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31.夜闇を裂いて

 いつも丁寧に撫でつけられていた爺の銀髪は乱れきって、服は煤だらけだった。ニーナは飛び出して彼の腕を掴む。

「爺、爺。私です」

 ニーナがいくら呼びかけてもゆすっても、爺は反応を示さない。ただならぬニーナの様相にネズリーが戸惑いの声を上げる。

「え、ニ、ニーナさん? どういうことっすか?」

「おい、お前ら何してる!」

 坑道の奥から怒鳴り声が響いた。一同がはっとして振り返ると、現場監督らしき男がランプを手に近づいてきていた。

「あっ、勝手に入っちゃってすみません。まずかったでしょうか? 僕たち蒸気に目がなくって、つい」

 パコが愛想笑いを浮かべながら前に出る。

「当たり前だろう。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」

「看板がなかったもので。すぐに出ますから勘弁してください、この通り!」

「全く。もう遊び半分に入って来るんじゃねえぞ」

「はーい」

 強面の男は呆れ返って、来た道を戻ろうとする。追い縋ろうとしたところをパコの手が制するが、ニーナは目もくれなかった。

「待ちなさい」

 男が立ち止まって振り返る。

「なんだい、お嬢さん」

「あなたたちは人狼を奴隷にしているのですか」

「人聞きの悪い。そんなんじゃねえさ。こいつら一人じゃなんにもできねえから、面倒を見る代わりに労働力になってもらってんだ。文句は言わねえし体力もある。使える奴らだよ」

 悪びれるようすもなく男が言う。

「じ……この、老人は、何故ここにいるのです」

「んん? ああ、その爺さんは後からやってきたな。こいつらを逃がそうとしていたもんだから総出で止めたよ。狼に化けた時は仰天したが、まあ何とかなって良かったぜ」

 やはりそうだ。爺は復讐を企てていたのではない。他の狼を助けようとしたのだ。そうしてきっとニーナのもとに戻ってくるつもりだったに違いない。あの義理堅い爺が、ニーナを捨てるはずなどないのだから。

「何故、どうして、狩る必要があったのですか」

「何故とはどういうことだ? そりゃ狼が出たからだろう」

 男はニーナの言意を図りかねて首を捻る。男の口ぶりには一貫して悪意がない。ただ両者の間には、致命的な認識の隔たりがあるのだった。

「ともかく、怪我しないうちにさっさと出て行ってくんな。ここは危ないからな。気をつけて帰れよ、ガキども」

 ぶっきらぼうに忠告すると、男は坑道の奥に戻っていった。


「あ、あのー、ニーナさ……」

「ニーナちゃん、一旦出直そう。……ニーナちゃん?」

 はらわたが煮え繰り返るような心地だった。身体中を駆け巡る血が熱い。全身の毛が逆立ち、牙が研ぎ澄まされ、爪が鋭利に伸びて、背中の結び目が弾け飛ぶ。狂おしいほどの憤怒が、ニーナを白い獣の姿に変貌させていく。

「ひっ、ひィッ」ネズリーが悲鳴を上げて腰を抜かす。

「駄目だ、ニーナちゃん」

 パコがニーナの前に立ち塞がった。ニーナは力任せにパコを振り払ったが、踏みとどまって正面からしがみついてくる。

「正気に戻って! さっきの話聞いてたでしょう。爺やさんの二の舞になったらどうするんだ!」

 獣と化したニーナに懸命な訴えは届かない。理性を失ったニーナは、パコの肩口に手加減なしに牙を突き立てた。

「ぐっ、うぅ……」

 パコが苦痛の声を漏らす。それでもなおパコはニーナを放そうとしない。温かい液体がしとどに口もとを濡らしていく。正体不明の感覚がニーナの背筋をぞくぞくさせる。神経の昂ったニーナが顎に力を込めると、パコは掠れた悲鳴を上げた。

「あ、ぁ……」

「ニーナさん、もうやめてくださいっ」

 ネズリーが震えながら二人を引き剥がそうとする。

「駄目です、これ以上はパコさんがっ、パコさんが死んじゃいますよぉ!」

 パコが死ぬ。耳から拾い上げた音が、沸騰する頭の中でゆっくりと意味を成す。すると思考を遮っていた靄が吹き飛んで、ニーナに現実を突きつけた。たちまち正気に返ったニーナは愕然として飛び退る。体毛や鋭い牙が消え、華奢な娘の姿に戻っていく。

「私は、何を」

「はは……君って、あんがいっ、熱烈だね……」

 右肩を押さえて膝をつくパコの姿が、松明の明かりに浮かび上がる。力なく垂れ下がった血まみれの腕を見て、ニーナは自らのしたことを理解した。そのまま倒れ込みそうになるパコをネズリーがしっかと抱き留める。

「パ、パコさん、大丈夫ですか!」

 ネズリーはジャケットを脱いで、傷口をきつく縛りあげた。パコの額に滲んだ冷や汗が苦痛を物語っている。グレーのジャケットがみるみるうちに色濃く染まっていき、ネズリーの顔から血の気が引いた。

「早く医者に診せないと。だけど、こんな辺鄙なところじゃあ……」

「私の背中に乗せてください」

「えっ、背中? わ、わっ」

 ネズリーが振り返ったときには、ニーナは再び狼に姿を変えて四つん這いになっていた。あまりのことに狼狽えながらも、ネズリーは覚悟を決めるように唾を飲む。意識が朦朧としているパコをおっかなびっくりニーナの背に乗せ、麻袋の口から拝借した紐で固定した。

 準備が整うや否や、ニーナは疾風のごとく炭鉱を飛び出した。呆然と立ち尽くしていたネズリーであったが、坑道の奥から「おーい、まだいるのかガキども」と鷹揚な声が近づいてくるのに気がついて、慌てて炭鉱を後にした。

 人狼たちは何事もなかったかのように、ただひたすらに穴を掘り続けていた。



***


 ニーナはひた走った。貨物列車を追い抜いて、脇目もふらずに駆け抜ける。頭の中はぐちゃぐちゃだ。故郷は失われた。狼たちは誇りを汚された。爺はもう二度とニーナのもとに帰ってこない。人間がニーナから何もかもを奪ったのだ。人間が、人間が──

「ニ、ナ……ちゃん」

 背中から弱々しい声が聞こえてきて、途端に冷水を浴びせられたような心地になる。

「ご、めん……」

 何故あなたが謝るの。狼の姿のままでは問いただすこともままならない。

 難しいことは二の次だ。一刻も早くパコを助けなければ。ずっしりと凭れかかる重みと熱が、今のニーナにとっての全てだった。

 夜闇を切り裂いて駆ける狼の姿を見ていたのは、空に浮かんだ金色の孤月だけ。


***


「うーん。ここにもないわねぇ」

「姉さん、今日はもう諦めようよ。明日明るくなってからもう一度探そう」

「いいえ、諦めるのはまだ早いわ。シナモン、あなたは先に休んでもいいのよ」

「そういうわけにはいかないよ……そんなに大事なものなら、どうして仕事中につけたりしたのさ」

「えーっ、だってせっかくパコさんがくれたんだもの。肌身離さず身につけたいと思うのが乙女心ってものじゃない」

「そ、そうなんだ。ぼくは乙女じゃないからわからないけど」


 ランタンと月明かりを頼りにして、アップルとシナモンは庭で探しものをしていた。アップルによると、パコから貰った木彫りのブローチをなくしてしまったのだという。宿の中を虱潰しに探しても見つからなかったため、ついに庭まで降りてきたところである。

「そういえばパコさんとニーナさん、まだ帰ってこないね。何かあったのかな?」

 物干し竿の下をランタンで照らしながらシナモンが言う。

「そうなのよねえ……坊ちゃんだけでなくパコさんまでニーナさんのことが好きだなんて。これは何があってもおかしくないわ」

「え? ごめん姉さん、よく聞こえなかった」

「もう、ちゃんと聞いてよ! 実はここだけの話……あら? 今何か物音がしなかった?」

 アップルが明かりを向けると、勢いよく何かの影が飛び出してきた。「ひっ!」「姉さん!」シナモンが咄嗟にアップルの腕を掴んで引き寄せる。

 影の正体は雪のように真っ白な毛並みの狼だった。金色の瞳を光らせ、威嚇するように喉を鳴らしている。

「なぜ狼がここに……! 姉さん、とにかく中へ」

「待って」

 尻餅をついたまま呆然としていたアップルが、おもむろに立ち上がる。

「パコさん!」

「え?」

 シナモンが明かりを狼に向ける。狼の背中には、ぐったりと凭れかかるパコの姿があった。

「もしや……ニーナ、さん?」

 アップルが恐る恐る呟いた名前に、シナモンは思わず目をみはる。次の瞬間、狼が大きく身体を震わせた。美しい体毛があっという間に失われ、人の形へと変わっていく。やがて現れたのは、すっかり疲弊したようすのニーナだった。

「そんな、まさか本当に」

「お願い、パコを助けて。怪我をしているのです」

 その声はニーナのものとは思えないほどに焦燥していた。アップルとシナモンは顔を見合わせて、すぐに二人に駆け寄った。

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