2-8:選択
良い日だった思うのは、初めてかもしれない。
広いベッドの上に転がって、星南は天井を見上げた。彫刻の起伏にガス灯の光が影を生み、小波が寄せては引くように見える。
天井くらい、平らでいいのに。
昼間見た厩の天井は、木の骨組みだった。その後一人で入ったお風呂は、吹き抜けのガラス張り。脱衣室の天井はカーテンみたいな布が垂れ下がり、暗ければお化け屋敷だ。何もいないと思ったけれど、好奇心で端から捲っていたら、なんとコリンヌを見つけた。
使用人が不用意に主の身体を見ないようになっている、そうだ。用があれば呼ぶようにと怒られた。
「それから姫様。私をママと呼んでいいのは、二人の時だけですよ?」
「え?」
「ありがとうママ、だなんて…………フェルナン様の前で言われたら、私もう、お叱りを受けるかと生きた心地が」
「…………」
お世話になりましたが、どこかでママに化けたらしい。誤訳怖い。むしろ訳されてすらいない。どうなっているんだ、この口は。
「でも、嬉しゅうございました。私に娘はおりませんので」
「コリンヌさん…………」
ママ禁句のフェルナンの前で言ったから、場の空気を悪くしたのだろう。そう解釈して、彼女が用意し始めた衣装にハッとする。
白い靴下にレースの靴下留め、フリフリレースの七分ガウチョに青いワンピース。安定の白エプロンだ。
「待って、ギルドの制服はありませんか!?」
「ダヴィド様のような事を、おっしゃらないで下さい。姫様はこちらです」
「そこを何とか!」
「本来神人の子どもは、服を着ないで過ごすとか?さぁ、如何致しましょうね?」
どうせアリスですよ。どうせ異世界迷子ですよ。くそう、ウサギは何処だ。毛皮にしてくれる。悶々としながら不思議の国のコスプレで脱衣室を出ると、廊下の寝椅子にオレンジ色の髪を見つけた。
「ダヴィドさん?」
近付いて声を掛ける。本を閉じた彼が、ヒラリと手を振った。
「セナ、腹は減ったか?」
「…………どうしたんですか、その格好」
「ん?」
ダヴィドは前髪を掻き上げて苦笑した。
「今夜は晩餐だ。主人くらいは格式張らねば」
椅子から立ち上がった彼は、金の靴紐が交差する黒いブーツを履き、長い濃緑の上着を着ていた。夕方に向かう弱い光を補うように、ガス灯が明るく燃える。縁取る刺繍がキラキラして見えた。
「なんだか…………」
言いかけて口を噤んだ。何を言っても、マズイ方面に誤訳する自信がある。
性別を超越しかねない麗しき男、エルネスが隣に居るので霞がちだが、彼も普通に容姿は良いのだ。白い立襟のシャツに宝石の首飾り。上着は変わった形の袖が肘まで膨らんで、手の甲までを隠す。深いVネックの襟ぐりに、縁取る刺繍は何かの花のようだ。豪華なベルトに下がる飾りが小さく鳴った。裾はスカートみたいに広がっている。王子様と言うほどヒラヒラじゃない。でも、普段着でもないだろう。
「そうか、セナは此方の事を知らないんだったな」
ダヴィドはその衣装を廊下に広げて、跪いた。
「お手を賜る栄誉を戴けませんか、姫君」
「や、やめて下さい、ダヴィドさんまで姫とか」
「事実だろう?青石の国において神人は王族だ」
「…………ともかく、立って下さい」
「聞こえんな?」
「き、聞こえてるじゃないですか!」
立たせようと出した手を、パシッと掴まれた。彼はニヤっと口角を上げる。
「男に手を差し出すという行為は、身体を預ける、というサインだ」
ダヴィドは片腕に星南を抱いて立ち上がった。
「触れられたくない男には、自分から手を出すな。逆に信頼できる相手には、手を出すようにしろ。他への牽制になる」
「…………」
そんなルールがあるなんて。一から覚える事が多そうで、少し気が重くなる。身体は大人でも、中身は赤ちゃん…………最悪じゃないか。
「見本となる女性を、呼べたら良かったんだが」
「えっと、コリンヌさんは?」
「コリンヌは俺の侍従だが、使用人だ。廊下を並んで歩く事もできん」
どうしてだろう。公私混同を避ける為?乳母って親代わりだよね?廊下を並んで歩けないなんて、不便そうだ。その先を聞きたかったけれど、壁から天井まで絵画の晩餐室に圧倒され、喋らないルールなのか無言の食事が始まった。何も言い出せない苦行のディナーは、銀のカトラリーに銀の皿。テーブルマナーを気にし出すと軽くパニックになっていく。変な汗をかいた。
それで顔色が悪く見えたのだろう。
エルネスが中座して、部屋に戻してくれたのだ。今までのギルド生活からかけ離れた、別世界のような場所。知っている人が居なかったら、違う異世界だと多分泣いた。
でも、誰も戸惑いを見せないのは、これが彼らの日常だからだろうか。狭い部屋で硬いパンやチーズを齧って、野外で鍋を囲む。その姿に違和感はなかったのに。ウスタージュはどうして居ないのだろう。
「考えてもしょうがない」
よいしょと起き上がって、窓際に移動する。履いているのは、柔らかな布の靴。絨毯を踏む感触がサクサクとして心地良い。庭園は真っ暗だ。近くに人家が無いのか明かりも見えなかった。
風の神人と魔人族の国ルーク王国と、火の神人と竜人族の国ドラフェルーン共和国が一つの帝国になったのは、今から三百年程前の事。地上の楽園とも言われる豊かで広大な国は、世界に二つしかない大陸の一方、その大半を占める。青石の国と最南端の聖ネルベンレート王国に隣接し、ギルドの本部があると言うのはエルネスさん情報だ。
青石の国、国名をアジュール。
水の女神の最期の地。宝石の産地。私の親戚が居るかもしれない場所。両親の他界を知らせる事が、残された役目だ。でも、すぐには行けない閉ざされた土地。フェルナンは行った事が無いと言っていた。
「俺が生まれた頃には、とっくに鎖国中。蛇人も見た事ねぇよ。水の神人も初めて見たが…………紫菫の君は、いかにも神人って性格だろう?お前、あんな風に育つなよ」
これ以上育ちませんから!
嫌な事まで思い出してしまった。一先ず今日は寝ようかな。ベッドに足を向けた星南は、背中のリボンやボタンを外しながら歩いた。白いエプロンドレスは難なく脱げて、その辺の椅子に引っ掛ける。問題は、青のワンピースだ。チャックじゃない。ボタンでもない?これはまさか、脱げないパターンか。どんなに頑張っても、自分の背中は見ない。
諦めかけた時、コンコンと部屋の扉が叩かれた。ナイスタイミング。天の助けとばかりに扉を開けた星南は、自分が運に見放されている事を思い出した。
「星南、一緒に寝ないかい?」
「ふ、フランソワ、さん…………」
開けた扉を閉めたくなった。しかも誰と何だって?冗談じゃない。扉を押し開く彼の腕の下を擦り抜けて、星南は廊下に飛び出した。
「一人で大丈夫!」
「あっ、待ちなさい星南、こんな時間に!」
待ったら大変な事になる。薄暗い廊下をダッシュで逃げていると、奥の部屋からダヴィドとエルネスが出てくるのが見えた。
「ダヴィドさん!!」
「セナ」
助けを求めて走って来る少女の後ろに、神人の気配がある。状況を悟ったダヴィドは、苦笑して腕を広げた。何の迷いもなく胸に飛び込んでくる彼女を抱き上げると、息を切らせて背後を指差す。
「ふふふらんそわさんが!寝るって部屋に!」
「夜は寝る時間だろう?それがどうした?」
「ど、どうした、じゃありませんよ!?一緒に寝ようって、言われたんですよ!!」
「同じ種族同士、一緒に寝れば良いだろう?彼は明日にでも青石の国へ帰ってしまうぞ?」
口角を上げるダヴィドに、このまま引き渡されるのでは、と不安が過ぎる。星南は、離さないとばかりに首にしがみ付いた。
「星南のお気に入りはフー・ダヴィド、君か。参ったな、こんなに嫌われたとは思わなかった」
「セーナは人見知りするんですよ」
エルネスがフォローすると、フランソワは溜息交じりに苦笑した。
「仕方ない、僕はまたの機会にするよ」
「よき眠りを、水の君」
遠ざかる足音に、そっと背後を窺う。来た道を引き返していくフランソワが見えた。星南は安堵の息をつく。
「随分苦手なようですね」
「…………ごめんなさい」
「謝る必要はありませんよ。これで仲良しアピールは完璧です」
「さて、俺達も寝るか」
ダヴィドが歩き出す。エルネスがクスッと笑って、ちょっと気分が良いですね、と口元を押さえた。
「完全勝利とはいかんがな」
「セーナに助けられましたからね。まさか迷わず舐めるとは」
「あっ、あれは!」
そう言われて、考えないようにしていた事を思い出す。フェルナンが噛んだ場所を、私は…………ぼんっと顔が熱くなった。
「だって、だってっ!」
「反応が薄いと思ったら、気が付かなかったんですか?フェルが口付けた場所に貴女――――」
「言わないでーっ!!」
エルネスとダヴィドが、揃って笑い声をあげた。
「お前は時間差で照れるのか?」
「気付かないと許容内ですか。これはこれは」
あわあわ弁明するほど深みに嵌まる。部屋に着く頃、すっかり星南は拗ねていた。
「エルネスさんは、噛まれる側の苦痛を分かってません」
「噛まれる方が断然楽ですよ?むしろ、噛まない方が一般的です」
「え?」
「では私はこの辺で」
ニコっと笑って、エルネスが踵を返す。
「待って下さい!その話の続き――――」
言いかけた星南の口を、ダヴィドが塞いだ。
「エル、ここまで来て帰るのか?お前も来い」
「…………嫌ですよ。やっとベタベタくっ付く駄目父と離れて来たのに、子守までさせるつもりですか?」
「エルの話が気になるなぁ?弱っている今夜は、色々聞き出す、チャンスかもしれないぞ?」
ダヴィドの手が離れた瞬間に、星南はまんまと叫んだ。
「帰っちゃダメ!」
「姫君のご指名だ。逃がさんぞ」
「セーナ、貴女後悔しますよ」
今夜の自分はツイている。そう思う時に限って、ろくな事が無い。部屋に入った途端、星南はダヴィドにワンピースを脱がされた。
「子どもに夜更かしはさせられん」
言っている事はマトモだが、脱がせてなんて頼んでいない。
「何するんですかっ!」
「寝るんだろうが」
「あまり騒がないで下さいね。先に休みますよ」
そう言ったエルネスがジャケットを脱ぎ出したので、星南はいよいよ青くなった。休むってどこで?どうしてココで脱いでるの!?
「エ、エルネスさんっ!」
「普通は何も着ないで眠るんですが…………セーナは耐性が無さそうですからね?さて、何処まで脱ぎましょうか」
――――夜が楽しみだな。
フェルナンに聞きそびれた事を思い出した。寝巻を着るのは病人だけだ。他の人は…………まさか着ないの!?クラっと魂が抜けている間に、それ以上脱げない下着にさせられて、ベッドの上に降ろされる。近くにあったクッションを力任せに投げつけると、ダヴィドはエルネスと話ながら、難なくそれを受け止めた。
「俺達は夜着を用意する。セナ、物を投げるな」
このままだと、一睡も出来ない恐怖の添い寝コースだ。エルネスを引き留めた事が悔やまれる。
お言葉通り、私は後悔しました。お願い帰って!もう一つ背後のクッションを投げようと掴んだところで、足首を掴まれベッドに引き倒される。ダヴィドがニコニコ笑いながら、覆い被さるように身体を倒してきた。
「脱ぎ足りないか?早く寝ろ」
「寝ますッ!!」
一目散に布団へ逃げ込んだ。ダヴィドさんの意地悪。私が一人で寝れるの知ってる癖に。どうにか先に寝てしまおうと頑張ったけれど、興奮しすぎたせいか眠気が遥か彼方だ。
「セーナ、泣いているんですか?」
音もなくスプリングが沈んで、エルネスがベッドに入ってくる。ベッドボードに背を預けて溜息をついた彼は、色使いは、と独り言のように話し出した。
「大神が創造した自然を染める色を、血を対価に借りる事の出来る人間です。でも、それで失った色は、寝ても回復する事が出来ません。他者の持つ色でしか補えない。同性よりは異性。肉体の持つ色より、精神の持つ色の方が濃く、提供を受ける側の負担は少なくなります」
聞いていますか、と髪を撫でられる。枕に埋めていた顔を上げると、淡いグリーンの夜着を着たエルネスが微笑んだ。
「ダヴィドの悪ふざけには注意なさい」
「なんだ、俺が悪いみたいに」
逆側にダヴィドが入ってくる。体格の違いに掛布団には隙間が開いて、冷たい空気が肌に触れた。俯せの身体を、枕を抱いて横にする。この二人に挟まれて寝るなんて、絶対に出来ない。私は何処で選択を間違えたんだろう。




