ歩いている」
それが全部だった。
龍司も同じだけ話した。
「俺は龍司。黒鉄龍司だ。
ここへ来たばかりで、右も左も分からない」
「見れば分かる」
乾燥肉と木の実を分けてくれた。龍司は食べた。
火が燃えていた。
洞窟の奥から通風があって、
煙が外へ流れていた。
ハーゲンは目を閉じていた。
龍司は火を見ながら、順番を考えた。
まず水と食い物の確保。
次に工具か金になるものを見つける。
それから、もう少し先のことを考える。
前世の話は、しなかった。する理由がなかった。
翌朝、一人で外へ出た。
ハーゲンはいたが、止めなかった。
「北へ行くな」とだけ言った。
龍司は東へ向かった。
森が続いた。
傾斜が緩み、光が増えた。地面が変わった。
腐葉土から、少し砂気のある土に変わった。
木の密度が下がった。
音が変わった。
水だ。沢ではない。
もっと広い水面が立てる、低く連続した音だ。
波が岸を打っている。
龍司は歩調を変えなかった。
木の間から光が漏れ始めた。白い光だった。
反射だ。水面の反射だ。
木立を抜けた。
湖だった。
広い。対岸が霞むほどではないが、十分に広い。
水が青緑で、底の石が透けて見えた。
岸は砂と岩が混在していた。
西の端に岩盤が出ていて、
その下が洞窟状になっていた。
南向きに開けていて、日が直接当たっていた。
入り江のような地形が奥にあった。
龍司はしゃがんで水をすくった。飲んだ。
冷たく、臭いがなく、雑味がなかった。
立ち上がり、岸を歩いた。
岩盤の下を見た。天然の庇になっていた。
雨風を防げる。その横に平地がある。
傾斜がなく、ある程度の広さがある。
木が手に届く距離に立っている。
水が目の前にある。
炉を置きたい、と思った。
まずそれだった。
設計でも計画でもなく、
ただここに炉を置きたいという衝動が来た。
火を焚きたい。
湖を見ながら火のそばで酒を飲みたい。
誰にも邪魔されずに、それだけがしたかった。
それから壁が欲しくなった。
四方に壁を立てて、屋根を張って、
中に自分の道具だけを置きたかった。
工具でも、鉄でも、酒の瓶でも、何でもいい。
自分が選んだものだけで
埋まった空間が欲しかった。
それがここで作れる。
そう思った時、龍司の中で何かが固まった。
前世で、そういうものを一つも持てなかった。
時間は最初から生活に属していた。
稼いだ金は生活費に消え、
残ったものは次の出費の前借りになった。
趣味に使える金を確保するたびに、
何かが割り込んできた。
バイクに乗る時間を作るたびに、
何かが圧迫してきた。
自分の熱中を守ろうとするたびに、
生活の論理が勝った。
それが積み重なって四十三年だった。
怒りというより、空虚だった。
自分の熱中を自分のために
使い切れなかった人生の、乾いた空虚さだった。
もう一度それをやるつもりはなかった。
ここは違う。ここには誰もいない。
誰の都合もない。誰の期待もない。
地面と水と木と光しかない。
全部、最初から自分が決められる。
龍司は湖を見た。
水面が光を散らしていた。
風が来て、草が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。
今はまだ、ここには何もない。
ただの湖畔だ。
だがここを、自分の城にする。
そのために魔物を排除する。木を倒す。
石を積む。炉を作り、壁を立て、屋根を張る。
鍛冶場とガレージを作り、酒を仕込む棚を作る。
湖が見える場所にカウンターを据える。
誰に頼まれたわけでもなく、
誰かのためでもなく、
自分が死ぬまでそこで生きるための場所を、
手で積み上げる。
それが、この人生でやることだ。
龍司は湖面をもう一度見て、背を向けた。
来た道を戻り始めた。まず街を探す。
工具と金が要る。
そのためには、手を動かして
金を稼ぐ糸口が要る。
整備士の手は、この世界でも使えるはずだ。
使えなければ、使えるように変えるだけだ。
湖畔のことは、決めた。決めたことは動かない。
洞窟に戻ると、ハーゲンが火の前にいた。
「湖があった」と龍司は言った。「南東に。広い」
「知ってる」
「あそこに家を建てる」
ハーゲンは少し黙った。焚き火の薪が崩れた。
「そうか」
それだけだった。
笑わなかった。止めなかった。
余計なことを何も言わなかった。
龍司はハーゲンの向かいに座り、火を見た。
決めたことを口にするつもりはなかった。
既に動いている。
動いていることを言葉にしても、
何も変わらない。
火が燃えていた。
洞窟の外で、森が暗くなり始めていた。
湖は今頃、夕日の色をしているだろう。
それを確かめるのは、もう少し後でいい。




