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14.恋の病

「で、そのときのニーナちゃんがあまりにも可愛かったと。それからはもうニーナちゃんのことで頭がいっぱいで、何も手につかなくなったと」

「ああ、そうだ。こんなことは生まれて初めてだ。まるで魔法にかけられたかのようだ」

「歓喜の歌……」

「何か言ったか?」

「いや、こっちの話」

 上の空のまま一日の仕事を終えた十六夜は、共用ルームの椅子に深く腰かけて惚けていた。

 ニーナへの想いを自覚した途端、十六夜の態度は一変した。これまでは上役としての振る舞いに徹していたというのに、今や見る影もない。ニーナの姿を目で追うくせに、いざ目が合うと逸らしてしまう。声を聞くとあからさまに胸を高鳴らせるのに、話しかけられると狼狽える。挙動不審の見本市のような有様である。


「うう、ニーナ殿。今頃何をしているのだろう」

「さっき別れたばかりだろ」

「うう、ニーナ殿。早く顔が見たい」

「明日の朝会えるだろ」

 にべもないパコの言葉もまるで耳に入っていない。

「うーん。重症だ。手の施しようがない」

 パコは頭を痛めた。朴念仁の代表格と言っても過言ではない十六夜が、ここまで軟体動物よろしく骨抜きにされてしまうとは思いもよらなかった。本来ならば、堅物の友人がついに春を迎えたことを祝福すべきところなのだが、事はそんなに簡単ではない。何しろニーナの正体は狼で、十六夜は筋金入りの狼嫌いなのだから。

 そんなパコの苦悩など露知らず、十六夜はすっかり溶けたバターのように緩みきっている。

「ニーナちゃんのどこがそんなに好きになっちゃったんだよ」

 問いかけると、十六夜はふいに表情を引き締めた。しかしいくら熟考しても答えは出ないらしく、眉根を寄せたまま黙り込んでいる。

「わからないか?」

「ああ。わからん」

「そっか。いや、いい。愚問だった。どこが好きかなんて全部後付けでしかないもんな。気づいたときには、わけもわからず駄目になってるものだ。恋愛なんてものはさ」

 パコは嘆息した。もしニーナが人狼であることを十六夜が知ったら、どうなるのだろう。百年の恋もいっぺんに冷めるのだろうか。幻滅して、愛想を尽かして、この町を追い出すのだろうか。しかしパコにはどうしてもそれが想像できなかった。

 十六夜は一度懐に迎え入れたものを決して見捨てない。不器用で口下手で融通の利かない男だが、情の深い人間であることをパコはよく知っている。それに人狼にもニーナのような子がいるのだと知れば、かえって狼嫌いを克服するきっかけになるかも知れない。

「よしきた。僕が腕によりをかけて、あんたを何とかしてやる。大船に乗ったつもりで任せてよ!」

「何とかする、とは?」

 パコが腕まくりをして息巻くと、十六夜は不思議そうに首を傾げた。


***


「間違いないわ。坊ちゃんはニーナさんに恋をしているのよ」

 石造りの洗濯場でシーツの染み抜きをしながら、アップルが断言する。

「恋」

 自分の名前と耳慣れない単語が結びつかず、ニーナは無感情に復唱した。アップルは手を止めないまま、うたうように続ける。

「ええ、そうよ。坊ちゃんはニーナさんのことが好きなの。ニーナさんのことを考えると夜も眠れずご飯も喉を通らないの。それが恋の病というものよ」

「十六夜は病なのですか?」

「それはもう、抜き差しならないほどに重症ね。でもニーナさんが気持ちに応えてくれたら、瞬く間に元気になっちゃうわ。ね、シナモン?」

 急に話を振られたシナモンは、思わず石鹸を取り落とす。

「え? う、うん。ぼくにはよくわからない、なあ」


 双子のアップルとシナモンは、カリンの代わりに雇い入れられた新人だ。二人とも亜麻色の髪と緑色の目をしているが、容姿ははっきりと違っていた。姉のアップルは柔らかい髪を三つ編みのおさげにした細身の少女だが、弟のシナモンは短髪でややがっしりとした体格である。男女の双子は往々にしてあまり似ないものだが、アップルによると、かつて二人は入れ替わっても気づかれないほど瓜二つであったらしい。しかしここ一年でシナモンがぐんと背を伸ばしたため、もはや誰も見間違うことはなくなったのだそうだ。こまっしゃくれたアップルと大人しいシナモンでは性格も正反対であるため、二人はよけいに似ても似つかないのだった。

 アップルとシナモンは仕事の飲み込みがすこぶる早かった。二人はニーナよりも年下であるが、その手は年齢不相応に荒れており、節くれ立っている。海猫のスプーン亭に来る前から日常的に働いていたことが見て取れた。


「そうだとしても、坊ちゃんの純情を勝手に暴露していいのかなあ」

「あら。だってこのままほっといたら一生かかっても気がつかないわよ、ニーナさんは。文明がさらなる発展を遂げて、蒸気で空を飛べるようになっても、未だ二人の仲に進展なし……なんてことになりかねないわ」

「いちいち大袈裟だなあ、姉さんは。まあ、否定できない部分もあるけど」

 双子の話は半分以上理解できなかったが、自分が話題の中心であることはわかった。ニーナは頭の中から、数少ない「好き」にまつわる記憶を引っ張り出す。確か料理長のハッサンがカリンのことを好きだと言っていた。パコが妙に囃し立てるような言い方をしていたのは何故だろう。

「ねえ、ニーナさんは坊ちゃんのことどう思ってるの?」

 アップルが目を輝かせて尋ねてくる。

「どう、とは?」

「他の人とは違う、特別な感情を抱いたことはない? どきどきしたり、胸がきゅんと痛んだり」

「十六夜の書く物語は、素敵。あんなに何かに夢中になったのははじめて」

 ニーナはあれ以来、十六夜の小説を何度も読み返していた。毎晩のように、魔法使いになった夢を見る。わくわくして、胸が高鳴る。目が覚めたとき、少しだけ残念に思うくらいに。

「うーん、そうじゃなくて、坊ちゃん本人のことは? 好き? 嫌い?」

「好きです。十六夜には感謝している」

「じゃあ、ほら、ニーナさんはサケが大好きでしょ。サケと坊ちゃんだったら、どっちが好き?」

「サケと、十六夜?」

 ニーナは深く考え込んだ。サケが皿の上にのって出てくると、嬉しいし美味しい。同じように十六夜が皿の上にのって出てくるところを想像する。そもそも十六夜は美味しいのだろうか。如何せん食べたことがないのでわからない。

「……サケ」

「だめだ姉さん。脈がない」

「そんなあ、お似合いだと思ったんだけどなあ」

 シナモンは宿泊客がシーツにこぼしたワインの染みを揉みながら苦笑する。

「ごめんなさい、ニーナさん。姉さんこの手のことに目がなくって。でも、ぼくも坊ちゃんには感謝してるから、応援したくなる気持ちはわかるんだ。何しろ坊ちゃんさんが拾ってくれなかったら、危なく炭坑夫にさせられるところだったんだから」

「炭坑夫? 炭坑夫とは何ですか」

「石炭を掘る仕事だよ。危険なうえに薄給で、おまけに重労働。本当なら誰もやりたがらないけど、石炭はいくらあっても足りないから、貧乏人はあの手この手で炭坑夫にさせられる。それに比べてここは天国みたいだよ。賄いは美味しいし、人は優しいし、ぼくらみたいな下働きがまともな布団で眠れるんだから」

 シナモンがしみじみと呟く横で、アップルが同意を示す。

「そうそう。炭鉱なんか行かされたが最後ね。使い潰されて人生おしまいよ」

「あなたたちは、私の知らないことをたくさん知っているのですね」

 ニーナは感心して言った。双子は歳若くともニーナよりずっと世の中の仕組みに詳しい。

「ええ、何でも聞いてちょうだい。とくに恋の悩みは大歓迎! あ、ちなみに私はパコさんの方が好みだわね。美男子だし」

 三つ編みを掻き上げるアップルを尻目に、シナモンはニーナに耳打ちした。

「たびたびごめんなさい、ニーナさん。姉さん、いわゆる耳年増ってやつで……あいてっ」

「聞こえてるわよ!」

 空の洗濯籠がシナモンの頭に降ってきた。

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