13.月の魔法の夢を見る
定例会を終え、十六夜とニーナは帰路につく。カリンの穴埋めのために雇い入れられた双子の姉弟が働きものなので、宿の忙しさは一時期と比べてかなり緩和されていた。
「何か得るものはあったか?」
十六夜が隣を歩くニーナに問いかける。ニーナは少し考えて答えた。
「私は知らないことが多いと思っていましたが」
「ああ」
「思っていた以上に、それが多いということがわかりました」
「そうか、それは……大きな収穫だな」
潮風が十六夜の長い前髪を掻き分ける。左右の色の異なる瞳が細められるのが見えた。
定例会で顔を合わせた人々は、皆一癖も二癖もある人物ばかりだった。彼らは共通して自らの仕事に誇りを持っていて、この町を愛していた。
「あなたにも、やりたいことがあるのですか」
「俺か? 俺は……」
十六夜は言葉に詰まる。不思議に思って、ニーナは彼の顔を覗き込んだ。
「少し前は、父上と同じ船乗りになりたかったが……今は宿を継ぐことに納得している」
十六夜はどこか遠くを見るような目をして言った。
「多くの人が行き交うこの町で、多くの人生を垣間見る。それは興味深いことだ。日々新たな物語を読んでいるようだと思う」
「物語?」
「ああ。宿に訪れる客人の数だけ物語がある。その一端に触れるたび、際限なく世界が広がっていくような気がするのだ」
広場からカリヨンの音が聞こえてくる。夕刻を告げる鐘の音だ。
「物語が、あなたを豊かにするのですね。十六夜」
「そうだな。自ら物語を書いているのも、そんなわけだしな」
海猫が鳴く声が聞こえる。港町の広い空が茜色に染まっていく。石畳に二つの影法師が伸びていた。
***
その晩訪れた初老の男性客は、本が読みたいと言った。女将にそのことを伝えると、宿舎の共用ルームにある本を貸し出すようにと頼まれた。
ニーナは本棚と睨めっこしながら思い悩む。読み書きができるようになったはいいものの、本はろくに読んだことがない。どの本を貸し出せばよいのか見当もつかないのだった。結局ニーナは本棚から無作為に抜き出した本の山を、まるごと男性に手渡すことにした。
「どうぞ」
「おお、こんなにたくさんありがとう」
男性はニーナに礼を言うと、本を一冊ずつ吟味する。本の山を二つに分けると、早速手に取って読みはじめた。静かな一室に、ページを捲る音と階下の喧騒が響いている。手もとの文字を追っているはずの男性の目は、もっと遠いどこかを見ているような気がした。
「……あの、何か?」
じっと観察されているのに気がついて、男性が訝しげに顔を上げる。
「どのようにして本を分けたのですか?」
「ああ、これですか。今日は哲学や経済学より、小説が読みたい心持だったのです」
「あなたも物語が好きなのですか」
「ええ、好きですよ。自分ではない何者かになれるようで」
そう言って男性は、選ばなかった本をニーナに返した。本を受け取ったニーナは、一礼をして部屋を後にした。
そのまま仕事を上がったニーナは、共用ルームの本棚に本を戻した。そのとき、ふいに机の脇に積み上げられた新聞が目に入った。
「……紙の月新聞」
試しに一部を手に取ってみる。尋ね人の欄には、ニーナが描いた似顔絵と共に爺の情報が掲載されていた。パコによると、紙の月新聞は青珊瑚町のみならず、周辺の町でも読まれているらしい。これで早く見つかるといい。
紙面に目を滑らせていくと、十六夜が執筆をしているという小説が載っていた。かつてカリンが好きだと言っていた物語だ。ニーナはソファに腰を据えて、何の気なしに小説を読みはじめた。
それまでニーナはほとんど物語に触れたことがなかった。唯一の記憶は幼少期。ニーナを寝かしつけるために爺が語って聞かせたことくらいだ。その内容もあまりよく覚えていない。つまりニーナが物語と向き合うのは、このときが初めてといっても過言ではなかった。
魔法使いは箒に乗って空を飛んだ。果てしない空を縦横無尽に飛び回る、あの海猫のように。魔法使いがひょいと杖を振るえば、からからにひび割れた大地に水が湧き上がり、木々が生い茂り、草花が芽吹く。料理だって何のその、魔法の力でぽんと火を熾せば、煮崩れなんて知らない具だくさんシチューの出来上がり。
ニーナは無我夢中で小説を読んだ。ランタンの明かりを頼りにして、積み上げられた新聞を片っ端から読んでいく。魔法使いの冒険はまだまだ終わらない。気がつくとニーナは箒に跨って夜空を翔んでいた。そこらじゅうに光っている星を摘んで、ガラス瓶に詰めていく。あとで宿の皆と蜂蜜に漬けて食べるのだ。「ニーナ殿、どちらが多く星を採れるか、いざ尋常に勝負!」「やれやれ、センセイは女心がわかってないなあ」三角帽子にローブを身につけた十六夜とパコは、ドラゴンの背中に乗っている。「お嬢さまぁ、爺はこちらですぞい!」大きなタコが汽笛を鳴らしながら、夜空の海を泳いでくる。「爺、タコになってしまったのですか?」「いやはや、困ったものです。どうしましょう」「どちらでも構いません。タコになっても爺は爺ですから」ニーナがひょいと杖を振るうと、黄金に輝く三日月の橋が架かった。「さあ、これを渡って我が家に帰りましょう」
***
「ニーナ殿、ニーナ殿。何故こんなところで寝ているのだ。風邪を引いても知らんぞ」
肩を揺すられて、ニーナはやおら覚醒する。目の前に十六夜の顔があった。いつの間にかソファの上で眠ってしまったらしい。窓の外からうすぼんやりと光が差している。
「……十六夜」
「おはよう。いやしかし、ばかに散らかっているな。何かあったのか?」
散らかり放題の新聞を拾い上げようとする十六夜に、ニーナは掴みかかった。
「うわっ、ニーナ殿、いきなり何を」
「十六夜、この物語の続きを読ませてください!」
「な、何?」
金色の目を爛々と輝かせて迫るニーナに、十六夜は思わず仰け反った。
「私、物語を読むのは初めてでした。とても面白かった。とても素敵だった。私は夢の中で、魔法使いになった。空も飛んだ」
「あ、ああ……」
十六夜は新聞に目を落として、全てを察する。
「俺の小説を、読んでくれたのか」
ニーナは頷いた。じっと十六夜の顔を見つめて、色よい返事を待つ。黄金の眼の中には喜びが踊り、白い頬は紅を差したかのように赤らんでいた。十六夜は無意味に口を開閉させ、やっとの思いで紅潮した顔を背けた。
「……き、君が楽しんでくれたなら、良かった。続きはまた、書く」
十六夜の辿々しい返事を聞いて、ニーナはいっそう目を輝かせたのだった。
***
パコが調理場でコーヒーを淹れていると、のそりと黒い影が現れた。
「よっ、今日は一段と早いな、十六夜。……十六夜?」
心ここに在らずといった様相の十六夜が、おぼつかない足取りで歩いてきて、そのまま壁にぶち当たる。
「わっ、何やってんだよ。気でも触れたか?」
ぎょっとしたパコが思わず手を止める。十六夜は力なく首を振った。
「パコ……教えてくれ。俺はどうしたらいいのだ」
「どうしたもこうしたもあるか。いいから僕にもわかるように説明してくれよ」
パコは熱々のコーヒーに口をつける。壁に額を預けたままの十六夜が、絞り出すような声を上げた。
「ニーナ殿は、あれほどに可愛かっただろうか」
「っ……! げほっ、ごほ」
危うく吹き出しそうになったパコだったが、どうにか堪えることに成功する。
「あの、一応言っとくが、ニーナちゃんは最初からべらぼうに可愛かったよ」
「やはりか……」
「やはりか……って何?」
「俺の目は余程の節穴だったらしい。今の今まで気づかなんだ。俺は間抜けだ。ひょうろく玉だ」
耳まで真っ赤に染めた十六夜が、両手で顔を覆って蹲る。パコは面倒ごとの気配をひしひしと感じて、思わず眉間に手をやった。
「あのさ。それってつまり、ニーナちゃんに惚れちゃったってこと?」
「惚れ、た? 俺が? ニーナ殿に? そうか、これが四百四病の外というものなのか」
十六夜は天啓を受けたかのようにうっそりと呟いた。かと思えば、すっかり狼狽してパコにしがみついてくる。
「パコ、頼む! どうにかしてくれ!」
「ど、どうにかとは?」
「愛しさのあまり、今にも気が狂ってしまいそうだ!」
切羽詰まった友の剣幕に気圧されて、パコは明後日の方向を見やった。
「まいったな。こりゃ、ただごとじゃないぞ」
第二章おわり




