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ご都合がよろしければ夕食をご一緒に、と言ったのはメルティだった。だが、主の意向なく侍女が勝手に誘うはずがない。シャルロッテは思わず、まじまじとリシュリーの顔を見た。
今日の菓子は、いつか偶然顔を合わせたことのある、青い扉の店のものだ。シャルロッテの好みだと見当をつけたのだろう。そして、おそらくリシュリーの指示で、侍女からの夕食への誘いがあった。少しは歩み寄りを見せているということか。
相も変わらず、無表情で、にこりともしない。だが、顔を覗き込んだシャルロッテに対して、今日は真っすぐ視線を返してくる。ほんの少し、頬の輪郭がへこみから回復しつつある。とても元通りには遠そうだが、げっそりとした印象は薄くなった。
これが回復ならいい。けれどもし、ただ諦めただけなのなら、怖いような気もしていた。シャルロッテに関わりの様子を見せたのならば、良い方向に考えよう。そう思う。
リシュリーの両親が、王都の屋敷から本職の料理人をつけてよこしたらしく、かなり本格的な夕食が出された。彼女の分の料理は量がかなり少なかったが、見た目も栄養もよく考えられているようだ。無理に連れ戻しに来ない彼女の両親の葛藤が、そこに見える。
夕食後、小ぢんまりとした居心地の良い部屋で、彼女の淹れた紅茶を飲む。食後に丁度良い、ほんのり甘いお茶だった。
「シャルロッテ様は、どうしてここへいらっしゃるの?」
ついさっきまで何かを話していたかのように、沈黙を破ったとは思えない普通の声で、リシュリーが尋ねて来た。少し驚いてしまったが、会話をしようとしている彼女の気持ちを受け取り、それに返答を考えた。
「そうよね、不思議よね。学舎では私たち、あまりお話したことはなかったもの」
「それに……エルデバードに会いにこちらにいらしたのではないのですか? もうすでに、王都へ戻ったと聞きましたけれど」
おやまあ、とシャルロッテは片眉を上げた。知っていたのだ。シャルロッテが彼に惹かれていることを。そして、リシュリー自身はといえば、決して彼を諦めてはいないし、これからそうするつもりもないのだと言うことが伝わってくる。
「それは不遜というものよ、リシュリー様。どうぞ彼に会いにゆけばいい、それでもこのシャルロッテに彼はなびかない、と、あなたそうおっしゃっているのよ?」
わざと不機嫌さをのせてそうぶつけてみた。彼女は、それが本気ではないと知っているのか、目を合わせ、そして笑った。
「ええ」
短く肯定された。さすがに、言葉をなくした。彼女は、さらに言う。
「私は不遜で、自信家です。あなたは優しい方だわ。だから悲しい思いを人生に刻んで欲しくない」
「……お二人に一体、何があったのでしょう。そう言い切れる背景には、愛や恋だけではないものがおありになるのね。けれどね、自信家? とんでもない……今のあなたは、はかなく消えてしまいそうよ。
最初の質問に戻りましょう。私がここへ来るのは、リシュリー様が心配だからですわ」
ゆっくりと笑みを消し、リシュリーは首を振った。
「誰もがそう言います。心配だ、と。でもね、そんなものはいらないの。私は大丈夫。信じているのですもの」
「何を?」
「すべては元通りです。いつか、必ず。私はそれを信じてる。いえ、知っているの」
でも、と彼女は続けた。
「見た目が心配されても仕方がないことは、分かっています。気持ちに体がついていかないのかしら」
「馬鹿ね……」
シャルロッテは、呆れると共に、彼女を子供っぽいと評していた自分自身の見る目のなさに、嘆息した。
「あなたは辛くて悲しいの。いつかエルデバード様が戻ってくると、確かに信じているのでしょう。けれど、それと現状とは別なのよ。
人は、未来の期待だけで今を幸福だと思い込むことは出来ません。あなたは強くあろうとするあまり、自分の気持ちに気づかないふりをしているだけ。
メルティを見てごらんなさい。可哀想に、いつも気をもんで、あなたのために心を砕いて、そんな様子も見えていないのね、あなたったら」
驚いて、両手を意味なくぶんぶん振っているメルティに、ふっとリシュリーの目が移る。そうして少し見つめあった後、その頬には、本当に久しぶりに、彼女らしい笑みが少しだけ浮かんだ。
が、すぐに泣きそうに歪む。そこに涙は見えない。
自分のためには泣かないと、そう決めているのだ。必死でせき止める涙の行き先は、もうきっといっぱいになっている。溢れる前に、来るべき未来は来るのだろうか。
「あら、雨でしょうか……」
困ったように必死に話題をそらすメルティだったが、確かに、窓にはぽつぽつと雨粒がつき始めていた。いつから降っていたのだろう。やがて雨は、本格的に土砂降りになった。
「これは……こちらは王都ほど道も良くありませんし、馬車で大丈夫でしょうか。お嬢様、もし……」
シャルロッテを一晩滞在させるつもりで、メルティが提案しかけた時。扉の向こうが不意に騒がしくなった。王都から離れているとは言え、治安は良かったから、きっと衛兵も配置していない。悪漢が押し入ったのかもしれない、と緊張が走る。
メルティは急いで扉の前に立ってノブを押え、シャルロッテとリシュリーも思わず立ち上がった。騒ぎは収まらない。
「お嬢様、ドアの前に何かを置いてくださいませ」
メルティは振り向かずにそう言うと、素早く扉から滑り出て行った。外で食い止める気だろう。しかし、中の二人がソファでもつっかえ棒代わりにしようかと思案しているうちに、侍女は素っ頓狂な声をあげた。
「まあ、まあ、お待ちください! その格好でお入りにならないでくださいな!」
警戒というよりは、親しいものを咎める声だ。そう気づいて、動きを止める。騒がしくも緊張感のある気配が、扉の前に立つ。そして勢いよく開かれた。
ずぶ濡れのマントの男が立っていた。雨よけだろう、黒いフードのついたそれを、目深にかぶっている。したたる雨をものともせずに、彼は、フードをばさりと跳ね上げた。
後ろに、全く同じ格好をした男がいたが、彼はそのまま静かに控えている。
現れた顔を、シャルロッテはよく知っていた。
笑わない口元と、くつろぐことを知らないような厳しい眼差し。少し濡れた前髪をかきあげ、彼は、ただ真っすぐリシュリーを見た。
すぐに、分かった。その横顔にはもう、学友と笑いあう気安さも、親切を分け与える鷹揚さも、ゆったりと人生を過ごす余裕も、見えない。
「エルデバード……」
彼だ。
戻ったのだ。
一瞬で理解した。彼は彼になった。記憶が、戻ったのだ。
リシュリーの呟くような呼びかけに、彼はほんの二歩で彼女の元に歩み寄り、そして――強く抱きしめた。
きっと彼女は泣いている。
その時、後ろに控えていたフードの男が、そっとシャルロッテに近づいてきた。
「大変に申し訳ないが、お茶会はお開きとさせてください。エルデバードの従者たる私が、責任を持って屋敷までお送りいたします。どうぞ……」
優雅に促され、慌てて頷いた。従者の後について退室しようとした時、リシュリーの声に呼び止められた。
黒いマントに半分隠れたまま、顔をのぞかせた彼女は、涙を浮かべたまま、
「あり、ありがとう、シャルロッテ様」
いろいろと言いたいことがありそうだったが、言葉にならないのか、喉を詰まらせたような声で礼を言う。なんだか、泣きたくなった。こちらは胸が詰まる思いだ。
良かった。
エルデバードの幸福がどこにあるのかは分からない。記憶の戻った彼は幸福そうには見えなかった。けれど、きっと。リシュリーのためには、これが。
「王都でお茶をしましょう。いいわね?」
もうはや嗚咽するほどに泣いている彼女は、言葉もないままこくこくと頷く。シャルロッテは彼女に笑いかけ、エルデバードに黙礼すると、今度こそその部屋を後にした。
もう夏が終わる。恋を失ったが、友人を得た。
すぐに王都へ戻ろう。社交シーズンの最後にはまだ間に合う。父のために、少しは自分の結婚の方を進めなければ。きっとやきもきしているだろう父を思って、少し微笑んだ。
「痩せたな」
第一声だった。そう言わずにいられないほど、リシュリーは痩せていた。むせび泣く体を抱きしめたまま、頬に触れる。彼女らしい丸みのある頬は消え、大人びたラインになっている。
自分のせいだ、ということは分かった。だが、謝ることはしない。きっと、彼女はそれを望んではいないからだ。
「ありがとう、リシュリー」
エルデバードは、記憶を失っていた間の記憶が、残っている。だからこそ、その時間がリシュリーの望みだったのだと分かる。
幼い頃の記憶が、少しでも幸福を感じることに罪悪感を覚えさせ、自分を追い込むようになった。喜びも楽しみも否定し、ただ生きて来た。
その記憶を無くした瞬間から、エルデバードは『もしも』の世界を生きて来た。妹の事故がなかったら。リシュリーと出会わなければ。人生に、生きる意味を見出そうとする若者の生き方をしていたなら。
「両親に聞いた。俺の記憶を刺激しないよう、何も話さず、できるだけ顔を合わせず生活してほしいと、君は頼んだそうだな」
「出過ぎた真似してごめんなさい。できるだけ長く、あの状態でいて欲しかったの」
「そして君は、ここへ来た」
「そうよ。私はね、自信家なの。知っていたのよ。もしも、あなたが記憶を思い出すとしたら、その道しるべは私よ。私を鍵にして、あなたは全てを思い出す。そう知っていたから、ずっと遠いところに来たの」
だから、礼を言った。
エルデバードは、幸福だった。素直に笑い、素直に人生を謳歌し、友人と過ごす日々をもらった。それらは本当なら得られなかったはずのものだ。
今はもう、消えてしまったけれど。
その時間の残滓がきっと、いつか自分を救うのだろう。なにもなかった人生に、一度きり、与えられた贈り物だった。
「リシュリー。ありえなかった時間を経て、それでも俺は、もう一度申し込もう。卒業したらうちに来い。花嫁修業も十分だろう?」
「私の返事は同じよ。あの時、全てをかけて誓ったの。他の誰でもない、あなたに。
でも、あなたは本当にそれでいいの?
新しい人生の記憶は、きっとあなたを変えてくれる。友人と関わることの深い意味を、あなたは知ったはずだわ。そして、誰かを好きになることの意味も」
エルデバードは、自分の唇の端が少しだけ笑んだことを知っている。リシュリーが驚いているからだ。記憶を失っている間、人々が見せた顔と同じだ。仮面のような顔に浮かぶ表情が、彼らを驚かせた。
記憶が戻った今、この笑みがきっと記憶の残り香。リシュリーを安心させたくて、その気持ちを表すことを選んだ。
もう一度彼女を引き寄せて、おずおずと背中に回る手を感じながら囁く。
「君は正しい。俺は確かに、君の足跡をたどった。初めてうちに来た日から、愛想のない君だったのに、気になって仕方がなかった」
「嘘。あなたが嫌いって知っていて、甘いお菓子を持って行ったのに」
記憶があってもなくても、彼女と出会った日からずっと、途切れず心にいた人だ。小さな薔薇の棘のように、エルデバードの人生にひっかかっている。それをたどって、ここへ来た。
「リシュリー。記憶もないのに、俺は君を好きだったよ」
子供のように抱き着いてきた彼女を抱きしめて、ありがとう、と呟いた。
そうして、卒業してすぐに、二人は婚約した。半年の後には全てを整えての輿入れが行われ、再び巡って来た社交シーズンには、夫婦として出席する。
エルデバードは笑わない。けれどリシュリーはそれで良かった。彼の優しさは自分だけが知っている。知っていることを、周囲も知っている。
幸福とは何か。なんの悩みもないことだ、とは思わない。悩んでも苦しくても、それを共に乗り越える人がいれば、それは幸福なのだとリシュリーは思う。そのことを、誰も知らないとしても。
シャルロッテにだけは、いつか話をしよう。子供みたいな態度を作るのを少し控えたリシュリーを見て、彼女はとても嬉しそうに笑ってくれるから。
侯爵の妻という立場は、決して楽ではない。けれどリシュリーは平気だった。隣にエルデバードがいるから。彼もまた、自分の存在で強くなる。だから二人は離れない。
到着した夜会の扉の前で、目を見かわして、笑わない男とほほ笑む女は、手を取り合う。
「セシュラール侯爵、ならびに、セシュラール侯爵夫人、ご到着!」
死が二人を分かつまで。
<完>
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新連載を開始しています。
「それはあの日の雨のように」 有沢ゆう
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