2-7:アシャール家
異世界の事務職とは、随分アクティブな事をするらしい。星南はすぐさま割り切った。ブラック具合ならウチの会社といい勝負!
「だから、何ですか。私だって事務職でした」
「本当に労働してたのかい?」
「成人は二十歳なんですよ…………!働いていて当然です。一人で生きていて、当然なんです!この世界では子どもかもしれませんけど。今まで私は、そんな風に育ってきては、いないんですっ!」
言えば言うほど、子どもの癇癪みたいだ。
そう思って唇を噛む。大人って何?常に冷静?泣いちゃ駄目?そんなの到底、真似出来ない。
「紫菫の君、私達に任せてはいただけませんか?彼女の存在を広める事は、得策ではない筈です」
エルネスの穏やかな声に、荒れていた気持ちが少し和んだ。説得するには、言葉を重ねるしかない。
落ち着け、私には仲間がいる。
「他のパーティーなんて嫌です。絶対に」
「…………余程、金糸雀が気に入ったんだね。いいよ、確かに彼らも悪くない」
フランソワが諦めたように息をついた。
「ただし、今から言う事が問題なく出来る、なら」
彼は不吉な笑みを浮かべて、フェルナンを指す。
「彼に色を提供して、その傷を癒してみせて」
「えっ!?」
「げっ!」
「ちょっと待て、セナはまだ貧血だ」
ダヴィドがストップをかけたものの、そんなに色を抜けとは言わないよ、とフランソワは微笑んだ。
「イリス・エルネスワールの異常な精神力は、今の星南を見れば信じてもいい。自分を辱めた男の膝を、望む筈がないからね。僕の懸念はあと一つ。色使いの彼が何処まで信用できるのか、という事だ」
「…………私が異常だと、フェルは尋常ですが」
溜息交じりに言ったエルネスが、白手袋に包まれた指で、星南の左手を掬い上げる。
「さぁ、踏ん張りどころです」
「は、はい」
ここで彼に噛まれろと。フランソワさんなんて、嫌いだ!涙目で睨むと、意地の悪そうな笑顔を返された。なんて悪い大人なんだ。出来ないと泣いて、諦めるとでも思ったの!?
売られたケンカは買いますよっ!
フェルナンが!!
「くっそ、だから神人は嫌なんだ…………!」
立ち上がった彼は、ものすごく不機嫌そうな顔だった。私だってイヤですよ!当て付けに睨むと、鼻で笑われる。自分は痛くないからって!!
「セーナ、釦を外して」
エルネスに言われて、渋々左袖のカフスボタンを外す。本当は怖い。だって痛いだけじゃない。
「大丈夫ですよ。フェルは器用です」
「エルネスさん…………」
震える指先に力を入れた。これはパフォーマンスだ。怖がっているところなんて、見せられない。
「セナ」
低い声で呼ばれて、見おろしてくるフェルナンを見上げる。すました顔に、無性にイラッとした。
「星南です!何時までも偽名で呼ばないで!」
緑と黄色、二色の瞳が丸くなる。その後ぷっと吹き出した。
「強がってると、余計子どもに見えるぞ」
「大きなお世話です!」
「手を出せ、星南」
「っ!」
な、なによ、余裕なの!?
悔し紛れにずいっと左手を突き付けると、溜息交じりに指先を取られる。
「一応聞くけど…………治癒なんて出来るのか?」
「…………さ、さぁ?」
フェルナンがスッと顔を寄せてきた。仰け反りそうになるものの、膝の上に横座りでは逃げ場がない。髪を揺らす吐息と共に、全く出来ないのか、と小さな声が聞こえる。
「ど、どうしよう」
「水の神人は、生まれながらに治癒の力を持つといいます」
エルネスが穏やかに微笑む。
「貴女は水の神人です。自身のみならず、他者の傷さえ癒せる筈ですよ」
「なら、まずは俺で練習しろ」
「えっ!?」
するりと指先を放されて、フェルナンは迷いなく左の手袋を脱ぐ。止める間もなく開いた口に、鋭い牙が見えた。
「ほら」
ぽたりと赤い血が落ちた。スカートの白い場所に、生々しい水玉模様ができる。
「痛くないのっ!?」
差し出された手を慌てて掴んだ。小指の下、手の平からどんどん血が溢れ出す。刺し傷が一つ。手をひっくり返して、甲が無傷なのを確かめる。まずは圧迫。でも清潔な布なんて今は無い。
手をかざして傷が癒せるなら、私は日本で教祖にでもなっていた。魔法なんて、生まれて此の方使った事が無い。
どうしよう。
フェルナンを見上げる。不機嫌そうな表情の中に、何時もの険がない。練習でこんな怪我をしてくれる彼は、分かり難いけれど優しい。いきなり噛まれていたら、何も考える余裕は無かった。だったら今は、やれるだけの事をしなくては。
患部は手。私は変な病気を持ってない。覚悟を決めて傷に顔を寄せる。流れる血をさかのぼって、傷に口付けた。覚えのある不味さが口に広がる。フェルナンもエルネスさんも、吸血鬼みたいに血を飲んでいるようには見えない。血が美味しいようにも見えなかった。色を提供するって何なのだろう。迷いながら傷を舌で圧迫する。唾液による消毒と体温による加熱で、血の止まりは早まる筈だ。
舐めると汚いなんて、もはや古い話。
身体には、死なない工夫が隠されている。これでも看護師の娘。救急法の資格は一応取ったのだ。
「…………負けたな」
フランソワが呟いた。水の女神は命と浄化を司る。だから、水の神人と蛇人族の体液には、命ある限り治癒の加護が宿るのだ。
血の味は、すぐにしなくなった。星南がそっと顔を上げると、綺麗なフェルナンの手が見える。言葉もなく目を見開いていると、完治した彼の手に左手首を掴まれた。
「上出来だ。もうひと仕事頑張れ」
口が開くのが見える。星南は身構える事もできず、そのまま噛まれた。痛すぎて呼吸が一瞬止まる。無意識に逃げを打つ身体を、エルネスがそっと抱きしめた。
「っ!」
肌が泡立つ。体温より少し高い何かが、皮膚の下をザワリと巡る。けれど、それ以上の衝撃が来ない。
「さっさと治せ」
「…………あ、あれ?」
すんなり手を離された。拍子抜けした星南は、だらっと流れる血にぎょっとして、急いで口に含む。やっぱり不味い血の味だ。
「紫菫の君、金糸雀の色使いは優秀でしょう?」
「水の神人相手に完全負担とか…………どういう神経してるのか疑うレベルなんだけど…………僕の方が酔いそうだ。フー・ダヴィド、地図はあるかい?星南は金糸雀に任せるよ」
ダヴィドがヒラッと手を振って席を立つ。それを目で追いながら、星南は手から顔を上げた。傷が見事に無くなっている。
「私、なんか、凄いかも」
呆然と呟くと、舐めなくても治せるように練習しましょう、とエルネスが笑う。
「そんな事出来るんですか?」
「残念ながら、今の星南には出来ないよ」
横からフランソワが言った。貴女には祝福が一切使えないからね、としおらしく困った顔をしているけれど、向ける視線がキツくなるのは仕方ない。
「こっちにおいで星南。お詫びに、服の血を抜いてあげるから」
「…………」
嫌だとエルネスの服を掴んで主張する。血なんて、その日の内に水で洗えば、大体綺麗に取れのだ。絶対近くに行きたくない。
「お前の同族だぞ」
不本意な事を言うフェルナンを睨むと、立てないんじゃないだろうな、と顔を顰められた。
「そんな筈無いでしょう?」
エルネスに膝から降ろされて、背中を押される。やっぱり行かないといけないらしい。
「怒らないで星南。僕は貴女が心配なんだ」
「…………」
「難しいな。若い子の相手なんて久しぶり過ぎて、加減が分からないや。何もしないから、睨まないで、ね?」
「睨んでません」
「つれないな」
フランソワが席を立つ。数歩の距離を詰めて、彼は足元に跪いた。
「僕が今からする事は、水の祝福の一つだよ。その首飾りが貴女を影響から守るだろう。でもね、白飾銀はとても危険な物だ。身に付けている事を、他の神人に悟らせてはいけないよ。命に係るからね」
「…………はい」
答えると、彼の指がスカートのシミに伸びた。泡のような光が小さく見えて、あっという間に何も無くなる。
「外で遊んでおいで。僕が居なくなると、屋敷から出る事も難しくなる」
「…………っ!」
強烈な子ども扱いに、そのまま蹴り飛ばしてやろうかと思った。けれど、腕を後ろに引かれる。
「彼から見れば、誰もが子どもですよ。セーナ、その手に乗ってはいけません」
「秋薔薇でも見てくるか?」
やれやれといった様子のフェルナンが、馬もいる、と小さく付け足す。それに釣られた。
「行く!」
「来い」
銀白色の髪の流れる背中を追うと、ちょうど戻って来たダヴィドが扉を開けてくれた。
「フェル坊、飽きたのか?」
「俺じゃねぇよ!」
「わっ、私でも無いです!」
ダヴィドはニヤニヤ笑って手を振った。
「秋薔薇が見頃だぞ。何か羽織って行け」
「はーい」
そのまま部屋から飛び出すと、フェルナンに手を掴まれる。走るな、と短く苦言。後は無言で歩き出した。長い廊下には、相変わらず人気が無い。
「フェルナン?」
呼んでみると、二色の瞳がこちらを向く。
「ここ、他に誰も居ないの?」
「…………使用人の事か?」
「使用人?コリンヌさんは?」
「コリンヌも使用人だ。普通は呼ばない限り姿を見せない。なんだ、寂しいのか?」
「…………」
頭を使うようになったな。
黙った星南に、フェルナンは唇を僅かに吊り上げた。思念語を使うようになった彼女の口は、声と全く連動しない。それでも短い付き合いの間に、幾つかの口癖は覚えてしまった。不思議とそれを、言わせてみたくなる。
「頼んでやろうか?」
「何を?」
「寂しいんだろう?頼めば添い寝だってしてくれる」
「えっ!?」
「コリンヌで不服なら、エルネスさんでもいい」
「そ、それだけはやめて!!」
「何だその反応は。ダヴィドさんが良いのか」
「いやいやいや、なに言ってんの!?」
なんで昼間から添い寝の話!?
一人で寝れますよ。むしろどうして添い寝ネタ?まさか子どもって、一人で寝ない世界なの?
「フェルナンは添い寝してもらってるの?」
「知ってどうする?」
「なんで寂しいと、添い寝になるの?」
「…………この国は寒いんだよ」
フェルナンはフッと息を吐いた。向けてくる笑顔が不思議とキラキラして見える。疲れ目か?
「寝る時に夜着を着るのは、病人だけだ」
「病気じゃない人は、何を着るの?」
「…………ふうん?そういう環境で育ったワケ」
「な、なに…………?」
「夜が楽しみだな」
「えっ!?」
どんなに尋ねても、彼は教えてくれなかった。はぐらかされ、薔薇で気を反らされて、馬に夢中になっている間に夕方になる。星南はすっかり疑問を忘れた。
「庭は楽しめましたか?」
エルネスに玄関ホールで迎えられ、見てきた薔薇と紺色の馬について報告をする。薔薇は確かに綺麗だったし、馬は大歓迎ムードで人懐っこかった。
「貴女は馬が好きですね。薔薇の移り香を期待していたのに、干し草のにおいがしますよ」
「えっ!?」
「ソイツは馬にべろんべろんに舐められて、厩の隅に追い詰められてたんだ。さっさと風呂行けよ」
「ハ、ハイ!」
ともかく走り出した星南は、すぐにUターンしてフェルナンに駆け寄った。
「お風呂って何処!?勝手に使って良いの?着替えは持参?出来たらギルドの制服がいいんだけれど、無いかな!?」
「一度に言うな、落ち着きを持て!」
「じゃあ、コリンヌさんは?」
「…………して欲しいのは、どれだ!?」
「お風呂はどこですか…………」
フェルナンが額を押さえた。それを見ていたエルネスが、クスクス笑いだす。
「セーナは、そういう風に話していたんですね」
「そういう風ってなんですか…………」
別に面白い事は話していない。誤訳していなければ。恨めしげにエルネスを見ると、腕を組んだ彼は苦笑した。
「それは今度試してみましょうか。さあ、早く湯を浴びてきなさい。今夜は晩餐をするそうです」
「面倒くせぇ…………」
「フェル、貴方も馬臭いですよ」
ムスッとエルネスを睨んだフェルナンは、馬肉でも食べますかね、と踵を返した彼に一抹の不安を覚えた。アシャール家の馬が危ない。




