(70)白のショールと白のドレス
ふと、糸を通していた純白のレースが手元でほんのり桃色を帯びて見えて、夕刻なのだと知る。
うららかな日差しが遠ざかったのを自覚してからようやくかすかに肌寒さを思い出す、そんな季節になっていた。
もうすっかり春だ。
夕方はもう怖くはない。制服姿の男子生徒たちも風景の一部に過ぎない。公爵邸でもその外でも、問題なく活動できる。
それでも結局、事件現場だった特別教室棟や手芸室にだけは近寄ることすらできずに……全てを元通りにはできないまま、先日、全ての学習過程が終わってしまった。
あとは、自由登校という名の連休を経て、卒業式を残すのみ。
「結局何もできないまま、ここまで来ちゃったわね……」
心的外傷を抱えて過ごす日常は、思った以上にままならない日々だった。
自分では平気なつもりでも、知らぬ間に気疲れが溜まり、どことなく全身を覆う倦怠感のせいで何事にもいまいちやる気が出ない。授業中に意識が途切れるように居眠りすることもあった。生徒会の仕事にも身が入らないため、生徒会室に出入りすることもほとんどなくなった。手芸サロンに通う気力もなく、授業が終わればすぐさま公爵邸に直帰するのが当たり前になっていった。
沈みがちな気持ちを立て直すためにたびたび池畔に赴いた。三年間、心を支えてくれた水面のきらめきには、少なからず癒やされた。……たとえ、隣に誰もいなくても。
余暇はたっぷりあったけれど、何をする気力も湧かない。当のカトリーヌがこの有様で、最近はメアも何やら公爵家の業務に駆り出されているらしく、父やカドレッド侯爵領の調査は完全に停滞していた。
卒業とともに、カトリーヌは家に戻されるだろう。
そうとわかっていても、もはやどうとも思えない。心の起伏がなくなってしまったような、奇妙な虚脱状態が続いていた。まるで、彼と出会う前の鬱屈した日常に戻ったかのように。
空いた時間、唯一手を付けられたのが手芸だった。
サロンには通えていないが、ミセス・マトローネからの手ほどきは一通り受けている。事件の前にはもう完成形は見えていたのだ。迷った時に相談することができないのは不安だが、カトリーヌも二年近く師事していたのだ、一人でも仕上げる自信があった。
……ただ、本当に使いたかった布地はもう、マクシム・テクスタの追走を妨げるために放り出してしまったから、手元にはない。たぶん事件の後始末のどさくさに、誰かに捨てられてしまったのだろう。
今は、ミセス・マトローネにもらった予備の布地を使っている。おかげで全体の色味は大きく変更せざるを得ず、一からどころかデザイン全体に手を加えるところからの作業になってしまったが、時間だけはたっぷりあったからひたすら没頭して……
「……。でき……た……?」
最後の仕上げを終えて、余計な糸を始末して。
呆然と、思わず掲げて夕日に透かして……ちょっと笑ってしまう。
……完成してしまった。
「作ったはいいけど……私が着るの、これ? ……ありえないわね」
なんとなく気恥ずかしさに襲われ、後でリリアにでも着せてみよう、と手早く畳み掛けたところで、室外から声がかかった。
「カトリーヌさん、今よろしいかしら? ……ああ、仕上がったのですね!」
開け放ったままだった扉から遠慮なく入室してきたヒルデガルトが、カトリーヌの手元を見てぱっと顔を輝かせて両手を叩いた。
「では、それを持って、わたくしに付いていらしてくださいな」
ろくな説明もなく呼び出しとは珍しい、と疑問に思いつつも、カトリーヌは食客の分際をわきまえて大人しく従った。心なしか張り切っている様子で前を進むヒルデガルトに先導されて連れて行かれた先は、公爵令嬢のドレスをたっぷり収納している衣装部屋だった。
着替えを手伝って侍女修行の成果を見せろとでも言われるのかと首を傾げたのも一瞬、部屋に踏み入った瞬間、全ての雑念が吹き飛んだ。
綺麗に片付けられた室内に、クローゼットに仕舞われず立てかけられているドレスは一着だけ。
夕焼け一色に染まる大開口の窓辺。トルソーに飾り付けられ夕焼けに浮かび上がるそれは、明らかに特注品だった。白地を貴重として、裾に向けて鮮やかな真紅への階調を描くなめらかな生地。シルエットはシンプルで、全体に絞りのような自然なひだが大きく斜めに流れて裾まで続いている。愛らしさより美しさ、華美より神秘性を強調したようなデザインだ。
そして──その胸元にあしらわれているのは、左胸を覆い隠すほど大きな、真紅の薔薇。
独特な風合いに透ける真紅の布地の裏に、真紅の糸で紡がれたレースを当てて、立体的な花弁に仕立てた見事な赤薔薇だ。透けて見えるのに決して弱々しさを感じない。緻密なレースと重ね合わせた造形が織りなす芸術性と唯一無二の存在感……
カトリーヌは呆然とドレスを……その胸元の赤薔薇を凝視したまま立ち尽くした。
「どうして……これ……」
「カトリーヌさん、明日のパーティーのドレスをご準備されていらっしゃらないでしょう?」
「あした……」
思考も舌も上手く回らずに、ただぼんやりとしたおうむ返しになってしまう。
ヒルデガルトはカトリーヌを導くように、優雅に翻した手で真新しいドレスを示した。
「明日の、卒業パーティーですわ」
そんなことは、すっかり忘れていた。そもそも出席するつもりなんかなかったから。
……けれど。
(こんなものを見せられたら)
ドレスの向こう、大開口の窓の夕焼け空が、シャンデリアきらめく夜会の景色へと変じていく──
***
学園生のために開放された王城の大ホールに、さざなみのような動揺が広がった。
すでに会場入りして歓談していた生徒たちの視線を、少々遅まきに入場した一人の少女がさらっていく。
女性にしては背が高く、令嬢としてはありえないほど髪が短い。手足の長い細身ながら魅惑的な凹凸を描くシルエット。気の強そうな顔立ちに反して瞳は物憂げ、濡れたような独特なうねりのある暗い真紅の赤毛が白い肌膚に貼り付いて見えて、どことなしに艶めかしい。
デビュタントとは趣の異なる白のドレスは、流行りのデザインのどれとも似ていない。お伽噺の巫女のような、どこか浮世離れして見える神秘的な雰囲気でありつつも、鮮やかな紅の階調と左胸の大きな真紅の薔薇飾り、ところどころにあしらわれた黒いレースや黒を基調としたアクセサリーが全体の印象を引き締め、現実に調和させている。
何より人々の目を惹くのは、その背に纏う純白の肩掛け。
ストールと呼ぶには大判で、ショールとするにはあまりにも薄く軽いそれは、不可思議な風合いに透ける生地によって寒がりな彼女の背中を覆い隠している。素肌まで透けてしまいそうな質感でありながら、透ける白の奥に絶妙に重ねられたレースが不埒な視線から彼女を守りつつ、その芸術性によっていっそう人々の目を惹きつける。
シースルーの向こう側に見え隠れする細緻なレースが描き出すのは、緻密な直線と曲線を整然と並べた見事な陰影。
首から背を広く覆う雨覆羽に始まり、肩のラインを整える小翼羽、それらの下から力強く広がる大きな風切羽。
──すなわち、鳥の翼を模した図柄だ。
きらびやかなシャンデリアの灯りを見上げて目を細めていた女性は、ほう、とひとつ物憂げなため息を零すと、ホールに入場したと同時にしばし止めていた足を再び踏み出した。
その動きに合わせて、シースルーの白が広がる。風を孕んで時に大きく、時に細かに優美な波を空中に描き出す。
その楚々とした翼は、あたかも生まれて初めて鳥籠の外に出たばかりの白鳥の如く。




