(79)カリエーラに頼れぬジョナサンの葛藤
祖父である前侯爵ジョナサン・カドレッドが死んだ経緯は、カトリーヌが把握している通り。
ジョナサンは父子仲がいよいよ決裂寸前となった鬱憤晴らしに、某公爵が名義を貸しているサロンで酒を飲み過ぎ、酒に呑まれて死んだ。
ジョナサンとハリスンの仲違いが決定的になったのは、ハリスン就学二年目、転入生として学園に入学してきた平民の娘──ジュディの登場が契機だった。
ジュディは近年急成長した隣国の新興商会の子として学園に現れた。表向きは、時代の流れに先んじ身分の垣根を取り払うことの利点と弊害を洗う実証実験の一つとして、貴族だけのものであった王立学園に平民の子を入学させるという試みである。すでに数年前から厳選された男子の平民生徒を受け入れ始め、徐々に条件を緩めて人数を増やしていたところであり、この年は女子生徒の本格受け入れに着手していた。
といっても本来ならばこの年の平民生徒の受け入れは年度初めに終了していたはずだったのに、ジュディの名はなぜか中途半端な時期に転入生という形で生徒名簿にねじ込まれることになったらしい。
この奇妙な転入生は、淑女たるを義務とされる貴族女子とも、年度初めにしっかりと入学指導を受けた淑女の卵である平民女子とも毛色が違った。気さくで奔放、他者との距離感が狭く、異性であってもお構いなしにボディタッチを繰り返す。身分の垣根など気にしない……というより、相手の家の爵位がどれほど身分が高いのか、という根本的な基準からわかっていない。実家は裕福で豪華な屋敷住まいだが、彼女が物心ついた後に急成長した成金一家なので、マナー教育も急場しのぎの付け焼き刃。ジュディの素地はまるっきり、下町でちやほやされるタイプの町娘そのものだったのだ。
手入れされた派手な赤毛を自信満々に翻し、自由闊達に学園内を闊歩する姿は、貴族制の澱みが最も暗く膿んでいた頃の子女たちの目を否応なく惹いた。顔の造作は貴族のそれとは趣が異なるが、高位貴族にも遜色のない美しさ。当時の貴族のような姿勢矯正などの無理はせず、それでいて栄養に過不足なく育ったがゆえの、すらりと伸びやかでありながら出るところはしっかり出ている魅惑のボディライン。そのうえマナーそっちのけで己の欲望に忠実に振る舞うあけすけな生命力。快活な笑顔。
貞淑の題目の下、どこか陰鬱な空気さえ纏って見える貴族令嬢ばかりを見てきた貴族令息にとって、ジュディの存在はあまりに革新的で魅力的だった。必然、多くの男子生徒が誘蛾灯に群れ集る虫のようにジュディの周囲に集まるようになった。
その中にはもちろん、カドレッド侯爵嫡男であるハリスンもいた。というか筆頭である。
学園には当時王族は一人も在籍しておらず、公爵位の子息は前年に卒業していた。カドレッドと同じ侯爵位の子女は下級生に二名、それも四男と次女であるから、年長であり嫡男であるハリスンのほうが身分は上だ。当時はそうやって杓子定規に身分を考える時代だったのだ。
このためハリスンの周りには人が絶えなかった。まあ、それらの多くはハリスンと似た考えの持ち主か、表面的な身分の高さと近年目覚ましい領地の発展のおこぼれに与りたいと考える安直な連中ばかり。大多数の慎重な者、目端の利く者たちは、悪目立ちしているハリスンとはなるべく距離を置き、わざわざ火中の栗を拾いに苦言を呈することもしない。
似たりよったりな思想の信望者の仲間内で称賛されつつ、外からツッコミを受けることもない。学内の治安維持にやる気のなかった当時の教師陣の目を躱すのはわけもない。
すなわち、学園内はハリスンの天下だったわけである。
貴族主義、男尊女卑にどっぷり漬かっていたハリスンにとって、ジュディの存在は生まれて初めて浴びた稲妻だった。常識がひっくり返る衝撃だ。こんな娘がいるのか、と。
以来、ハリスンはすっかり虜となってジュディにまとわりつくようになった。他の平民生徒や女子生徒に見せていた横暴さの片鱗もなく、取り巻きたちを引き連れて彼女に尽くし始めたのである。
これまでの女性蔑視は間違っていた、女性は素晴らしい、態度を改めなければ……と転向すればまだ良かったのだが、残念なことにそうはならなかった。素晴らしいのはジュディだけ、彼女は選ばれた人間であり、平民に生まれついたのが間違い。豊かな生活を享受していながら判で押したような貞淑さしか身に着けられないつまらぬ貴族女性の全てを引きずり降ろしてでも、ジュディを高みに押し上げるべきだ……そんな思いを仲間内で高めていった。
「判で押したような貞淑さって……女は目立つな男を立てろ大人しく従順であれっていうのは男性側からの要請でしょうに」
「それ守ったらつまらない女扱いされるわけぇ? ダブスタひどすぎぃ」
さすがに黙っていられなくなってツッコミを入れるカトリーヌに、いつの間にか当事者顔してカトリーヌの傍らまで距離を詰めてきたリリアが援護射撃を入れてくる。
聴衆の生徒たちも女子を中心にざわめき、二重規範の発信元である現侯爵に対しては侮蔑と嘲笑が送られる。父は歯噛みして顔を真っ赤にするが、相変わらず祖母に睨まれたまま動けない。
実際、学生時代の母への信望ぶりから現在の最悪な夫婦仲への反転という現実を照らせば、どの口で何を言っても弁解にはなるまい。
……一方、男子生徒に囲まれたジュディが事態をどう見ていたかと言えば……まあ普通に調子に乗っていた模様。もともと平民街でちやほやされて育った彼女にとっては、男に大切にされるのは当たり前のことではあるし、貴族の異性相手でも自分の美しさは通じるのだという事実を得て、いっそう自信を深めたようである。
中でも積極的にアプローチしてくるハリスンは、ジュディの目から見ても魅力的な相手だったようだ。優れた容姿、甘い口説き文句にジュディを下にも置かない紳士的な扱い。周囲に人が絶えない様はあたかも人望ある人物の如く錯覚させ、その根幹を実行的に支えている経済力と身分の高さは普遍的かつ絶対的な価値を燦然と示して憚らない……
そう。取り繕った表面だけを見れば、ハリスンは婚姻相手としてなかなかに悪くない有望株に見えてしまうのである。
なるべくして、二人は恋に落ちた。どこまでが純粋な恋慕でどこからが打算なのか判然としない、けれど本人ばかりは大真面目な一世一代の「真実の愛」である。
しかしながらハリスンにはこの時、正式な婚約者が存在した。貴族の手本と言うべき美しさ貞淑さを兼ね備え、家柄も人柄も能力も優れた、政略結婚の相手として申し分ない伯爵令嬢。
社交界を無駄に渡り歩いたジョナサンの、唯一と言っていい功績である。もっともジョナサンの背後でカリエーラが領地を順調に立て直している実績があってこそ結べた縁談ではあったが。
将来に二人きりのバラ色のお花畑を夢見るハリスンとジュディにとって、当然ながらこの婚約者は邪魔者以外の何者でもない。
もともと女性全般を下に見ていたハリスンが貴族女性の典型である婚約者と折り合いが良いはずもなく、普段の言動に目に余るものがありすぎて相手方からさりげなく距離を置かれる始末。そのうえジュディが現れたことにより関係はさらなる悪化の一途を辿っていた。
恋に盲目になったハリスンは自身の父親に生まれて初めて直談判した。現在の婚約を解消し、ジュディこそをただ一人の妻にしたい、と。
この時繰り広げられた父子喧嘩はそれまでにない壮絶なものになったようだ。いつもは肝心なところで怖気の虫に取りつかれ弱腰になるジョナサンも、この我儘ばかりは到底容認できなかったのだろう。なにせ唯一胸を張るに値する自身の手柄を、よりにもよって我が子に否定される瀬戸際なのだから。
それに、有能な嫁を娶ることでもたらされる利益を最大限に実感しているのが、他でもないジョナサンだ。この成功体験はもはやジョナサンの根幹を成していると言っていい。平民の馬の骨、見目と実家の太さ以外にとりえのない嫁など言語道断、これから急速に再興していくであろうカドレッド家には不要だ……そう言って、頑として譲らなかった。
当然ハリスンが納得して引き下がるわけもなく、口論のみならず手も足も出るような、貴族とは思えない大乱闘が繰り広げられたらしい。そして冷戦に突入。ジョナサンは何かにつけてハリスンを叱りつけ、そんなジョナサンをハリスンは徹底して避けようとする。……反抗期の親子そのものの光景である。
「……左様に無益な労力を割かずとも、わたくしに相談して頂ければ、平民の娘を合法的に退場させる方策なぞいくらでも伝授できましたものを……」
「えっなんかカトちゃんのおばーちゃんおっかないこと言ってない……?」
「いやミセスは昔気質の生粋の貴族だからね? 当時は力のある貴族が邪魔な人間を排除するのに裏であれこれ手を回すのなんて当たり前のことだったわけだし」
「……平民差別はしないでしょうけど、そのへんの男より合理的なぶん、邪魔な人間がか弱い平民だから容赦してやる、なんて慈悲は期待できないでしょうね……」
「下手したらカトちゃん生まれなかった説!? てかおじさん顔まっさおだけど!?」
「ミセスの案が実行されてたら、今の侯爵だってどうなってたかわかんないしね……」
「昔に比べたら今はそう悪い時代じゃないって実感するわ……」
ついついいつもの調子で世間話を始めたカトリーヌたちにミセス・マトローネ講師の厳しい視線が降ってきて、三人は同時にぴしっと姿勢を正して口をつぐんだ。
ミセス・マトローネは目元を少しだけ和らげ祖母の顔に戻ると、また父に眼差しを留めながら過去をなぞり始める。
「……しかし旦那様は随分と意固地になってしまわれたそうで……この件に関しては、他者に助けを求めることに強い恥辱を感じていらしたようでした。己の血を継ぐ我が子が己のままならぬという事実が、思いのほか心に堪えてしまったのでしょう……残念ながらわたくしのような半端者には理解に苦しむ感情ですが」
……積みに積んだ失態が、ここにきてジョナサンを追い詰めてしまったらしい。妻に泣きついてばかりの自分では息子を正しく導けない、自分自身がなんとかしなければ……志は立派だが、奮起するには周回遅れに過ぎ、そのうえやり方がまずすぎた。
顔を合わせれば罵倒し合うことしかできないのでは、話し合いにもならない。一応学園側にもフォローを頼んではいたようだが、どうにも柳に風で頼りにならない。ならば平民娘をどうにかして排除しよう、という発想は、貴族としてはいろいろ抜けているジョナサンの頭からは出てこない。……というか、娘をどうこうしたところで根本的なハリスンの性根の問題が改善するわけではないのだから、カリエーラが謀略を伝授したところで、本気で息子をどうにかしてやりたいと思い悩んでいるジョナサンにとっては結局無意味だったかもしれない。
思い詰めに思い詰めた果てに、酒に逃げたジョナサンは、酒に呑まれてあっけなく死んだ。
カリエーラもこの時ばかりは領地の仕事を部下に預け、愛妾の子を連れて王都に急行した。
ジョナサンの死にまつわる数々の後始末と葬儀の手配、各方面へのお詫び行脚、爵位継承手続き、面倒な親戚への対応……やるべきことは山積みだ。ロビンとコリーナはよく手伝ってくれたが、次期侯爵であるはずの肝心のハリスンはのらりくらりと逃げるばかりで話にならない。
よっぽどハリスンを廃嫡して今からでもロビンを嫡子に引き上げてやろうかとも思ったものだが、ようやく自分自身を肯定して前を向けるようになったばかりのロビンに、なんの準備もなく望まぬ将来を今から押し付けるのも憚られる。だいたい、肝心の侯爵が空位の状態で嫡子をすげ替える手続きはとんでもなく骨が折れるのだ。この時間のない状況で、ロビンはもちろん他所から適当な男児を次期侯爵に招き入れるというのも全く現実的でない。
……いや、そもそももっと根本的な大前提として、ハリスンの廃嫡は、ジョナサンとの契約において禁じられている。
「ち……父上がそんなことを……?」
目を見開き、動揺もあらわに声をかすらせる父を、祖母はただ静かに見つめたのち、伏し目がちに視線を下げた。
……当初、ジョナサンは家の再興に力を入れながらも、子孫、ひいては侯爵家の未来そのものに、実のところさして興味を抱いていなかった。三人の我が子全員、正妻の子にも妾の子にも同等に無関心。嫡子教育は他人に投げっぱなし。お家再興のお題目は結局自身の名声を得るための手段に過ぎず、将来的な侯爵家の行く末など、腹の底ではどうでもよかったという証左だろう。
だから、最初期の夫婦間の契約においては、次期侯爵についての取り決めはほとんど存在していなかった。カリエーラ側の要望として、なんらかの要因によってジョナサンが侯爵でいられなくなった場合のカリエーラの身の振り方に関する項目をいくつか追加したくらいで、ジョナサンの死後や退位後の次世代に対する方針はほとんど白紙だったのだ。
しかし、息子との葛藤を抱えるようになってから、どうやらジョナサンは心変わりをしたらしい。
そして契約の書き換えはすんでのところで間に合った。
──カリエーラが最後にジョナサンと顔を合わせたのは、妾の子らとの別れの春を数ヶ月先に控えた冬のある日。
雪になりそうでならない冷たい雨に濡れながら、ふらりとジョナサンが領地に現れたのは、彼が急逝する二週間前のことだった。




