(52)まどろみの時間はあとわずか
リリアのやけっぱち遁走を、二人はのんきな速度を保ったまま、もちろん追尾しなかった。
「うーん、あれは帰ってこない感じだねぇ。追っかける?」
「かまってちゃんはかまっちゃ駄目。あの娘の金言よ」
「わぁすっごいブーメラン。ただあんまり奥まで行っちゃうと、午後の部に間に合わなくなるかもしれないけど」
乗馬大会は二部に分けて構成される。
午前の部は今まさに行われている、学園内周回乗馬。学園の広大な敷地の決められたコースを、各々のペースで巡る、競技性の低い催しだ。
もちろんタイムを競っていち早くゴールを目指したり、何度も周回する者もいる。が、敷地を荒らさぬことが大前提、馬の消耗が著しいと判断されれば強制終了なので、あまり無茶はできない。そもそもここで出したタイムは公式記録としては残らないため、無茶をする甲斐もない。なので、貴族令嬢や馬に慣れていない平民出身者を中心に、大多数の生徒は一周をのんびりゆっくり時間をかけて乗馬を楽しむのが恒例である。
まあ、ほぼ散歩のようなもの。午後の部に出場しない大多数の生徒にも出番を与えるための、前座的イベントだ。
午後の部は大会のメインとなる、馬上槍試合が開催される。
種目は一騎打ちのトーナメント方式。衝撃を受けると簡単に壊れる特別な槍を用いて、すれ違いざまに馬上から互いに一撃を加える競技だ。鎧で着飾った騎手と馬の壮麗さ、一瞬で勝負が決まる真剣勝負の緊迫感と、見ごたえのある競技なだけに、保護者を含め学外からの観客も多い。数ある行事の中でも、男子生徒にとって在学中屈指の花形と言える競技だろう。
とはいえ出場できるのはほんの一握り。関連授業の成績優秀者たちだけだ。となれば騎士科以外の平民はまずお呼びでない。女子に至っては貴賤の関係なく出場機会はない。観客席の需要は大ありだが。
「追っかけたってどうしようもないわよ、リリアの乗馬能力舐めないで。私たちじゃ追いつけるかどうかもわからないわ」
「確かに。ノトシュの運動系能力ってやばいよね」
「体力、運動神経、動体視力、時間感覚、方向感覚、帰巣本能まで揃い踏み。試合を観戦したければ勝手に戻ってくるわよ」
リリアが肉体派すぎる件に関しては、ヒルデガルトが面白い考察を披露してくれたことがある。
曰く、『乙女ゲー』のヒロインを張るためには、ある程度の努力を詰めば『攻略対象』の目に留まれるだけの天性のスペックの高さが必要である、と。
学力に関しては中間期末考査の五十位以内に食い込めればいいらしいので、平均そこそこでも勉強法と努力次第で狙えないこともない位置取りだ。これは『ヒロイン』が、知的というよりは愛嬌のあるキャラクターに設計されていることが大きいのだろう、とのこと。……あんまり頭でっかちな女子は可愛くないからヒロインに相応しくない、という世知辛い一般論も見え隠れしないでもない。
実際ヒルデガルトの見立てでは、リリアの学習能力は信じがたいことに上の中はあるという。確かに「再教育」の成果に短期間で目覚ましいものがあるのも事実だ。持ち前の適応能力も併せて、磨けば光る資質をこれまでろくに活用できずに放置していたわけだ。
問題は運動能力。これがなかなか無茶なレベルを要求してくるらしい。主に騎士団長子息──すなわちデレク『ルート』で。
馬を並べて散策程度ならまだしも、全力で馬を走らせるデレクの後に遅れじと馬を走らせ追いすがったり、手取り足取り護身術の手ほどきを受けて一通り使いこなせるほど上達したり、果ては街中で手を引かれて長時間の逃走劇。場面場面でデレクの身体能力についていかねばらないという、カトリーヌにとっては聞くだけで筋肉痛になりそうな『イベント』目白押しである。
学力の補正は、環境さえ整っていれば比較的融通が利く。しかし身体能力というものはかなりの部分で生まれ持った体質に大きく依存する。
最も一般的でわかりやすいのが、男女差だ。男は大きく女は小柄。男は筋肉がつきやすく、女はつきにくい。男は怪我や病がない限り比較的体調をコントロールしやすいが、女は概ね月に一度、数日間のパフォーマンス低下を免れない。いずれも例外や個人差はあれど、古今東西を問わず大多数の人間が逃れえぬ生物としての傾向──言うなれば宿命である。
まあつまるところ、この男女の壁を超えた上でさらに、国の英雄である父親から類まれな天賦の才を与えられた騎士科トップのデレクに、一般的な貴族令嬢が身体能力で追いすがろうなど、ちょっと正気の沙汰ではないのである。この溝は、一朝一夕の訓練程度で埋まるものではないのだ。
すなわち結論として、『乙女ゲー』の『ヒロイン』は入学時の知能こそお粗末だが、それをカバーできるだけの学習能力と適応能力を持ち、なおかつ女性としては破格の運動能力を天稟として与えられているのだろう、という推測が成り立つのである。
言われてみればリリアの馬鹿みたいな体力は幼少期からだ。あっちへドタドタこっちへドタドタ、いつだって無駄に落ち着きなく駆け回っていたから、ひょっとしたら『ゲーム』の中の『ヒロイン』よりも基礎体力がついている可能性もある。
なぜそんなに無意味に動き回るのかと訊けば、「このカラダめっちゃ動けるから楽しいのっ」だそうな。どうやら前世よりスペックの高い身体に感動してあれこれ試しているうちに、やたらに動き回る習慣が当たり前に染み付いてしまったらしい。おかげでカトリーヌはリリアの息が上がっているところすら見たことがない。見事なる体力オバケおサル令嬢の一丁上がりである。
「んー……でもやっぱり、今日はもう戻ってこないかもね」
リリアのことだろう、ぽつりと零されたソキウスの呟きを、意外に思う。
「そう? ああは言ったけど、実際のとこ未練たらたらじゃない? どうせ「リアル『スチル』は見逃せないっ」とか言ってけろっと戻ってきそうだけど」
「あはは、ノトシュならそうかも。……でもさ」
珍しくソキウスの言葉尻に自嘲めいた響きが滲んだ。
「やりたいことや好きだったものが、自分の中でいつの間にか色褪せてるかもしれない……ってちょっと思っちゃった瞬間って、結構つらいんだよ」
少し遠くを見やるような横顔に、らしくもない疲労の色が濃い。
カトリーヌはむっと口をへの字にすると、自分の馬を少しだけ先行させた。明確に、先導する意図を持って。
「……カドレッド? そっちは……」
規定のルートから外れる。そんなことはわかっている。
構わず馬を進めながら、カトリーヌは戸惑いの声を上げるソキウスを顔半分だけ振り返って、ついてこいとばかりに顎をしゃくった。ソキウスは軽く首を傾げながらも大人しくついてくる。
なんとなしの沈黙の中、栗毛の二頭は並んで道を横に逸れていく。平坦な土の道から徐々に、草木生い茂る横道へと。
ほどなく空は緑の天蓋に覆われ、二人は木漏れ日の中を淡々と進んだ。道の先に水面のきらめきが見えるのを待つまでもなく、ソキウスならば目的地を察せたはずだ。
やがてたどり着いたいつもの池畔で、カトリーヌは馬を降りた。そうして迷わずいつものベンチの奥に座り、困惑も露わに後ろに続いてくるソキウスを見上げる。
乗馬服に包まれた自分の腿を、ぽん、と軽く叩いて見せながら。
「早くなさい」
「……は?」
数分後。ソキウスは湖を呆然と見つめていた。ベンチの上で横になった状態で。頭の下に、カトリーヌの足を枕代わりに敷いて。
「──ええっ、なにこの状況!?」
「なにって、膝枕」
「うわっ」
にわかに正気が戻ったように叫んで慌てて起き上がろうとするソキウスの小癪な動きを、カトリーヌは黒い頭を押さえつけて阻止した。今顔を見られるのは絶対にまずい。
服越しにソキウスの黒髪がさらさらと流れるこそばゆい感覚を極力意識しないようにしながら、震えそうな声を根性でねじ伏せて、傲然と命じる。
「いいから、寝ときなさい」
「いやでも……っ」
「目の下にそんな隈作っといてしれっとしてんじゃないわよ。私にバレないと思ってるなんて生意気」
「だ、だって、いや、あの……えぇー……」
達者だったはずの語彙力を失って、ソキウスは乙女のように両手で顔を覆った。その耳の先端が赤く色づいているのに気づいて、カトリーヌは胸の中に暖かなものが広がっていくのを感じた。
「よくは知らないけど、忙しいんでしょ? 乗馬大会なんて休んじゃっていいのよ。少しは自分の身体を労りなさい」
「……でも、それだと結構本気で寝ちゃいそうなんだけど……午後の部は? 生徒会の仕事があるんじゃないの?」
「大丈夫、今回は新人中心の編成だから。ヒルデガルト直々に私とリリアの仕事は免除されてるわ。午後はのんびり観戦でも楽しんでくださいな、ですって」
「うわそれ……ザルツェイロス姉弟に恨まれそう……」
「は? なんでよ」
「ええと、だからさ……ぴっ!」
不意打ちで黒髪を梳くように撫でてやると、ソキウスは甲高い奇声を上げて小さく身体を跳ねさせた。
が、カトリーヌが心地よい感触を楽しむままに何度となく手を往復させているうちに、ほどなくしてソキウスの身体から抗いがたく力が抜け始めた。よほど疲れが溜まっているのだろう。
「いいから今日くらい、何も考えずに寝ちゃいなさいよ。……ここでこうやってあげられるのも、もう……」
無意識に自分の口から零れた呟きに、カトリーヌは不意に、残された時間を実感した。
卒業まで、あともう一年もない。そこがタイムリミット。
入学の瞬間から用意されていたそのボーダーラインを踏み越せばもう、それぞれの道は分かたれる。その先でカトリーヌとソキウスの道が再び交わることは、もう、二度と……
「……うん」
眠気まじりの柔らかなソキウスの声が耳を打つ。
「ありがとう、カドレッド」
何気ないほどの感謝の言葉に滲み出るような深く暖かな何かは、ゆるゆると睡魔に溶けて、健やかな寝息へと消えていった。




