30.再会
原稿の締切に追われて寝る暇もないようすであった十六夜は、目の下に濃い隈を作っていた。しかしそれが済んだかと思えば、今度は宿の仕事のために何やら東奔西走しているのだった。
「おいおい、大丈夫かよセンセイ。近頃のあんたときたらまるで馬車馬のような働きぶりじゃないか」
パコに茶化されて、十六夜は呻きながら眉間を揉んだ。
「うう。俺が寝ている間に小人が帳簿を肩代わりしてくれればどんなにいいことか」
「タコでも雇いなよ。墨を吐くし」
「真っ黒になるだろうが」
「大黒字じゃないか。意外と名案かも」
「名案なわけがあるか、お前は他人事だと思って!」
「わわっ、ペン先でつつくなって。これ以上ほくろが増えたらセクシーになりすぎちゃうよ」
破れかぶれになってパコを追い回す十六夜に、外套を着込んだニーナが声をかける。
「時間なので私たちは出かけてきます」
「お、もうそんな時間か。承知した」
十六夜が帳簿を閉じて立ち上がった。仕事を早上がりして二人で出かけることは、あらかじめ報告済みである。
「いいのかい? 愛しのお姫様が他の男とデートしようってのに」
軽口を叩いてくるパコに、十六夜は大真面目に切り返す。
「何を言うか。お前ほど安心してニーナ殿を任せられる男は他にいない」
「あ……そう。ま、まあ、僕は紳士だからね。大船に乗ったつもりで任せといてよ」
パコは照れ隠しのように咳払いをすると、大袈裟な仕草で外套を羽織った。「さあ行こっか、ニーナちゃん」パコに促されて、ニーナは玄関の方に足を向ける。扉を開いたところで、ふいに十六夜が呼び止めてきた。
「パコ、ニーナ殿。実は今夜、折り入って二人に話したいことがあるのだ」
「うん? 改まってどうしたのさ」
「何ですか」
「後で話す。二人とも道中気をつけて。店のことは心配いらん。思う存分羽を伸ばしてきてくれ」
***
二人を見送った十六夜は再び帳簿に向かい合ったが、やがて疲労を隠しきれないようすで片目を覆った。
「坊ちゃん、本当に大丈夫ですか? 少し休んだ方がいいと思いますけど」
シナモンが気遣わしげに紅茶のティーカップを差し出す。
「ああ、シナモン殿。かたじけない。しかし俺には目標があるのだ。今は休んでいる時間も惜しい」
「狼探しは、やめたんですか?」
十六夜は近頃めっきり狼のことを口にしなくなった。これ以上危険なことに首を突っ込まないでくれるのならば、シナモンとしては一安心なのだが。
「うむ……そうだな。どうやら俺の手には余るようだ。町を救った英雄たち、料理長たちが狼を探しているのは重々承知しているのだが……俺は俺に出来ることをしようと思う」
「出来ること、ですか?」
紅茶を啜る十六夜の表情がどこか達観しているように見え、シナモンは首を傾げた。するとそこに、湯呑みを盆にのせた右京がひょっこりと顔を出す。
「十六夜。息抜きに……と思ったのだが、要らぬ世話であったようだな」
「父上! お気遣い痛み入ります。俺のことはいいので、どうぞシナモン殿に」
「ええっ、ぼ、ぼくに? よろしいんですか?」
「熱々なので気をつけろ」
シナモンは恐縮しながら湯呑みを受け取った。ほとんど宿に顔を見せない右京のことをシナモンはよく知らないが、奇特な人物であることはわかる。上の立場であるにもかかわらず、自分のような下男に茶を差し出すのだから。
しばらく二人で茶を啜っていると、今度は女将がやってきた。
「十六夜、あんまり根を詰めすぎないようにしないと……って、何だいあんたたち。お茶会でもやってんのかい?」
女将は二人の前に焼き菓子のバスケットを置く。
「そら、お向かいさんのクッキーだよ。一休みしてお食べ」
女将が忙しなく行ってしまうと、十六夜はふっと相好を崩した。
「シナモン殿。俺は時折、これほどに幸せで良いのだろうかと思うことがある。愛する家族と仲間に囲まれて、やりたいことをやらせてもらって。とんだ贅沢者だ」
十六夜につられてシナモンも微笑む。シナモンから見ても、十六夜の立場は大層恵まれているように思われた。シナモンとアップルが生き抜いてきた環境とは比べものにならないほどに。しかし妬む気持ちがこれっぽっちも湧かないのは、きっと十六夜の率直な人柄ゆえなのだろう。
「ぼくも同じですよ。坊ちゃんに拾ってもらってから毎日がパーティーみたいで、楽しくて幸せです」
「パーティーとな。はは、言い得て妙だ」
十六夜がおかしそうに笑って焼き菓子に手を伸ばした。シナモンはアップルの分の焼き菓子を紙に包みながら、このときがずっと続いてほしいと思った。
***
停車中の貨物列車から荷物が運び出されていくのを、ニーナとパコは物陰から見守っていた。石炭が大量に積まれた台車が次から次へと通り過ぎていく。
少し手前の柱の陰からネズリーがようすを伺っているのが見える。彼はこちらに気づいていないようだ。貨物が全て運び出されてからも人影はなくならず、ネズリーも手をこまねいているらしい。
「どうしますか」
ニーナが声を潜めると、パコは少し悩む素振りを見せてからウィンクをした。
「ま、こうなることは織り込み済みだからね。かくなる上は……こうだ!」
パコは荷下ろし中に取りこぼされた石炭を拾い上げ、思い切り振りかぶった。石炭はゆるやかな弧を描いて、不安定に積み上がっていた木箱に命中する。バランスを欠いた木箱が崩れ落ちると、人々の視線がそちらに縫いつけられた。
「今のうちに!」
ニーナとパコが素早くコンテナに忍び込む。すると同様に隙を見て潜り込んできたネズリーと鉢合わせた。仰天して声を上げそうになったネズリーの口を、パコが咄嗟に塞ぐ。ずいとネズリーに顔を寄せたニーナが、しい、と唇に人差し指を当てた。
「ニ、ニーナさん、パコさん。どうしてここに?」
目を白黒させたネズリーが、やっとの思いで疑問を絞り出す。
「あはは。お気になさらず」
「いやいや、これは貨物列車っすよ! 偶然乗り合わせました、なんてことはないでしょう。ニーナさんまで、いったい何をなさってるんです?」
ネズリーに詰め寄られたニーナは一考する。かつてのニーナならば、後先考えずにありのままを告げてパコを慌てさせてしまったことだろう。しかし今のニーナは、ここでの立ち回りが明暗を分けるであろうことを察していた。
「ネズミ。私は人狼について、あなたの知り得ない情報を持ち合わせています」
「えっ?」
「それと引き換えに、私に協力しなさい」
汽笛の音が高らかに鳴り響き、ゆっくりと貨物列車が動き出す。狐につままれたような顔で立ち尽くしていたネズリーだが、すぐに記者の顔つきになり、胸もとから手帳を取り出した。
***
列車はがたごとと揺れながら町を離れ、何もない平原を走っていた。幌の隙間から外のようすをうかがっていたパコが「まだまだ先は長そうだ」と呟いて首を引っ込める。
「なるほど、話はわかりました。『狩り』の方法についても僕がさる筋から入手した情報とも一致します。町の人間は同じ手段で白狼とやらも狩ったんすねぇ」
ネズリーはペン先で頭を掻いた。
「しかしニーナさんの故郷にも狼がいたとは。情報提供感謝します」
ニーナは頷いてみせた。決して真っ赤な嘘ではない。都合の悪いところには触れていないだけだ。
「しかし尻尾を切られると心を失うなんて、奇っ怪な生態だ。いよいよ化け物じみてるっすねえ。どんなに見た目が似ていても、やはり人狼は人ならざるもの……あいたっ」
「おや、すみませんネズミさん。ちょっと手が滑っちゃって」
いつのまにかパコが手にしていたツルハシの柄が、ネズリーの後頭部を直撃したようだ。悶絶しているネズリーにパコは平謝りしているが、ニーナにはツルハシの柄が一直線にネズリーの頭を狙ったように見えた。
「パ、パコさん、勘弁してくださいよ。危うく頭に穴が空くところだったじゃないすか」
「ちょうどいい。穿頭は体にいいと昔からよく言いますからね」
「神秘主義者ですか!? どこから出してきたんです、そんなもの」
「道具箱の中にあったんで、何かの役に立つかもと思って拝借した次第です」
「ああ、それなら心配ご無用っすよ。どうせ狼たちは腑抜けになってるんですから、得物の出番はないでしょう」
ネズリーは笑い飛ばしてから、気を取り直して居住まいを正す。
「もう一度確認しますね。自分はお二人を炭鉱に案内するだけでいいんすよね?」
「はい」
「わかりませんね。目的は何です?」
「いずれ話します」
「それはずるいっすよお。うーん、そうだ、ニーナさんの故郷にも狼がいたのなら、きっと辛い思いをされたでしょう。だから狼に仕返しをしてやろうと」
「違います」
取りつく島もないニーナのようすに、ネズリーはそれ以上の詮索は無駄だと悟ったらしい。潔く手帳を閉じて帽子を被り直す。
「わかりました。今は聞きません。しかし自分はニーナさんが頼ってくれたことが素直に嬉しいっす。ニーナさんの力になれるのなら本望ですとも」
清々しいネズリーの笑顔から、パコが気まずそうに目を逸らすのが見えた。
***
それからしばらくして、貨物列車は小さな駅に停車した。三人は姿を隠しつつ、何とか人目につかないように外へ出る。
ネズリーの案内にしたがって歩くこと数十分、ついに一行は目的の炭鉱に到着した。
「ここっすね」
ぽっかりと空いた巨大な空洞の奥に、トロッコのレールが続いている。入口付近に人影はない。坑道の壁面にはランタンが取り付けられており、暗闇の中を頼りなく照らし出していた。
「人狼どころか、炭坑夫すら見当たらないっすねぇ。この奥に誰かいるかもしれません。ニーナさん、足元に気をつけて!」
先陣を切って進んでいくネズリー。ランタンを手にしたパコが「ニーナちゃん、先に行って」と殿を買って出る。慎重に歩みを進めていくと、次第に坑内が開けていく。そこはよく整備されており、松明も一定の間隔で設置されているようであった。地下水を排水する大掛かりな機械がせっせと稼働しており、蒸気を吹き上げていた。
「え……」
そこにいたのは山城の白狼たちであった。彼らは真っ黒に汚れた顔をうつむかせて、黙々と土を掘削している。ニーナにとって見慣れない顔もあった。薄汚れてはいるものの、爺と同じ銀髪の彼らは青珊瑚町にいた銀狼に違いないかった。
「狼……!? やっぱりここで働かされてたんすね」
ネズリーが興奮気味に叫んだが、人狼たちは誰一人として関心を示さない。目の前に広がる異様な光景に、ニーナは言葉もなく立ち尽くした。人狼は尻尾を失うと同時に心を失う。それがどういうことなのかを、ニーナは初めて理解した。
人狼たちからは一切の表情が抜け落ちていた。深い井戸のように虚ろな瞳でぼんやりと土を掘り続けている姿は、あきらかに異常だった。
「やっぱり、って、どういうことですか」
動揺を隠せないパコの声色を気に留めるようすもなく、ネズリーが早口でまくし立てる。
「前々から思っていたんすよ。自らの意思を無くした連中って、考えようによっては便利な存在じゃありませんか。だからきっと、狼は奴隷にされたんじゃないかって」
「奴、隷?」
ニーナは辺りを見回しながら坑内を進む。すると坑道の奥から、ガタゴトと車輪の音が近づいてくるのに気がついた。複数の人狼が石炭を積んだ台車を押している。その中にニーナは、年嵩の男の姿を見出した。
「爺!」
「えっ……?」
どれほど汚れようとも見間違えるはずがない。そこにあったのは、長い間探し求めていた爺の姿だった。




