番外編 帰る場所は、いつもすぐそこに君がいた(樹視点)
閉店後の店内は静かだった。
最後の客を見送り、樹はカウンターの片付けを終える。
窓の外では春の夜風が花を揺らしていた。
ふと視線を向ける。
窓際の席。
そこには若葉がいた。
本を読んでいる途中だったのだろう。
文庫本を膝に乗せたまま眠っている。
樹は思わず笑った。
「本当に無防備だな」
小さく呟く。
もちろん返事はない。
若葉は気持ちよさそうに眠っていた。
十年前もそうだった。
安心すると少しだけ気が緩む。
それを本人は隠しているつもりらしい。
けれど樹には分かっていた。
若葉はずっと気を張って生きてきた人だから。
誰かの顔色を見て。
空気を読んで。
嫌われないように笑って。
傷つかないように先に離れて。
そうやって自分を守ってきた。
だからこそ。
今こうして安心した顔で眠っていることが嬉しかった。
樹はそっと文庫本へ視線を落とす。
ページの間から青い押し花のしおりが覗いていた。
河川敷で見つけた小さな花。
十年前、留学前に渡したものだ。
若葉はまだ持っていた。
胸の奥が温かくなる。
あの日の空港を思い出した。
◇
若葉が留学すると聞いた時、本当は引き止めたかった。
行くなと言いたかった。
一緒にいてほしいと思った。
けれど言えなかった。
若葉の夢だと知っていたから。
安心できる場所を探していたことも。
今の自分を変えたいと思っていたことも。
全部知っていたから。
だから笑った。
「頑張っておいで」
本当は好きだと言いたかったのに。
空港で背中を見送ったあと。
しばらく動けなかったことを今でも覚えている。
若葉が振り返った時。
泣きそうな顔をしていたことも。
全部覚えている。
忘れたことなんて一度もなかった。
十年は長かった。
花屋で働いて。
店を持って。
忙しく毎日を過ごした。
気づけば三十二歳になっていた。
もちろん出会いがなかったわけではない。
友人に紹介されたこともあった。
食事へ行った女性もいる。
好意を向けられたことだってあった。
けれど、どれも続かなかった。
誰かが悪かったわけじゃない。
一緒にいて楽しくないわけでもない。
居心地が悪いわけでもない。
それなのに、どこか違った。
帰り道になると、ふと思い出してしまう。
学食の窓際。
河川敷の夕暮れ。
風邪を引いて少し弱った若葉。
そして、よく笑う横顔。
比べるつもりはなかった。
そんなことをしてはいけないとも思っていた。
それでも思い出してしまった。
若葉と一緒にいた時の安心感を。
ただ隣にいるだけで落ち着く感覚を。
だから忘れようとしたこともある。
もう十年だ。
若葉には若葉の人生がある。
結婚しているかもしれない。
誰かと幸せになっているかもしれない。
そう自分に言い聞かせた。
それでいい。
若葉が幸せなら、それでいいと。
けれど本当は。
春になるたびに期待していた。
もしかしたら。
いつか帰ってくるかもしれない。
そんな都合のいい希望を、どうしても捨てきれなかった。
だから。
同窓会で再会した時は信じられなかった。
目の前に若葉がいる。
笑っている。
話している。
十年間会えなかった人が、そこにいた。
胸が苦しくなるほど嬉しかった。
会いたかった。
本当に。
そして気づいた。
やっぱり好きだった。
十年経っても変わらないくらい。
若葉が好きだった。
若葉は戻ってきた。
自分の足で。
自分の意思で。
あの日、空港で見送った場所から。
遠回りをして。
たくさん悩んで。
たくさん傷ついて。
それでも戻ってきた。
そして今。
こうして目の前で眠っている。
若葉が小さく身じろぎした。
樹は我に返る。
肩が少し寒そうだった。
近くにあったブランケットをそっと掛ける。
若葉は眠ったまま少し笑う。
その表情を見ていると、不思議と胸が満たされた。
昔は思っていた。
若葉の帰る場所になれたらいいと。
安心できる場所でありたいと。
けれど今は少し違う。
帰る場所は一方通行じゃない。
自分もまた救われていた。
若葉がいたから頑張れた。
若葉がいたから待てた。
若葉がいたから、諦めずにいられた。
帰る場所を探していたのは、自分も同じだったのだ。
樹は眠る若葉を見つめる。
笑う日もあるだろう。
泣く日もあるだろう。
迷う日だってきっとある。
それでも。
今度は一人じゃない。
もう手放したくない。
いや。
手放さない。
十年前の自分には言えなかった言葉を、今なら言える気がした。
若葉は眠ったまま小さく笑う。
まるで答えをくれたみたいに。
樹も笑った。
そして静かに思う。
ようやく見つけた。
帰りたいと思える場所を。
そして――
ようやく、その場所になれた気がした。
窓の外では春の夜風が花を揺らしている。
店内には穏やかな静けさが満ちていた。
樹はそっと若葉の髪を撫でる。
すると若葉が小さく身じろぎしながら、うっすらと目を開けた。
「……樹?」
「起きた?」
「寝ちゃってた……」
恥ずかしそうに笑う若葉に、樹も笑う。
「よく眠ってた」
「ごめん」
「別にいいよ」
若葉は膝の上の文庫本を見下ろした。
その間には、青い押し花のしおりが挟まれている。
十年もの間、大切に持っていてくれた証だった。
若葉が照れたようにしおりへ触れる。
「樹からもらったこのしおり、まだ使ってるんだ」
「知ってる」
「捨てられなかったの」
樹は優しく目を細めた。
捨てられなかったのは、きっとしおりだけじゃない。
自分も同じだったから。
十年間。
ずっと。
若葉は少しだけ笑う。
その笑顔は穏やかだった。
昔よりも。
ずっと。
樹はそんな若葉の手をそっと握る。
若葉も自然に握り返してくれた。
その温もりが嬉しかった。
遠回りをした。
たくさん待った。
たくさん願った。
それでも。
今なら思える。
全部無駄じゃなかったと。
帰る場所は。
探し続けた先にあったわけじゃない。
ずっと前から。
いつもすぐそこに。
君がいた。
【完】
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
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月曜21時より、新作
『「あなたも家族だから」と言われて嫁いだ公爵家では、私だけが家族ではありませんでした ~のしを付けて、お返しいたしますわ~』
を投稿予定です。
スカッとしながらも、最後は温かな気持ちになれる物語です。
よろしければ、ぜひ読みに来ていただけると嬉しいです。




