第1怪 ひとりかくれんぼ編①
「ねえ、知ってる? 午前三時、一人きりの部屋でやる『特別な遊び』のこと」
始まりは、そんな他愛もないネットの書き込みだった。
まず、お人形の綿を全部抜き、代わりにたっぷりのお米を詰める。お米は、お人形にとっての『内臓』。
次に、自分の爪や髪を入れ、真っ赤な糸でぐるぐる巻きに縫い合わせる。赤い糸は、お人形にとっての『血管』。
準備ができたら、刃物を持ったお人形を水の張った浴槽に沈め、家中の明かりを消して、テレビを砂嵐にする……
そうすれば、遊びの始まり。
けれど、絶対に忘れてはいけない。「見ぃつけた」という声が聞こえても、決して振り向いてはいけない。
声の主はもう、あなたの大切なお人形ではない。あなたの「中身」を欲しがっている、「なにか」なのだからーー
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ぺた……、ぺた……
背後から聞こえる、濡れた布をコンクリートに叩きつけるような湿った足音。
雑踏の中、どれだけ歩調を早めても、その音は一定の距離を保って僕の鼓動に重なってくる。
「……はあ、はあ……っ」
振り向いてはいけない。そう本能が告げていた。
数日前、サークルの先輩と一緒に見つけた掲示板、そこに記載されていた『ひとりかくれんぼ』。手順通りに人形を刃物で刺し、塩水で口をすすぎ、遊びの終了を宣言したはずだった。なのに、あの儀式は終わっていなかった。
白昼堂々の駅前でも、深夜の自室でも、常に誰かが僕の項をじっと見つめているような、ねっとりとした視線が消えない。
もう、三日もまともに眠っていない。視界の端には常に「それ」の影がチラつき、現実と悪夢の境界が溶け始めていた。
「助けて……誰か……」
震える足で逃げ込んだのは、ビルとビルの隙間にある、湿り気の強い細い路地裏だった。
そこで、かすむ視界に飛び込んできたのは、ひどく場違いで、けれど今の僕には唯一の蜘蛛の糸に見えた小さな看板。
『怪異探偵事務所』
祈るような思いで扉に手をかけ、押し開いた。
カウベルが乾いた音を鳴らし、それと同時に、鼻を突くタバコの匂いが肺に流れ込んでくる。
外の湿った恐怖とは対照的な、ひどく静かで、どこか浮世離れした空間。
「……んあ?」
部屋の奥、デスクに座っていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。
涼しげな瞳に、完璧に着こなした濃紺のスーツ、艶やかな黒のロングヘア。一見すれば大企業の秘書か何かと見紛うような美貌を持った女性だ。
けれど、その指先には火のついたタバコが挟まれ、デスクの上には彼女の美貌には似つかわしくない恐らく競馬雑誌であろう「週刊馬鹿野郎」という雑誌が広げられている。
「……あの、助けて、ください。後ろに……」
声が震えて、うまく言葉にならない。
どうせ信じてもらえない。警察に言っても「精神科へ行け」とあしらわれるだけだったんだ。
ここだって、きっとーー
「なんや、自分えらい顔色悪いやん」
不意に、彼女の口から柔らかな関西弁が漏れた。
彼女はタバコを灰皿に押し付けると、椅子から立ち上がり、棚からマグカップを取り出した。
「まぁコーヒーでも淹れたるから、ゆっくり座って飲み。話はそれからや。なっ?」
向けられたのは、疑いや蔑みの視線ではない、当たり前のような優しさだった。
僕は子供のように声を上げて泣き崩れ、熱いコーヒーを啜りながら、数日前に始めた遊び、終わらない儀式、ずっと感じている視線のこと……その支離滅裂な惨状を一気に吐き出した。
彼女は、一度も遮ることなく最後まで聞いた。
「……なるほどな。災難やったな、自分」
彼女ーー笹原杏子さんは、深くタバコの煙を吐き出した。
「笹原さんは信じて……くれるんですか? こんな、デタラメみたいな話」
「杏子でええよ。自分嘘ついてるんとちゃうんやろ?」
「も、勿論です!」
「ほな、信じるに決まってるやん。そんなもんおらへんって切り捨てる証拠もないなら、おるって事や」
彼女は不敵に笑い、競馬本をバサリと閉じると、タバコの灰を灰皿へトントンと落とす、同時にタバコの煙が不自然に揺れるーー
ーーその瞬間、彼女の纏う空気が、獲物を逃さない「狩人」のそれへと一変したのを僕は肌で感じた。
「ほなーー怪異退治でも始めよか」
その時だった。
杏子さんが吸うタバコの煙が、突如として生き物のように不気味にのたうち回った。
「杏子さん……?」
「動くな。そこ座っとけ」
彼女の言葉は短く、そして鋭い。
さっきまでの緩い雰囲気は消え失せ、その瞳は鋭利な光を宿している。
コンコンッ
事務所の古い扉から、ノックする音が鳴り響いた。
コンコンッコンコン
人間が鳴らしたものとは思えないほど無機質で、一定のリズムを刻む不気味なノック音。
「……杏子、さん」
僕が息を呑んだ瞬間、建付けの悪い扉が、ひとりでにギィ……と嫌な音を立ててゆっくりと開いた。
そこにいたのは、一匹の「熊のぬいぐるみ」だった。
カリカリ、カリ……
かつては愛らしかったその姿は薄汚れ、小さな手には鈍い光を放つ血濡れた包丁が握られていた。それは体躯よりも大きく、床を切り裂くように引き摺られている。あいつが、僕を追い回していた元凶だ。
ぺた……ぺた……
濡れた足音が事務所の床に響く。
「……なるほどなぁ。不法侵入の上に凶器携帯、いや、殺意満々やから殺人未遂手前ってとこやな」
杏子さんは背筋を伸ばし、タバコの火をジュっと灰皿で消すと、ぬいぐるみに向かって指先で弾き飛ばした。
「自分、そこ動くなよ」
鋭い警告と共に、彼女の体がゴムの様に弾かれる。
「おりゃ!」
一切の無駄がない踏み込み。彼女が放った強烈な回し蹴りが、包丁を振り上げながら近付いてきたぬいぐるみの胴体を正確に捉えた。
バシィッ!
鋭い衝撃音が響き、ぬいぐるみは紙屑のように壁まで吹き飛ばされる。
しかしーー
「……なん、で」
壁に叩きつけられたぬいぐるみは、ダメージを受けた様子もなく、まるで僕達に見せつけるかのように、物理法則を無視した奇妙な挙動で即座に起き上がった。綿がはみ出すことも、包丁を落とすことさえない。
〈ぼ僕、『嬉野蓮』だだ、よ〉
それは生物としての痛覚も、物体としての破損限界も持たない「化け物」そのものだった。
ぬいぐるみは包丁を握り直し、躊躇なく彼女に向かっていく。ドタドタとした、たどたどしい走り方、しかしその殺意は本物。迷いなく包丁の切っ先を彼女に突き出した。
「シッ!」
杏子さんは怖気づく事なく、綺麗な右前蹴りで包丁を靴で跳ね上げ、足を素早くスイッチし、左回し蹴りでぬいぐるみを壁に向かって蹴り飛ばした。
ベシッ!
ぬいぐるみは勢い良く壁に叩き付けられる、だけどやっぱりまるで堪えていないように、包丁を見せつけるようにちらつかせて、悠々と立ち上がる。
「ちっ……やっぱり効かへんか」
包丁を構えて迫ってくるぬいぐるみに対し、杏子さんは一瞬で状況を判断した。
杏子さんは腰を抜かしていた僕の襟首を、まるで荷物でも扱うように強引に掴み上げた。
「埒が明かへんから、一旦撤退や! 走るで!」
「え、えええっ!?」
杏子さんの叫びと共に、僕たちは夜の帳が下り始めた街へと飛び出す。
背後からは、あの「ぺた、ぺた」という湿った足音が、執拗に、どこまでも追いかけてきていた。
〈ぼくはは、1人、僕が、本物ななんだ…お、俺が蓮だ〉




