第六話 永遠のリンゴ
翌々年。
「まさか、あの人が寿退社とはねぇ。しかも、お相手は十五歳も年下だとか」
「まあ、でも、新郎の家業がかなりの好業績なんだってさ。次はそこで辣腕を振るうんだろうさ」
温かな春の日差しの中、元部下達がフラワーシャワーで迎える階段を、新郎と新婦が寄り添い降りて来る。
「ねえねえ、あそこで腐ってるの佐野さんじゃない?」
参列者の一人が、式場端の芝の広場で、ベンチに腰掛けて一人ぼんやりとしている佐野の姿を見つけた。
「痛々しいなぁ。専務のお嬢さんとの縁談が駄目になった時、もう一度付き合ってくれってすがり付いてたもんな」
当時その場に居合わせた営業課の幾人かが、思い出し笑いを堪えている。
数ヵ月前、営業課長のデスク脇。フロアは夕焼けに染まり、二人の影が逆光に浮かび上がっていた。
「私、格好つけるの止めたの。だから、今ならはっきりと言えるわ。私は、あなたに酷い捨てられ方をしました」
そうは言っているが、貴子には、もう、自分を捨てた男を恨む様な、過去に縛られる様子は無かった。
「それは、悪かったと本当に思っている。だから、次こそは死ぬまで大切にするから!」
この女は、何だかんだ言っても、まだ、俺に未練が有る。だから、ぱたりと社内で貴子の浮いた話を耳にしなくなったのだと、そう、高を括っているのであろう余裕が表情にありありと見えているが、本人はそれを隠せているつもりで、貴子に向って両手を合わせ、拝み倒していた。
本当は、こんな男の顔は二度と見たく無かったが、部署が違うとは言え同じ社屋で働いている。いつかはこんな日が来るかも知れないとも思っていた。だから、貴子は、一枚余分に用意していた“これ”を、ジャケットのポケットに忍ばせていた。
「でもね、そのおかげで、本当に素敵な人と出逢えたの。有り難う、感謝しているわ。だから、はい。これ」
「え?これって?」
佐野が、目を白黒させている。
「そう、結婚式と披露宴の招待状」
人生最高の作り笑顔を従えて、貴子はそう告げた。
佐野の手からは、招待状の入った封筒がはらりと落ちて、佐野自身もまた、その場にへたれ込んだ。
既に招待状を受け取っていた営業課の面々は、他部署に押しかけて来てまで演じられた佐野の痴態を、半ば憐れむ様に眺めたのであった。
新郎新婦が教会からの大階段を降り終え、参列者らが記念撮影の準備に並び始めた頃、珠樹が亜佐美に手を振った。
「亜佐美さん!」
「あら、珠樹ちゃん。久しぶりっ」
笑顔で抱き合って、互いにフォーマルドレスの裾を揺らしながら幸福感を共有している。
「ねっ、私の言った通りになったでしょ?」
「うん、本当。『“ドーテー”男はちょっと鈍いから、背中を押してやったら良い』って。その通りにしたら、こんな綺麗な“お姉ちゃん”が出来ちゃった」
「でしょぉ?」
亜佐美は人差し指を立てて、誇らしげにウィンクをした。
「でも、意外。私は、てっきり亜佐美さんはお兄ちゃんに気が有るんだと思ってたんだけれどなぁ」
「ええ、私も勇樹君の事は気に入っていたのよ?でもね、“あいつ”程、色々思い切れなかった訳よ」
見た目可愛い、年下の彼。気にはなっていたけれども、それは物欲の様なもので、年の差、家庭環境の差、その他諸々の差を互いに埋め合って一緒に生きて行く「結婚」と言うものは、自分には向いていないし、そんな覚悟も無い。だから、これで良かったと思っている。後悔は無い。
「でも、亜佐美さんも、なかなかのワルですなぁ。これで、出世街道に邪魔は無しですって?」
「良いじゃない。これで、私達皆が幸せになれるんだから」
その空席を埋めるのは、亜佐美しかいなかったのだから。
「ねえ?今更だけれど、本当に私で良いの?私は、傷みかけたリンゴの様なものよ、普通なら捨てられてしまう様な」
祝福の笑顔に囲まれる新婦が新郎に問い掛けた。
「歳のことを言っているの?」
答えなんか分かっている。今、隣でカメラに向かって笑顔を投げる彼が、拒絶の言葉を返す訳が無い。
「そればかりじゃない。あなたは、オンナを私しか知らないけれど、私は……」
ファインダーに収まらない参列者を中心に寄せるカメラマンの指示の声が、言葉を遮った。
「僕はそう思わないけれど、君の言う通り、君自身をその熟れ過ぎたリンゴに例えるなら、僕だったら、その本来の味を最大限に引き出す事が出来る筈――――貴子……愛してる」
「勇樹、私も……」
二人は、参列者達とカメラのレンズが見守る中、深く熱い口づけを交わし、そこに居る全ての者が永遠の愛を疑わなくなるまで、離れようとはしなかった。あの日差し伸べられた傘の色の様に、青く清々しい空の下で。