(38)二山鳴動して鼠一匹
サンドラ・アンハイムの私物が噴水に捨てられた、その翌日。
さらなる事件が学園を震撼させた。
と言っても、今回の事件は明確な被害者も加害者もいない、極めて個人的な人間関係のこじれである。
いろいろな意味で学園の有名人である、リリア・ノトシュとカトリーヌ・カドレッドの腐れ縁コンビが、公衆の面前で盛大な大げんかをしでかしたのである。
「──あんたの馬鹿さ加減にはいい加減うんざりなのよ!」
カトリーヌ渾身の罵倒に、まあそりゃそうだろうな、と納得した聴衆は少なくない。
「うっさいよカトちゃん! こっちだって散々いいようにこき使われてうんざりなんだからっ!」
リリアの反撃に、まあそれもそうだろうな、と同情した生徒もまあまあいる。
そもそも周囲の生徒にとっては、この二人の関係性がうまくいっていること自体が不思議で仕方なかったのだ。カトリーヌは人間嫌いのキツイ性格で付き合いにくいし、リリアは頭のおかしいトラブルメーカーなので眺めているぶんには面白いが近寄りたくはない対象だ。
双方ともに我が強く孤立をものともしない性質で、はみ出し者同士が居場所を見つけられずに仕方なくつるんでいるという感じでもない。むしろお互いに媚びることなど絶対にしないため、我と我のぶつかりあいは日常茶飯事。幼馴染の腐れ縁にしても、そんなことなら普通は距離を置きたくなるものではないか、と傍から見ていると思えるのだが、なんやかんや面倒を見たり相手を積極的に巻き込んだりと、どう見ても仲が良いとしか言いようがないのだから不思議なものだ。
そんな二人が喧嘩をしていること自体、まったくもって特筆すべき事態でもなんでもない。
だが今日の喧嘩はいつもと毛色が違った。普段ならどちらか(主にリリア)が食ってかかっても、もう一人(主にカトリーヌ)が冷静に受け流すなり理詰めで反撃するなりで終わっていたところを、今回はどう見ても双方ともに頭に血が上っているのだ。
不毛な罵り合いがもうかれこれ十分近く。しかも徐々にヒートアップして、不穏さが増していくばかり。
「もー知らん、もー頭きたっ! いつもいつもいつもいっっっっつもっ、えっらそーにぃぃぃぃ──っ!!」
頭を振って髪を振り乱したかと思えば、リリアが突然カトリーヌへと距離を詰めた。カトリーヌの左頬めがけて振り上げられる右手。
「──そこまでだ!」
リリアの平手が振り下ろされる寸前、しなるほどに反らされたその手を、無骨な男の手が取った。いつの間にか駆けつけた騎士団長子息デレク・ローヴァンが、二人の小競り合いに割って入ったのだ。
「手まで出るとは穏やかじゃないな……一体どうしたんだ、二人とも。ここは図書室だぞ」
「は!? 部外者が口挟まないでくれない!?」
噛みつくようにデレクに返しながらも、リリアが獣のように凶暴な睨みを注ぐのは一貫して正面のカトリーヌ。対するカトリーヌもま眉を怒らせ燃えるような瞳でリリアを凝視している。
「ローヴァン、横槍は無粋よ」
「……これじゃまともな話し合いにならねぇな。こんな時に生徒会の連中は何を……あっおい!」
強引に手を振り払われて慌てるデレクを放置して、リリアは怒り心頭の前のめり歩法でさっさと図書室を出て行ってしまう。ちょうど図書室にやってきた生徒会長アウレリウスが、入り口ですれ違いざまに首を傾げた。
「……ノトシュ? どうしたんだ、勉強会には出ないのかい?」
「今日はお休みしますっ! 私もう帰るんでっ!」
「そうか? 突然だな。……ああ、それなら先日頼んでおいた書類は……」
「あしたッ!!」
辺り一帯に響き渡らんばかりの声量で憤然と押し切って、リリアの背中はどすどすと遠ざかっていった。
アウレリウスは目を瞬きつつリリアを見送ったのち、ゆるりと室内に視線を返し、苦笑まじりに軽く肩をすくめてみせた。デレクは理解に苦しんでいる表情で呆然と額を抑えるばかり。
当のカトリーヌはすげなく身を翻し、アウレリウスが来たのとは別の出入り口へと向かう。野次馬の人垣がさっと左右に退き散開していく。呼び止める者はいない。
学生たちの流動の合間にも注がれる、さざめくような好奇の眼差し。
その中に、暗く熱を帯びた異質な視線を、カトリーヌは確かに感じていた。
***
怒りの足取りで教室に戻ってきたリリアは、当事者比、異様に口数が少なかった。
「なぁに、どうかしたのリリア〜?」
「べっつに。なんでもないしっ」
平民のクラスメイトが珍しがって笑い含みに声をかけてくるが、すげなく突っぱねて自分の席へと向かう。
リリアは大枠では前世で言うところの陽キャに分類されるが、より詳細な区分においては電波系扱いに属する。そうなると真っ当な貴族の子女からは距離を置かれ、平民の生徒からは珍獣として面白がられイジられるポジションに相当する。
それで困ったことは一度もない。実は伯爵令嬢だなんてこと、周囲も本人も、普段はすっかり忘れている。
「……あ。書類……」
机に突っ込んであった生徒会案件の書類を見つけて、リリアは感情のない声でぼやいた。にらめっこすること、ものの数秒。
「ま、いっか」
リリアは教室背面の自分用のロッカーにちゃっちゃと書類を突っ込んでおざなりに蓋を閉め、足早に教室を後にした。
……放課後の人の流れは速い。だが、教室から完全に人が絶えるまでにはそれなりに時間がかかる。
目的なくうだうだとたむろしていた連中がようやく重い腰を上げて帰宅の途についた時には、すでに西の空は茜色に色づき始めていた。
生徒が去り、枯れた色の斜陽が射し込む教室に、そっと一人、気配を殺して足を踏み入れた人影があった。
忍び込むにしてはうかつな足取りで、けれど素人なりにめいっぱい警戒しながら。彼女は迷いなく教室背面へと歩み寄った。
『リリア・ノトシュ』のロッカーへと。
甘く閉ざされたロッカーの蓋は、持ち主の脇の甘さをそのまま反映しているように見えた。
扉を開くや否や、内部を漁るまでもなく簡単に手に入ってしまった大判の茶封筒に、彼女は喜ぶでもなく、むしろ悔しげにほぞを噛む。
「どうして、こんな女が、あの方の……。──!?」
封筒から取り出した書類の表紙の文字が目に飛び込んだ瞬間、彼女はヒッ、と息を呑んで書類をぶち撒けてしまった。
そこに書かれていた人名は、決してリリア・ノトシュが所持する書類に記載されていてはならない人物の──
「『メア・キルナー子爵令嬢に関する調査報告』」
耳に飛び込んだありえざる人物の声に、彼女は心臓が止まるかと思うような衝撃を覚えた。
身体の一部がもげるのではないかという勢いで振り返った彼女の視界に、そこにいるはずのない女子生徒の姿が飛び込んでくる。
「よく読んでみてはいかが? あなたのための調査書よ。ねぇ──メア・キルナー子爵令嬢」
不敵な笑みに滲み出る、地味に装ってなお隠しきれない美貌。
睨んでいるわけでもないのに他者を圧倒する、強い眼差し。
侯爵令嬢にして生徒会庶務、カトリーヌ・カドレッドその人を前にして、彼女──メア・キルナーは愕然と思考を停止するほかなかった。




