29.胸騒ぎ
ニーナは夢を見ていた。まな板の上で小麦粉をこねて、さまざまな形のパン種を作っていく。窯に入れて焼き上げたパンには命が吹き込まれ、生き生きと動き出す。鳥は羽ばたき舞い上がり、犬は尻尾を振りながら走り回る。兎は跳ね回り、栗鼠は木の実を頬張り、馬は草を食む。小さな妖精たちは月に影を描きながら歌い踊る。
「爺、見てください。新しい魔法です」
焼き上げたパンを見せびらかすべく、ニーナは振り返った。しかしそこには誰もいない。
「爺、どこへ行ったのです。皆、パンが焼けました。見てください」
城中を探し回ったが、爺も白狼もどこにもいない。命を得たパンたちも思い思いの方へ散っていき、ニーナは独りぼっちになった。満月の明かりが煌々と、静寂に沈む夜の城を照らしていた。
孤独な夢から覚めて、ニーナはやおら身を起こす。窓の外はまだ暗い。遠くの空がぼんやりとした夜明けの色に染まっている。まるで夢の続きのような、静かなる彼誰時。
***
荷物をカウンターに預けたニーナが郵便局を出ると、丈の長い外套を羽織ったパコが手を挙げた。
「チャオ、お姫さま! お迎えに上がりました」
「パコ?」
「なんてね。朝市帰りに、君がここに入っていくのを見かけたからさ。一緒に帰りたくって、忠犬のごとく待ってたんだ。健気でしょ?」
「そう。私もあなたに話したいことがあります」
並んで水路沿いを歩き出す。朝の光を受けた水面が、小舟の行き来に合わせてきらめいている。
「誰かに届け物?」
「魔女に服を送り返しました」
「ああ、もしかして君が最初に着ていた? 妙に寸法が合ってないと思ったら、魔女のものだったのか」
ニーナはこくりと頷いた。女将にワンピースを仕立ててもらってからというもの、魔女の服に袖を通す機会はめっきりなくなっていた。返さなくてもいいと言われていたが、ニーナ自身、郵便を送ることを一度してみたかったのである。
「そっか、君も森の魔女と顔見知りだったんだね。あのときはてっきり勝手に森に入ったものとばかり思っていたよ」
「森?」
すると突然、誰かの怒声が轟いた。煉瓦造りの庁舎の前に人だかりが出来ている。押しかけた町民と役人たちが揉めているようだ。
「紙の月新聞にあんな記事が出たんだ。騒ぎになるのも無理はないよね」
パコは顰めっ面で買い物籠を抱え直した。
紙の月新聞にネズリーの書いた「狩り」の記事が掲載されてから、町中が上を下への大騒ぎとなった。記載された内容は以下のようなものだ。
議会が長年人狼による狼藉を黙殺してきたのは、人狼が炭鉱の利権を独占していたからである。そこで議会は「狩り」に便乗する形で人狼から財産を没収した。本来ならば町の英雄が得るべき報酬を横取りし、私腹を肥やしたのだ。
「何のことだかわからない」
「わからなくったっていいさ。料理長たちだって、そんなことのために立ち上がったわけないじゃないか。外野はいつだって勝手なことばかり言う」
山城から帰ってきたニーナは、パコに事の顛末を詳らかに打ち明けた。パコは一瞬ひどく狼狽するような素振りを見せたが、すぐに気を取り直してニーナを労ったのだった。
「白狼を狩ったのも彼らなのでしょうか」
「わからない……だけど、少なくとも料理長は関わっていないと思う。君の故郷が鋼の岩峰にあると聞いても、料理長は何も言ってこなかった。白狼の城のことを知っていたなら、黙っちゃいられないはずだよ」
それを聞いたニーナはひっそりと胸を撫で下ろした。ハッサンが白狼を手にかけたなど、考えたくもない。
「料理長たちは罪に問われるのですか」
「どう、だろう。英雄を断罪するなんて町の人は反対だろうし、議会も一枚噛んでるのならなおのこと、お咎めなしってことになるんじゃないかな。革命が成れば負けた方が賊軍だ」
パコはどこか苦々しそうに眉根を寄せる。ニーナはごった返す庁舎前をじっと見つめていた。
「……ニーナちゃん。絶対に誰にも正体を悟られないように気をつけてね。広場に爪跡が残されてからこっち、皆この町のどこかに狼がいると決めつけて気が立っているんだ。そのうえこの騒動のせいで、町の人たちは総出で狼探しに乗り出してる始末だ」
「けれど、あれは私のことではありません」
パコがふと足を止める。口にするのを躊躇うように唇を噛んでから、すみれ色の瞳をまっすぐに向けてきた。
「あのね、僕は張り紙の指している狼が君のことじゃないとわかってる。でも町の人は違う。もしも君の正体が誰かに知れたら、それは君のことになるんだ」
思いがけない言葉に、ニーナは目を見開いた。
「私のことに、なる……?」
パコの言うことはもっともだ。張り紙の指し示すところの狼がニーナのことであろうがなかろうが、町の人間には関係ない。ニーナの素性が割れれば、今この町に渦巻いている敵意は一斉にニーナに向けられることになる。
「君は何も悪くない。ただ理不尽に奪われただけだ。そのことを僕が知ってる。僕だけはわかってる。だから他の誰にも言わないで。それが君の身を護ることにもなるんだ」
パコの真剣な眼差しを受け止める。彼がニーナに全てを打ち明けてはいないのだとしても、ニーナの身を心から案じていることについては疑いようもなかった。
「……わかりました」
「うん。僕も君のためなら火の中水の中さ。だからもうそんな顔しないでおくれ」
「そんな顔?」
「見ているこっちが悲しくなるような顔さ。帰ってきてからずうっと、君はそんな風だ」
パコは困ったような顔で微笑んだ。
「ニーナさーん! ……おっと、パコさんもおはようございます!」
宿に戻ると、玄関の前でネズリーが待っていた。人目を憚らない大声で呼びかけてくる彼の手には、白い花束が抱えられている。
「ネズミ」
「ネズミさん、おはようございます。酷いなあ、僕はついでですか?」
「はは、面目ない。お二人とも早いっすね」
「ネズミさんこそ。うちはまだ開店前ですよ?」
そういうパコの視線が花束に注がれているのに気づいて、ネズリーが頬を掻く。
「いや、その、はは。ちょうど綺麗な花が売ってたもんで。ニーナさん、貰ってくれませんか?」
「私に?」
「はい、ニーナさんに似合いだと思って。どうか受け取ってほしいっす!」
目を瞬いているニーナの手に、ネズリーが花束を押しつける。淡い色彩の花からほのかに甘い香りが立ち上った。花を愛でる習慣のないニーナは長考し、洗濯場のバケツに差しておけばよいと思い至る。
「ありがとうございます」
「は、はいっ。喜んでもらえて自分も嬉しいっす」
どこか同情するような目つきでネズリーを眺めていたパコが、話の矛先を変える。
「それよりネズミさん。新聞読みましたよ。すっかり町中ネズミさんの記事の話題で持ちきりじゃないですか」
「ええ、そうなんすよ。皆さん盛り上がってくれて何よりっす。うちの新聞も飛ぶように売れて、編集長も大喜びっすよ。狼についての新たな情報も掴んでますからね。ひょっとしたらさらに面白い記事が書けるかもしれません」
「新たな情報?」
ニーナが食いつくと、ネズリーは得意になって声を潜めた。
「ほら、『狩り』の日以降、狼は忽然と姿を消してしまったでしょう。自分、彼らがいったいどこに行ってしまったのか不思議で仕方なかったんすよ。でね、実は最近目撃証言が出てきまして」
「銀狼の?」
「銀狼?」
「あー、えーっと、もちろんこの町にいた狼のことですよね? ネズミさん」
「やだなあ、それ以外に何があるんすか」
ネズリーが屈託なく笑う。彼はまだ白狼の存在を掴んでいないらしい。
「ほら、駅から貨物列車が出てるでしょう。三時にだけ出ている便があって、その終着駅に炭鉱があるんです。その周辺で狼の姿を見かけたっていう声があったんすよ。調べたところその炭鉱、ある日突然炭坑夫たちに解散命令が出ていたらしいんです。それも『狩り』の直後に」
「炭鉱……? それって、ただ議会に利権が移ったからというわけじゃないんですか?」
パコが眉を跳ね上げると、ネズリーは訳知り顔で首を振った。
「それが他の炭鉱では継続して炭坑夫を雇い入れているようなんです。なんか妙だと思いません? 廃坑になったわけでもないようだし。そういうわけで僕、週末にでもこっそり貨物列車に乗り込んで、現地調査をしてみようかと思ってるんです。あっ、今のは内緒っすからね!」
ネズリーは悪戯っぽく片目を瞑った。
「いやはや、つい喋りすぎちゃいましたね。じゃあ、自分はそろそろ行きますんで。ニーナさん、今度よかったら一緒にお茶をしましょう!」
慌ただしく去っていくネズリーの背中を見送って、ニーナは考え込んだ。銀狼の目撃証言があったということは、同じ手で狩られた白狼もそこにいるのではないか。あるいはそこに爺の足取りを掴む手がかりがあるかもしれない。
「ニーナちゃん、もしかして良からぬことを考えてる?」
「考えていたらどうするのですか」
「……あのさ。僕、なんだか胸騒ぎがするんだ。ここで手を引いた方がいいんじゃないかって気がしてる」
「私は行きます」
「もし、そこに待っているのが、君にとって唾棄すべき事実だったとしたら……」
爺は白狼の身に起こったことをニーナに隠していた。それは彼が、ニーナには何も知らずに生きてほしかったからに違いあるまい。しかしニーナは知ってしまった。与えられるのを口を開けて待っているだけの日々は、もうおしまいだ。
「私は私の知るべきことを知る。全ては、それから」
パコはぐっと帽子のつばをさげて考え込んだあと、諦めたようにため息をついた。同時に港の方で汽笛が鳴り響く。
「もう、わかったよ。君には敵わないな。ただし今回は僕もついて行くからね。何か困ったことがあったら僕に任せてよ」




