25.疾風町までの旅
白狼たちはパコのように話好きでもなければ、十六夜のように書物を好むのでもなかった。人里離れた山城で暮らす彼らは寡黙で、必要最低限の言葉以外は発しなかった。自然に身を委ね、大地の掟に従って、ただ生きることをしていた。
そんな白狼たちの中で、町からやってきたという爺は変わり者だった。彼は感情表現が豊かで、よく喋り、よく笑っていた。寡黙な白狼たちと茶目っ気のある爺との生活は、ニーナにとって居心地のいいものだった。
ニーナは夢を見ていた。懐かしい故郷の城で、爺が機嫌良く鼻歌を歌っている。彼がいつも口ずさんでいた馴染みの歌だ。聴き慣れた旋律に合わせて、ニーナも声を合わせる。
「やや、お嬢さまの歌は素晴らしいですな。いつ聴いても惚れぼれしてしまいますぞい」
ニーナの調子外れの歌声を、爺はいつも誉めそやした。ニーナは今でも洗濯機を回すときや体を洗うときに、何気なくこの歌を口ずさんでいる。
「爺、あなたのいない間に魔法を覚えたのですよ」
「なんと! ぜひこの爺めに披露してくださいませ」
ニーナが魔法の杖を一振りすると、暖炉の中に炎が灯った。爺が称賛の拍手を送る。「わはは、これまた妙ちくりんな。流石です、お嬢さま」魔法の杖を二振りすると、テーブルの上に食器が転がってきて、三振り目で香ばしい焼き立てパンが降ってきた。
淡白な白狼たちすらも集まってきて、ニーナの魔法に感嘆の声を上げる。小さな山城はお祭り騒ぎになった。得意になったニーナは次々に魔法を披露する。城中に花を芽吹かせ、動物を呼び寄せ、空に虹をかけた。
「お嬢さま! 爺は感激ですじゃ!」
大袈裟に涙ぐむ爺の声を聞いていると、だんだん意識が遠くなってくる。ニーナの夢はそこで終わった。
***
ニーナは硬いものの上に伏せっていたことに気がついた。身を起こした拍子に、いつの間にか掛けられていた十六夜のマントがはらりと落ちる。顔を上げると、かちこちに硬直した十六夜の横顔が間近にあった。どうやら十六夜の膝を枕にして眠ってしまったらしい。
「おはようございます」
「あ、ああ」
十六夜は顔を真っ赤にして目を逸らしている。冷や汗が今にも顎から滴り落ちそうだ。馬のいななきが聞こえてきて、ニーナは周囲を見回した。頭がはっきりしてくると、靴鳴り町の駅から乗合馬車に乗り込んだことが思い出された。
馬車の窓から見える景色は靴鳴り町のような都会ではなく、だだっ広い牧草地帯だ。まばらな木立と青い山々が見えるばかりで、民家は一軒も見当たらない。
「私はどれくらい眠っていたのですか」
「い、いや、そう大した時間ではなかった」
懐中時計に目を落としながら十六夜が言う。
「足は痛みませんか」
「何のこれしき。君は羽根のように軽いからな。しかしこの悪路でよく眠れるな、君は」
十六夜は煩悶を振り払うように咳払いをした。
「旦那ァ、あんたよっぽど純情なんだな。そんなに奥手じゃあ、どこの馬の骨ともわからない野郎に横取りされちゃうぜ?」
対面に腰かけたライオンハートに揶揄されると、十六夜は不快感を露わにした。
「ニーナ殿の意志を軽んじる発言は慎んでください」
「あ、そ。真面目くんだねえ」
ライオンハートはさして気にしたようすもなく、伸び放題の顎髭を撫でている。
「疾風町まではあとどれくらいなのですか」
「まだまだだよ。この辺にはガス灯もないもんでね。途中の宿で一泊するから覚悟しときなよ、姉ちゃん」
ニーナは首を傾げた。なぜ彼が一泊するだけのことに覚悟が必要だと言ったのか。その理由は程なくして明らかになった。
「ライオンハート殿、本当にこの宿しかなかったのですか」
「おれは野営だって構わなかったんだぜ? あんたたちのために取ってやったんだから、文句は言いっこなしよ。寝床があるだけラッキーだと思ってほしいね」
「し、しかしこれでは……」
ライオンハートに案内されたのは、宿と呼ぶのも躊躇われるようなあばら家だった。板張りの隙間からは雑草が伸び放題で、ところどころ外壁が剥がれ落ちている。青珊瑚町のギルドならば間違いなく一つ星の評価を下していただろう。
しかし十六夜が難色を示しているのは別の理由だった。用意された部屋には、ベッドが一つしかなかったのだ。
「こ、この部屋はニーナ殿が一人で使うべきです。私もライオンハート殿の部屋に泊めていただけないだろうか」
「何が悲しくて野郎と相部屋せにゃならんのだ。そもそもおれの分の部屋は取っちゃいないよ。知り合いのお姉ちゃんとこに行くんでね」
軽薄極まりないライオンハートの言葉に、十六夜は目を白黒させている。
人狼であるニーナとしては、特段どこで寝ようと構いはしない。粗末な宿だろうが野営だろうが大差はないし、何らかの危険が迫ったとしても対処できる自信があった。
「あなたが一人が良いというのなら、私は外で寝ても構いませんが」
「なっ、そういうことでは……いやしかし、なるほど。面目ない、ライオンハート殿。お騒がせしました」
急に落ち着きを取り戻した十六夜が深々と頭を下げる。
「なに、いいってことよ。ごゆっくり、お二人さん」
ライオンハートはひらひらと手を振って去っていった。続いて部屋を出ようとしたニーナを、十六夜が引き留める。
「ニーナ殿、外で寝るのは俺の方だ。しっかり見張っているから君は安心して休んでくれ」
***
安普請の宿は造りが粗く、隙間風がひゅうひゅうと吹き込んでくる。扉の向こうから十六夜の小さなくしゃみが聞こえてきて、ニーナは毛布から這い出した。今夜はひどく冷え込んでいる。山育ちのニーナにはどうということはないが、人間の身には堪えるのではないだろうか。
「十六夜」
「どうした、眠れないか。それとも寒いだろうか」
「あなたは眠らないのですか」
「この宿は施錠もないからな。君に何かあったら俺は腹を切らねばならなくなる」
本気なのか冗談なのか判断しかねる口調で、十六夜が言い切る。
「中に入れば良いでしょう」
「そ、そんなわけにはいかない。嫁入り前の娘と同室で寝泊まりするなど言語道断だ」
固辞する十六夜を無視してニーナは扉を開け放った。扉の横に腰を下ろしていた十六夜が、驚いて後ずさる。
「ニ、ニーナ殿」
そういえば前にもこんなことがあった気がする。カリンが出ていって、ニーナが閉じこもってしまっていた時だ。一向に出てこようとしないニーナを、十六夜は辛抱強く待っていた。あのときとは似て非なる状況が少し可笑しい。
十六夜の腕を掴んで引き入れる。案の定、彼の体は小刻みに震えていた。部屋の中も大して暖かくはないが、屋外同然の廊下よりはいくらかましだ。
「身体を壊す」
「し、しかし」
「私と同じ部屋にいたら、あなたは私を傷つけるのですか」
「そのようなことは、天に誓ってあり得ない! 」
反射的に断言した十六夜は、いよいよ観念してボロ椅子に腰を据えた。
「……面目ない。君の厚意に甘えさせてもらう」
宿の窓は木の板で粗雑に塞がれており、わずかな隙間から月明かりが差し込んでいた。十六夜が粗末な毛布にくるまる姿が、オイルランプの明かりに浮かび上がっている。
「そういえば、パコはいつから宿で働いているのですか」
「パコ? そうだな、あいつは十三の頃からうちで働いているから、四年……もうすぐ五年になるな」
冷えた肩をさすりながら、十六夜が首を捻る。
「昔からパコはあの調子だったのですか」
「いいや……うちに来たとき、あいつはひどく塞ぎ込んでいたからな。なかなか打ち解けてはくれなかった」
「そうなのですか?」
「ああ。しかし次第に笑顔を見せるようになって、今では知っての通り。あの調子だ」
呆れたように、懐かしむように十六夜が目を細める。
「あいつは自分のことをあまり話したがらないからな。俺も詳しいことは知らんのだ。あいつめ、人にはお節介ばかり焼く癖に」
ニーナはパコの人好きのする笑顔を思い浮かべた。パコは人懐っこくて面倒見のいい青年である。しかし十六夜の言うように、どこか周囲に対して一線を引いているようにも見えるのだ。人に囲まれて笑っているパコの背に、時おり孤独の影がさして見えるのは何故だろう。
「あなたが人狼にこてんぱんにされたとき、パコはどうしたのですか?」
「こてんぱん? はは、君はたまに妙な言い回しをするよな。しかし済まない。よく覚えていないのだ。心配をかけたとは思うのだが」
パコは何かを隠している。
それが何なのか、ニーナには未だわからないままだ。
「……先日は、君に情けない姿を見せてしまったな」
「情けない?」
「俺は君の前で発作を起こしただろう」
十六夜が決まり悪そうに毛布を手繰り寄せる。ニーナは思わず眉を顰めた。怖がることは、情けないことなのだろうか。
「では狼恐怖症になった町の人間も皆、情けないというのですか」
その通りならカリンにも同じことが言えるということになる。人狼に傷つけられ、人狼に怯えていたカリン。ニーナの秘密を胸に秘めて、慣れ親しんだ海猫のスプーン亭を後にしたカリン。彼女も臆病者だというのだろうか。ニーナの視線を受けて、十六夜は慌てて首を振った。
「いや、断じてそんなことはない。皆、己と戦っているのだと承知している。そのように聞こえたのなら俺が浅慮であった」
「あなたも同じなのではないのですか」
「それは、そうかもしれんが……」
少し考え込んで、十六夜は言葉を続ける。
「それでも俺は、君の前では怖いなどと言いたくない。俺は格好つけなのだ」
色を失った瞳に、ランプの炎が揺らめいている。
「たとえ狼が現れたとしても、俺は逃げない。必ず君を守ると約束する」
もし十六夜がニーナの正体を知ったら。
きっと彼はカリンと同じ行動を取るだろう。十六夜はそういう人間だ。
そうなったら悲しいと、ニーナは思った。




