01 魔王、猫になる
「魔王アルデルヴィオン! 魔族に殺された人間の恨み、思い知れぇぇっ!」
魔王城の上階にある玉座の間。その大窓には、大きな赤い月が浮かんでいた。
目の前では勇者が威勢よく叫んでいる。
彼らにとって、ついにたどり着いた最終決戦——のはずだった。
肘掛けに肘をつき、魔王アルデルヴィオンは金色の瞳で、剣を構える男を冷ややかに見つめた。
(……いや、我ら魔族はここ三百年、人間界に干渉してないんだが)
「今日こそ貴様を倒し、世界に平和を取り戻す!」
(ていうか、このところ毎週のように勇者来てるんだけど。正直、このレベルの雑魚なら門番で十分であろうに……)
周囲に視線を走らせるも、部下の気配は皆無。
……確信した。
(あいつら、またサボっておるな)
アルデルヴィオンは、ため息をつきながら立ち上がった。艶やかな長い黒髪がさらりと揺れ、黒繻子の裾が優雅にはためく。
「虫けらどもが、余の前に立つなど百年早いわ!」
勇者が剣を握り直し、後ろの魔術師が慌てて杖を振りかざした——瞬間。
魔王が軽く手をひと振りすると、凄まじい旋風が巻き起こり、自称勇者一行は絶叫と共に豪快に窓から放り出されていった。
一瞬にして静まり返った部屋で、魔王がポツリと呟く。
「……つまらん」
残された石床には、髪の毛一本落ちていない。先ほどの旋風が、塵も埃も勇者もまとめて窓の外へ運び去ったのだ。
アルデルヴィオンは、ゆっくりと玉座に座り直した。
するとタイミングを見計らったかのように、パタパタと背中のコウモリの羽を羽ばたかせ、箒を担いだ少女がやってきた。
「魔王様ー、ここ掃除しますね……って、あれ? なんか部屋キレイになってます?」
アルデルヴィオンは肘掛けを握り締め、眉間にわずかな溝を刻んだ。
「今、勇者どもを吹き飛ばしたところだ!」
「あー、じゃあ掃除の必要ナシですね!」
くるりと背を向けようとする掃除係の少女を、魔王は慌てて呼び止める。
「待てイゼルナ! ネヴィルを呼んでこい!」
「えぇー!? 副官なら今お茶の時間ですよ?」
魔王の頬がぴくりと歪んだ。
「余に勇者の相手をさせておいて、自分は菓子を食っているのか!? いいから早く呼んでこい!」
怒鳴られたイゼルナは、小さな羽をバタバタさせながら部屋を飛び出していった。
しばらくして、眼鏡をかけた副官ネヴィルが背筋を伸ばし、湯気の立つトレイを手に現れた。
「そう急かさずとも、ちゃんと魔王様の分のおやつもありますから」
「余が呼んだのはおやつの催促ではない!」
ネヴィルは眼鏡の奥で目をパチクリと瞬いた。
「では、おやつはいらないと? 魔界名物『死人の指』と『不死鳥の羽茶』でございますが」
「誰がいらんと言った!」
即答したアルデルヴィオンは、運ばれてきた『死人の指』——細長い蒸しパンに血のようなイチゴソースがかかったスイーツ——をパクリと口に放り込んだ。
「お前たち、最近サボりすぎではないか? なぜあの程度の勇者が余のところまで入ってくるのだ」
「いえね、せっかく魔王城まで来たのですから、魔王様の麗しいお顔ぐらい拝ませてやろうという親心ですよ」
「くだらん親心で余に仕事を増やすな! そもそも人間界とは長らく関わっておらんのに、なぜ余が人間の恨みを受けねばならん!」
ゴホゴホと喉を詰まらせかけ、慌ててアルデルヴィオンは茶で流し込んだ。ネヴィルは眼鏡をハンカチで拭きながら、飄々と言い放つ。
「まあ、下っ端の魔族が勝手に人間にちょっかい出してるんでしょうねぇ」
「まったく……面倒な。今すぐ『人に関わるな』と通達を出しておけ」
玉座に深々と身体を沈め、ぐったりとする魔王に、ネヴィルは「お疲れですね」と微笑んだ。
「気分転換に火山の麓の温泉でも行かれては? 煮えたぎる湯に入れば疲れも吹き飛びますよ」
「……気が向いたらな」
ネヴィルとイゼルナが下がり、ひとりになったアルデルヴィオンは衣擦れの音を立てながら、吹きさらしの廊下へと出た。赤い月が丸く空に浮かんでいる。
(温泉か……悪くないな)
そんなことを考えていると、足元にモフッとした温かい気配を感じた。
「にゃあ」
見下ろすと、そこには真っ白な猫。
首には赤い首輪が巻きついている。
(誰だ、城内で勝手に猫など飼っている奴は……)
魔王は、辺りをちょっと見回した。
——誰もいない。
足下の白猫に視線を落とす。
「にゃあー」
もう一度、周りを見た。
——辺りに気配はない。
アルデルヴィオンは猫を両手で抱き上げると、その柔らかい背中に勢いよく顔を埋めた。
(……っ! 癒やされる……!)
「にゃあ!(やめろ!)」
不満げな声を上げられ、渋々顔を上げる。
指先に伝わるモフモフ感に深く息を吐きながら、魔王はポロリとこぼした。
「お前は気楽でいいな。余も……そなたのような猫になって、気ままにのんびり過ごしたいものだ」
次の瞬間。
猫の首輪が眩い光を放ち、アルデルヴィオンの視界を真っ白に染め上げた。
急激に意識が遠のく直前、魔王の目に飛び込んできたのは——首輪に刻まれた魔法陣。
(この首輪……魔道具……!?)
◇
暗闇の中で目を覚ます。
なにやら黒い高級な布地に全身が包まれているようだ。もぞもぞと這い進む。なぜか四本の脚が、驚くほど素直に動いた。
かすかな光の向こう側へと顔を出し、ゆっくりと頭を上げる。
(……なんか城がやたら巨大化してないか?)
「あれー? こんなところに猫がいますよー!」
見上げると、巨大なイゼルナが、驚いた顔でこちらを覗き込んでいた。
(うるさいぞ、イゼルナ!)
そう一喝してやろうとした。しかし……。
「にゃ~ん」
口から漏れ出たのは、情けないほど可愛らしい子猫の鳴き声だった。




