(18)振り下ろされずに済んだこぶし
時間がずいぶんと間延びして感じる。
顔色と表情を失った男子生徒の右手は、血管を浮き上がらせるほどに握りしめられ、振り下ろされようとしている。
カトリーヌの顔面めがけて。
微笑みを浮かべたままのカトリーヌの胸に、恐怖は不思議と湧き上がらない。
ただ、思考だけはずいぶんと騒々しかった。あれが振り下ろされたら痛いだろうとか、痛いのはいやだとか、顔に傷が残ったら面倒だとか、傷だけならまだしも障碍が残ったらまずいとか。
理性と本能が手を取り合って、保身や自己防衛の訴えを忙しなく脳内に明滅させているのに、なぜかそれらはカトリーヌの中で怯えや焦りといった真っ当な感情に繋がらない。
それよりもっと深い、昏い場所からする声が、心臓にまとわりついて、カトリーヌの心を染め抜いていく。
──もう間に合わない。
──何をしても、どうにもならない。
──私の人生なんてこんなもの。
──無駄な足掻きをする必要なんてない。
──そんなことより、
──あの拳が振り下ろされたあとの、破滅を見てみたいじゃない──?
「──おーいそこー!」
場違いに能天気な声が、伸長していた時間の感覚を不意に揺り戻した。
運動のベクトルが確定していたはずの拳は、結局カトリーヌに降ってはこなかった。
男子生徒はびくりと全身を震わせると、身を翻して脱兎のごとく逃げ去った。背を向ける直前の彼がどんな顔をしていたのか、不思議とカトリーヌの記憶には残らなかった。
「んん!? おい待てって、なんで逃げんだ……おいおいおい」
先程割り込んだ第三者の声が背後から歩み寄ってくる。しかしカトリーヌは微動だにせず、振り返らない。
「なあ、おい。えーと……カドレッド?」
ぽん、と肩に大きな手を置かれた瞬間。
カトリーヌの膝が砕けて、その場に崩れ落ちかけた。
「おわぁっ!? だっ、大丈夫かっ!?」
慌てて背後から両腕を掴んで支えてくれた男によって、カトリーヌはなんとかその場にうずくまるのを免れた。
……三日分のエネルギーを一度に消費したような気分だ。脳がまともに働いていないのを自覚しながら、カトリーヌはなんとか自分の足で立ち、漫然と首を動かして、支えてくれた男をぼんやり見上げた。
「ローヴァン……?」
男には見覚えがあった。例によって面識というほどのものではない。
大柄でしっかりした骨格の、引き締まった顔立ちをした男前。短く刈り込んだ夕日色の赤毛は、今は本物の夕映えに照らされて白っぽく見える。
デレク・ローヴァン。学園の有名人の一人。国内で英雄視されている現騎士団長の子息にして、騎士科のエース。
リリア曰くの「デレク様」──攻略対象の一人だ。
気まずげに眉を垂らして顔を掻いていたデレクは、ため息めいた大きめの呼吸をひとつすると、覚悟を決めたようにカトリーヌに向き直り……
勢いよく、両手を打ち合わせた。
「──すまなかったっ!」
「……は?」
謝罪の形に合わせられた無骨な手の向こうで、大柄な男が脈絡なく深々と頭を下げている。
「カトちゃん待った〜? ……え、ナニコレ」
あっさり置き去りにされたこともこの数分で忘却の彼方にぶん投げたらしいリリアが能天気に手を振りながら駆けつけ、目前の意味のわからない状況に目を瞬くと、相手が攻略対象であることも忘れてドン引きした声を零した。
***
「昨日の件は本当に残念ですわ、ローヴァン」
翌日の生徒会室。アンニュイな吐息をついてかぶりを振るヒルデガルトの前に、居住まいを正して座っているのは、昨日の今日でデレク・ローヴァンである。
応接用のテーブルの短辺、普段はめったに使われない上座の一人がけにヒルデガルトが座し、本来は椅子を置かない下座に即席で配置された簡易椅子にデレクが座らされている。いつも使っている長辺のソファで事足りるはずなのにそうしないのだから、なかなかにえげつない構図である。
デレクは口をきつく引き結び、男らしく開いた己の膝に両手を置くと、堂々たる仕草で勢いよく頭を下げた。
「すまなかった! 約束を蔑ろにするつもりはなかったが、事を甘く見て結果としてそうなった。俺が悪かった……!」
「……貴方のその潔さは間違いなく美徳ですわねぇ。けれど、謝る相手を間違っていてよ?」
「ああ、そうだな」
顔を上げたデレクはこれまた潔くうなずくと、武人らしいキレのある動きで身体の向きを切り替えて、今度は長辺のソファで傍観者となっていたカトリーヌとリリアに勢いよく頭を下げてきた。
「俺の甘さで嫌な思いをさせてしまった。本当にすまなかった……!」
「……いや。もういいわよ、それは」
何度目かの謝罪に食傷を起こして、カトリーヌは渋い顔でぼやいた。
なんのことはない。ヒルデガルトは自分が不在の放課後にカトリーヌとリリアを校門まで送るよう、デレクにあらかじめ依頼していたらしい。
そしてデレクがうっかり遅刻した結果、その隙にカトリーヌが例の男に絡まれてしまった、というわけである。
「もともと護衛の必要性なんて想定していなかったもの。手配してもらえていただけ恐縮だし、遅れたとはいえ最終的にはちゃんと来てくれたのだし。文句言える筋合いじゃないわ。……何」
「え、ああ、いや」
意外そうな目つきでカトリーヌを凝視していたデレクは、少しバツが悪そうに視線を泳がせた。見た目にそぐわず殊勝なことを言う女だとでも思っているのだろう。
「その……ノトシュもすまなかった」
「あ、お気になさらず〜」
リリアは絵に描いたような愛想笑いでひらひら手を振った。攻略対象相手にしては、ずいぶんな塩対応である。
ちなみにリリア、来客中はさすがにいつものマスクは外している。ヒルデガルトが同席している間に限り、「良い子」な振る舞いが少しずつできるようになってきたので、今回はいい実践の機会というわけだ。
「謝罪も済んだところで、遅れた理由を聞かせて頂けるかしら?」
ヒルデガルトはそのあたりを曖昧にせずきっちり詰めるタイプである。
デレクは心したと頷き、洗いざらいを簡潔に開示した。
デレク・ローヴァン所属する騎士科は、他の学科と毛色が違う。午前中の基礎課程は共通だが、午後はめいっぱい騎士の訓練だ。身体を鍛え、剣技を磨き、忍耐を身に着け、礼儀と所作を叩き込む。基本は引退した元騎士である学園の教員が指導するが、時々現役の騎士団員が特別講師に招かれる。
昨日はちょうど特別講師の指導の日だった。めったにない機会とあって、最終下校時刻ギリギリまでみっちりとしごかれるそうだ。
とはいえ、授業の枠を越えた時間帯の参加は任意のはずである。にもかかわらず、デレクが用事があるから早めに切り上げたいと申し出たところ、たるんでいると一喝されて解放されなかったのだという。
「クソ体育会系……」
ぼそり、と隣で低い声がしてカトリーヌがさっと目をやると、リリアがやさぐれまくった目をしてどこともしれない低みに視線を固定していた。
なんとなく触れるべからざるものを見た気がして、カトリーヌは何事もなかったかのように視線を戻し、何も見なかったことにした。