おまけ 春
アドリアは公爵家の令嬢という生まれながらの高い地位に加えて国外にまでそれと知られた麗人だ。その美貌を誰もが褒め称えた。儀礼に関しても完璧である。武の才能についても選考会での雄姿を見て疑う者は誰もいない。
誰もが彼女を尊敬した。皆将来の王妃となるために生まれて来たような人だと思い、ごく自然に頭を下げた。……貧乏男爵家の出身だった王妃と違って。
正直に言えば、王妃はアドリアのことが気に入らなかった。子供の頃の王妃はアドリアのような恵まれた境遇ではなかった。高い素質を持ちながら満足な教育を受けられる環境にはなかったし、努力を認められることもなかった。将来の王妃になるだろうとは誰も考えなかった。
気に入らないものだから顔を合わせれば何かとチクチク棘のある言葉を使ってしまうのだが、アドリアは素晴らしい鈍感力を発揮してさらりと受け流してしまう。息子はそんな婚約者に夢中だ。
何だかもう何もかも気に入らないのである。王妃は嫁いびりする姑の一歩手前に成り果てていた、というかほぼなっていたのだが何しろアルス王子は気配りと根回しの人だったので、母親と愛する婚約者が二人きりにならないように常に注意していた。
思えば気の毒な人ではある──と王子は思う。生まれたときから王子である自分とは違い名ばかりの男爵家からの成り上がり王妃で、宮廷は敵だらけだったに違いない。精一杯突っ張って突っ張って生きて来たのだろう。そしてまた父陛下というのが、このようなことを申し上げては不敬に当たるかもしれないが、政務にかけては正直でくの坊である。そのような陛下をサポートして、というか途中からは取って替わって政治を執ってきた。国王は手が空いたのをいいことに好きな軍隊に入り浸ってみたり浮気したりとやりたい放題だった。もはや王妃なしでは国は回らず、宮廷の誰からも傅かれる地位を自ら手に入れた。間に王子も三人産んで、国母を超え国家そのものであるという自負を持っている。
しかしそれで何を手に入れたかというと、次の国王までのつなぎの立場でしかなかった。家庭的にも夫との仲は冷え切っている。長男はあっという間に自分の立場を半分奪ってしまった。次男は父親そっくりで気に入らないし三男は思春期に入ってしまって寄り付かない。
可哀想な人ではあるのだ。王子は母親を常々気にかけて親孝行の機会があれば実行してきたのだが、それはそれとしてそういう母親の醜い姿を見たくはなかったし愛する婚約者に心労もかけたくなかったので、嫁いびりのチャンスだけは念入りに潰していた。
あるときなど王妃はとうとう『王太子妃心得講座』などと称してアドリアを呼び出したのだが、耳ざとく聞きつけた王子はこの時にはマリエラとアウラの二人の伯爵令嬢を同席させた。「王妃陛下が花嫁修業をつけてくださるそうだよ」などと言って。
ちなみにカルトゥール伯爵令嬢も誘ったのだが来なかった。この世界の常識では割と切羽詰まった年齢のはずなのだが何故か結婚しようとしないのである。
「王妃様自ら花嫁の心得を教えてくださるなんて嬉しいです! よろしくお願いいたします!」
「え、ええ……」
王妃はアウラのキラキラ輝く瞳から微妙に目をそらした。アウラはそのあまりの善良さのために「心の汚れた者が彼女を見ると目が潰れる」などと言われていた。実際王妃はこの時アウラを直視できなかった。
「光栄でございますわ。本日は宜しくお願い致します」
またその聡明さで聞こえたマリエラの前で邪心を持って振舞えばたちまち見透かされてしまうだろう。とてもではないが嫁いびりなんてできる雰囲気ではなかった。
王妃の苛立ちはますます募った。
「エリスちゃーん、よく来たわね! 自分の家だと思ってゆっくりしていって頂戴」
「あ、はい。よろしくお願いいたします……」
フラストレーションが溜まるとエリスを呼び出す王妃であった。心を鬼婆にして本音を言えば、息子の嫁はこっちの子が良かった。エリスに娘になって欲しかった。
エリスを歓待するため王妃は毎度贅を尽くした。王城に寝所を用意して花で埋め尽くした。食事は三食豪華なもので、専属の使用人たちが至れり尽くせり奉仕した。着替えもろくに持っていないエリスのために最上級の布地と仕立屋を用意した。
この国の実質的な支配者である王妃が多少浪費したところで文句を言う人は誰もいない。が、その浪費を甘受する側についてはその限りではない。エリスに注がれる視線は冷たいもので、居心地の悪さときたらなかった。
王太子妃選考会から四年が経った。あれからエリスは王城と田舎とを行ったり来たりする生活を送っていた。
この「王妃様のお気に入り」の少女は事あるごとに──いや何もなくても王妃の心がささくれ立つたびに呼び出された。エリスは仕方なく従った。支援してもらっている立場で断れるものでもない。荒れ果てた寒村の生活に少しは余裕ができたのは王妃のおかげがあるのは否めないのだから。
呼び出されて城に上がりはするのだが、しきたりだらけの王城の生活にも上流階級の人間関係にも都会暮らしそのものにもどうしても馴染めず、理由をつけては故郷に帰ってしまうのだった。祖父には何度危篤になってもらったことか。
「久しぶりねエリスちゃん!」
今日もまた呼び出されたエリスはエントランスで待ち構えていた王妃に抱きしめられた。後ろの行政官が冷たい目で見ていた。この忙しいのに余計な手間を取らせるな、とでも言いたげな顔だ。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
エリスは心の中で平謝りに謝った。
「会えなくて寂しかったわ。いっそ城に住めばいいのに」
「いえ、祖父母がおりますので……」
「じゃあご一緒に」
「土地を離れたがらなくて……」
手を引いて歩きながらあの手この手で移住を勧める王妃にエリスはあの手この手で言い訳した。
「エリスちゃんのために用意したのよ」
案内された部屋の大きなテーブルの上には色とりどりの布が所狭しと広げられていた。パーティーのドレス用の上質の布だ。
血の気が引いて立ちくらみがした。じりじりした焦燥感すら感じていた。
「あの、王妃様、こういうのは本当に困ります」
「遠慮しなくていいのよ」
遠慮ではなく本当に嫌なのだが話が通じない。
今のエリスはこれらの布を用意する原資が税金であることを知っている。エリスの感覚では無駄遣いだ。そのお金があればどれだけの人が今夜の食事の心配をしなくて済むのかと思うと、こう、胃の辺りがきゅーっとするのである。
王妃にも言い分はあった。
二年半前、王太子夫妻の間に子供が産まれた。アウレリア内親王である。両親とも美形であり、この子も将来はきっと美しくなるだろうと期待されている。
祖父母となった両家当主たちは狂喜した。国王夫妻にとっても初孫だが公爵夫妻にとっても初孫である。国王が産着を与えれば公爵はベッドを、公爵夫人が布団を贈れば王妃は居室を、と贈り物合戦はエスカレートする一方で、困った王太子夫妻は「贈り物は節目ごとに両家交互に指定したものを。それ以外のプレゼントは原則返却」というルールを定めた。
そういうわけで宙ぶらりんになった王妃のプレゼント欲はちょうどよくそこにいた娘にしたい女の子へと向かったのである。
そういう事情があるとはいえ、それは王妃の一方的な事情にすぎない。エリスにしてみれば受けるいわれのないプレゼントだ。それに王妃が贈るものは質も量も過剰だった。ドレスにしろ何にしろほとんどは無駄になってしまう。
例えばこの布だが、何しろエリスは細身なので一度彼女用に仕立てられてしまえば他の人には着られない。着たらはち切れてしまうだろう。仕立て直すとしても子供用にするしかない。つまりこれらのドレスはほとんどエリス専用である。中には一度も袖を通さず捨てられてしまうものもあるだろう。高価な布にもかかわらず。それを思うと何とも申し訳なくて、城に来るたびにエリスの食欲と体重は落ちた。食事だって毎食豪勢なものだが四年前の何も知らなかったエリスではない。喜んで肉ばかり食べている気にはならないのだった。
結局仕立てられてしまったドレスを身にまとってエリスがパーティー会場に姿を現すと衆目は一斉にそこに集まった。思わず感嘆の声を漏らす者がいれば嫉妬の舌打ちを響かせる者もいた。
今やエリスは並ぶ者のない精霊使い、アレを除けば王国最強の戦士である。選考会で負けはしたが、負けた相手がアレでは仕方がない。もしアレが出場していなくて決勝まで進出していたら、王太子妃とどちらが勝っていたか──というのは今でも語り草だ。
その上エリスは栄養不足の痩せっぽちな少女だった頃からたった数日の大会中にファンが付くほど恵まれた容姿の持ち主だ。栄養状態が改善されて成長してみたら、そこにいたのは桜の花にたとえられる可憐な美少女だった。彼女がパーティーに参加すれば本当に花が咲いたようだった。パーティーどころか王城の庭で所在なさげに佇んでいるだけでも絵になるのである。
エリスは強さにおいても美しさにおいても並外れていた。両方を兼ね備える者は他には王太子妃くらいなものだ。手の届く唯一の花がそこに咲いている。「誰がこの花を手折るのか?」というのは貴族の若者たちの大きな関心事だった。
彼らはエリスを秘かに『花の精』や『春の君』などと呼んでいた。一方城の女たちは陰で『ダウカス』とあだ名していた。その草はレースフラワーと呼ばれるほど繊細で可憐な花を咲かせ、昔のある王妃が好んで庭に咲かせていたことから王妃のレースとの雅称を持つ。しかし一般にはノラニンジンの呼び名の方で知られているだろう。つまりは『王妃様お気に入りの田舎者』との嫌味である。嫌味であってすらその可憐さを否定できないあたりが彼女たちの心情の複雑さを物語っていた。
今日のパーティーは昼日中、王城の中庭での立食パーティーである。形式からもわかるように簡略的な、非公式のパーティーで、出席者も未婚の若者ばかりだ。要するに王宮が出会いの場を提供しているのである。
そういう場にこのような少女が現れるというのは他の女性からしてみれば迷惑極まりなかった。彼女たちにしてみれば嫌がらせに近い。
もっとも、心の中でどんなに嫌っていたとしても、この最強の精霊使いに面と向かって戦いを挑む者はいない。血気盛んなこの国の女たちであってもエリスに挑戦することは無謀というより自殺であると理解していた。代わりに無視するか、あるいは遠巻きに嫌味を言い続けた。
エリスはほとほと参っていた。誰もが顔見知りの小さな村で誰からも愛されて育ったエリスには、この欲望と悪意渦巻く王城は居心地が悪いなどというものではなかった。
このパーティーにしても出たくて出たものではない。王妃がどうしてもと言うので仕方なく参加したのに、待っていたのは欲望を浮かべた男性陣の顔とあからさまに嫌そうな女性陣の顔である。
(帰りたい……)
まあ実際にはそこまで酷いところでもないのだが、エリスの主観としては魔窟だった。力さえあれば成り上がれるこの国では上流階級といってもはっきり言って緩い。その緩さにすら耐えられないエリスに王宮暮らしはまず無理だった。
しかしそんなエリスの心情に関わりなく、若者たちのアプローチはいや増すばかりだった。特にここ一年は熱心な貴族が二人いて、人前でプロポーズして既成事実化してしまおうなどと考えているものだからエリスは必死で逃げ回っていた。
厄介なのは彼らだけではない。第二王子のクロードもまたプロポーズまがいに口説いてくる。ところが実のところ彼はある高位貴族の家に婿入りすることが発表されている。当然エリスと結婚するような立場ではない。にもかかわらずちょっかいを掛けてくるようなタイプだったので、王妃の手前口には出さなかったものの大変に嫌っていた。この三人については精霊たちに覚えさせて気配を察知して、顔を見る前から姿を隠してしまうほどだった。
案の定この日もその三人がそろっていた。なるべく距離を取ろうとしたエリスだがパーティー会場で逃げられるものでもない。
「やあ──」
そして三人は同時に声を掛けようとして、エリスの前でばったりと顔を合わせた。
先に声を出したのはクロード王子だった。
「……君たちか。いい加減諦めたらどうだね? 彼女が迷惑しているのがわからないかな」
言われた二人は笑みを浮かべた。皮肉な、あるいは小ばかにするような笑みだ。
「婚約がお決まりの方がこんなところにいらっしゃってはよろしくないのでは?」
と言ったのはペイガン伯爵家の嫡男マルコスで、同意して続けたのはクラレンス侯爵家の子息ウィレクだ。
「ミリアム様がご存知になればどうお思いになることやら」
しかしクロードは余裕の表情でこう答えた。
「何、彼女とて貴族だ。夫が一人や二人愛人を抱えるなど良くある事と、きっと許容してくれることだろう」
あまりの言い分に二人とエリスは絶句した。
(うわ……、奥様の意志なんて考えずにすごいこと言ってる……。私だってそんなの嫌だし……)
ぎょっとしたのは三人だけではなかった。周りにいた他の貴族たちも思わず目を向いてクロードを凝視した。
(あ、今)
その場の全員の目がクロードへと向いた瞬間、エリスは『インビジブル』の魔法で姿を消した。ついでに足音も消して、人の間を縫ってこそこそと逃げ出した。
「ふぅ……っ?」
建物の陰で魔法を解いたエリスは胸をなでおろそうとして硬直した。先客がいた。
そこにいたのは第三王子のレオンだった。護衛もつけず、壁にもたれてあくびしかけていたレオンは突然現れたエリスを見て、こちらも硬直した。
レオンはエリスと同い年だ。と言ってもエリスは自分の誕生日を誤認していたので実年齢は一年近く離れていたのだが。母親の血のせいか精霊使いの素養を持っていて、エリスに時々精霊の使い方について尋ねることがあった。本人としては何となく気恥ずかしくてまず母親に尋ねるのだが「エリスちゃんに聞きなさい」と突き放されるのだった。
そうした事情もあってエリスとしては王城では比較的親しくしている相手だ。もしかしたら一番親しいかもしれない。
「……これは殿下、ごきげんよう。お邪魔でしたでしょうか」
レオンは一瞬目を泳がせてから答えた。
「……あー、俺は城下の商家の三男坊、レオンだ」
「どういうお芝居ですか?」
「だから、その、気を使う必要はない。親に言われてこんなところにいるが、正直居心地が悪くて仕方ないから隠れていたんだ」
「あら、お気遣いありがとうございます」
エリスは口元を隠して微笑んだ。
実のところ王妃はレオンをエリスの婿にしようと狙っていた。日ごろから息子をさかんにせっついているのに進展しないものだから、距離を縮めさせようと二人をこのパーティーに出席させたのである。
しかし本人にしてみれば──エリスは十三歳で選考会に出場するほどの傑出した戦士であり、誰もが認める美貌の持ち主だ。それを除いても素晴らしい女性だとは思う。そんな彼女に自分自身が釣り合っていないと感じていた。
レオン自身は何も持っていない。資産もない。公務も持たせてもらっていない。精霊は見えるが動かせない。あるのは王子という肩書だけだ。
要するにコンプレックスを感じていたのである。それでパーティー会場まで来てはみたもののとても声を掛けられるような心境ではなく、こんなところに隠れていたというわけだ。
「エリス、どこへ行った?」
「隠れていないで出ておいで」
その時、クロードたちの声が近づいてきた。エリスは慌てて立ち去ろうとした。
「ああ、来ちゃった。殿下、それでは失礼いたします」
「……逃げているのか?」
「そうなのです。顔を合わせ辛くて──」
「では、失礼」
「きゃっ」
レオンはエリスの手を取って走り出した。
王妃は人の事情を斟酌するタイプではないので気づいていないだろうが、レオンはエリスが言い寄る貴族というよりこの城自体を嫌がっているのを知っていたし、かと言って断り切れない事情も知っていた。だから逃走に手を貸すつもりになった。
エリスはレオンに手を引かれるままにその背丈を見上げた。
十三歳から十四歳にかけて、栄養不良で止まっていた成長が再開してエリスは五センチだけ背が伸びた。胸もすっかり膨らんで女らしい体つきになっている。とはいえもうちょっと背が欲しかったエリスだった。
そのエリスから見るとレオンは見上げるほど背が高い。うらやましいと素直に思った。
二人は城の通用口から階段を駆け上がって屋上に出た。ほとんどの人が知らないルートだ。屋根の職人の他には暇を持て余した王家の三男くらいしか知らないだろう。角度的に屋根に隠れて見えないが、パーティー会場からはまだ三人の声が聞こえてくる。ずっとエリスを探しているようだ。
エリスはほっと息をついた。
「あの、ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことじゃない。むしろこちらに非がある。いつも悪いな、兄──いや、殿下が」
「あ、いえ、そんなことは……」
「それに母──いや、王妃陛下も」
「あ、いえ、その……。あの、先ほどからおっしゃりようが面白いです、殿下」
「殿下はやめてくれ。俺は商家のお荷物の三男坊、レオンなんだ」
「……はい、レオン様」
エリスはくつくつと小さく笑った。扇子を持っていないので手で隠して。
そして二人は声をひそめておしゃべりしながらパーティーが終わるまで隠れていた。
引き止める王妃を何とかなだめてエリスは王城を後にした。今回もくたびれ果てたエリスは乗合馬車に乗り込んだ瞬間大きく息をつこうとして、むせた。知った顔がそこにあった。
第三王子その人だ。
レオンは目立ちまくっていて他の乗客から席を開けられていた。身なりこそ平民らしいものに変えていたもののお付きの衛士が大変な異彩を放っていたし、そもそも本人の醸し出す高貴な雰囲気が全然隠せていないのだった。
「おい姉ちゃん、乗るなら早くしてくれよ」
入り口に立ち尽くしていたエリスは馭者に促されてようやく動き出し、少しためらってからレオンの隣に座った。他に空いているところがなかった。
エリスはこっそりささやきかけた。
「……殿下、何をしていらっしゃるのですか?」
「殿下? 何のことかな? 俺は城下の商家の三男坊、レオンだ」
「……お芝居の続きですか?」
「エリス、俺は平民のレオンなんだ。もっと普通に話してほしい」
「……まあそういうことならそれでいいけど。お城のしゃべり方って疲れるし。でもレオン──レオンって呼んでいいよね?」
「むしろそう呼んで欲しい」
「レオンこそ、そのしゃべり方だと全然庶民に見えないよ?」
「……そうか?」
「どう見ても貴族」
「そうか……」
少し沈黙したレオンは気を取り直して「三十日間の休暇をもらったんだ」と言った。
公務はなくとも所在は常にはっきりさせておかなければならないのが王族である。父王などしばしば行方をくらますゆえに王妃に立場をすべて奪われたようなものだ。
「庶民が実際にどのように暮らしているのか知りたくてね。お忍びでの実地調査を許してもらったんだ。だからこれから三十日間の俺は商家の三男坊だから、そのように接してくれ」
本当のところは業を煮やした母親から「距離を詰めてきなさい」と放り出されたのだが、さすがに言えなかった。とはいえ王城から離れてみたい気分もあったし庶民の生活に興味があったのも事実だ。……エリスのことが気になっているのも。
レオンは渡りに船と話に乗ったのである。
「いいけどね。どこに行くの? 受け入れ先はどこ?」
「君の村を見たいんだ」
「はあ?」
「君の家に泊めてくれないか?」
「いや何を言ってるの。無理だよ、狭いもん」
「そこを何とか」
「本当に狭いんだって。レオンは庶民がどんなところに暮らしてるか知らないでしょ」
「だからそれを知りたいんだ」
「うわ、聞かないなあ」
この感じ、誰かに似ている……。この息子とどこかの母親の面影が重なってエリスは説得を諦めた。まあ、実際に見れば無理だとわかるだろう。
イシュタール地方の中心都市クシャナンまでグリースから四日、そこから近くの町エストまで一日。馬車を乗り継いで五日間の旅程だ。さらにそのエストから歩いて二時間の寒村がエリスの村である。
この名もなき村をエストの住人たちは単に森の際と呼んでいた。
「えー、私の村へようこそ。でも、こんなところに来ても本当に何もないよ?」
「……」
ガーランド王国の、というよりオストランド地方の西側には闇の森と呼ばれる奥深い森が広がっている。その先がどれだけ続いているのかわからない。この森は名の知れた、あるいは名も知れない無数の危険な魔物で満たされていて、人間はこの先には誰一人住んでいない。つまり人類世界の終りの一つがこの村である。森から漂うもの寂しげな、あるいは不安を誘う得体の知れない雰囲気に、王子と衛士は背筋を震わせた。
「で、これが私の家。ほら、狭いでしょ?」
「……」
エリスの実家の小ささはレオンの想像を超えていた。思っていたのと全然違った。レオンが訪れたことのある平民の家は富裕な商人のもの一軒きりしかない。それをベースに考えていたので、狭いとは言っても家人のためのスペースの他に客間くらいはあるだろうと高を括っていた。
ところがエリスの実家というのは小さな台所兼食堂と小さな寝室の二間しかない、本当に小さな家であった。王城であれば物置小屋にも満たないほどの大きさしかない。
「ね、無理でしょ?」
「……この村に宿のようなものはあるだろうか」
「ないよ、そんなもの。エストに戻りなよ。ちっちゃな宿屋がひとつあるはずだから」
「……。……やはり、泊めてもらえないだろうか」
「えー。無理だってば」
「そこを何とか」
「えー。無理」
「食堂の床でいいから」
「えー……」
渋るエリスを拝み倒してレオンは家に足を踏み入れた。
「──というわけで泊まりたいんだって。ごめんね、おじいちゃん、おばあちゃん。この人聞かなくって」
「しばらくの間お世話になります。些少ですがお納めください」
「ひえっ……」
「いえ、あの、狭いところで申し訳ねえのですが、こんなところでよければ泊まってってくだせえ」
滞在費と言ってレオンが差し出した金は過分な額だったのでエリスの祖父母はひどく恐縮した。
この村には珍しい客人が来たと聞きつけた村人たちが次々と見学に来た。
「エリスが婿さん連れて帰ってきたぞ」
などという誤解を伴って。エリスは笑って答えた。
「あはは、違うってば。ただの友達。村の暮らしが見たいんだって」
「へえ、そら変わってんなあ」
「変わり者、変わり者」
エリスはそう言いながらホームステイの留学生をツンツンつついた。
村に帰ってすぐ、エリスは川に向かった。そして川の水を塊にして持ち上げた。「私お風呂番なの」と言って。
「気軽にすごいことするな」
レオンは精霊使いのはしくれとしてわかるが、魔力も精霊との感応力もとんでもない。
「そう?」
軽く流しながらエリスは水の中の不純物をより分けて捨てた。
村の中の共同浴場、と言っても小さな小屋である。中の浴槽を水で満たすと、エリスはまた精霊の力で一息に沸かしてお湯にした。
(とんでもない力だな)
レオンは圧倒されていた。精霊使い自体が希少だが、ここまでの力を持つ者はさらに珍しい。もはや彼の母親をすら超えているかもしれない。
「じゃあお客様、お先にどうぞ。一番風呂だよ。あ、お付きの方もどうぞ」
「あ、これはどうも」
黙ってついてきていた衛士はこの時初めて口を開いて、ペコペコと頭を下げた。
狭い浴室である。それに薄暗かった。壁の高いところに明り取りの窓が切られている他には燭台もない。何となく圧迫感があった。
「暗くないー?」
外から声が聞こえた。「少し」と答えると光の精霊が灯されて昼のように明るくなった。
「せっけんあるから使ってー。手作りだよー」
見ると角の丸くなった石鹸らしきものがあった。これも共用なのだろう。
身体を清めてからお湯に浸かるとまた声がした。
「お湯加減どうー?」
「あ、ああ。ちょうどいい」
「良かったー」
何だろう……何だかすごく落ち着かなかった。
伯爵以上の貴族は入浴も一人ではしない。体を洗うのは侍女である。思春期に入った頃からレオンはそれがどうにも恥ずかしくて一人で入浴するようになった。そこは三男坊の気楽さで許可してもらえたのだが、今のこの状況はそれとは別種の気恥ずかしさがあった。
レオンと衛士が順次風呂から上がると今度は村人たちが順番に入りにきた。エリスは時々様子を見てお湯を沸かし直していた。
「私がいないとみんなたらいにお湯を張って拭うだけなんだから」
と言いながら。
「あーさっぱりした」
エリスの順番は最後だ。風呂上がりのエリスは髪がしっとり濡れていた。服は洗いざらしの短衣にハーフパンツだけ、裸足にサンダル履きで細い手足はむき出しだ。古くなって透けそうな布の向こうで双丘がしっかり自己主張している。
王城の常識ならほとんど下着と言える姿に、レオンは目のやり場に困ってしまった。横を向くとお付きの衛士も同じ様に困っていた。
「おい、見るんじゃないぞ」
こっそり耳打ちすると衛士は動揺しながら「は、はい」と答えた。
「どうしたの?」
「いや……」
不思議そうなエリスの無防備な姿態から二人はそっと目をそらした。
夕食は五人でテーブルを囲んだ。衛士は遠慮したがエリスも勧めたし祖父母が無理に席につかせてしまった。
パンと、大鍋にスープを煮て取り分けて食べるだけの簡素な食事だ。レオンが今までに食べた中で一番粗末で貧しい食事だったが、ここではこれでもお客様をおもてなしするために気張ったのである。パンは焼き立てだし今日はいつもよりスープの具が多い。何より台所の棚にわずかに残っていた塩漬け肉がここぞとばかりに入っている。もっとも、年頃の女の子とこんなに近い距離感で食事したのは初めてだったせいで、緊張しすぎて味も何もわからなかったのだけれど。
「おかわりいる?」
「あ、ああ」
エリスが何だか楽しそうに手を伸ばしてきたので思わず椀を渡してしまった。半袖からのぞく細い腕が料理をよそう様子を、よくないと思いつつもチラチラ横目で追ってしまうレオンだった。
客間もない小さな家である。寝室は一つしかない。仕方ないのでエリスは自分のベッドを明け渡して久しぶりに祖父母と一緒に寝た。ちなみに衛士は食堂の椅子を集めて寝台代わりにした。
ベッドが二つ詰め込まれてそれでぎゅうぎゅうの、小さな寝室だ。エリスには充分な大きさのベッドはレオンには少し小さく、足がはみ出るので仕方なく丸まった。
やがて隣のベッドから小さな寝息が聞こえて来てレオンを悩ませた。同じ部屋の中に少女が眠っているかと思うと落ち着かなくて、なかなか寝付けなかった。
翌日はベッドを作ることになった。
エリスが材木を買いに町へ行くと言うのでレオンは「木なんか一杯あるじゃないか」と森を指さした。一応この地方の領主は国王と言うことになっているので、レオンが切る分には後日の申告でも問題にならないはずだ。
するとエリスは腰に手を当てて諭すように言った。
「あのね、木は切ってからしばらく寝かせて乾燥させないと材木にならないんだよ?」
「そうなのか」
二人と衛士は隣町の材木問屋で板と角材を買い求めた。
「ごめんね、お客様にお金出させて」
エリスの家にはそこまでの余裕がなかった。
「いや、自分で使うものだしな。それに、運んでもらっているし」
目の高さに材木と別に買った布団が浮かんでいた。時空の精霊の『ウェイトレス』の魔法である。重さは引き合う力であり引っ張り合いを断ち切れば重さは生じないのだとエリスは説明した。レオンにはさっぱりわからなかったのだが。
「お兄ちゃーん、手伝ってー」
エリスが呼んできた隣の家の若い男(若いといっても三十歳は過ぎていたが)に指導されながらレオンは自分のベッドを作った。隣で衛士も自分の分を作らされていた。
出来上がったベッドは普通の半分ほどの幅しかなかった。食堂に並べるつもりだが、何しろエリスの家は狭いので、普通の大きさのものでは二台も入らないし入り口もくぐれない。
真新しい木の香りが小さな家に満ちた。食堂に自分と衛士のベッドを並べてみると身動きも取れないほど狭くなってしまったので、普段は壁に立てかけておくことにした。
村の用水路は石造りだった。精霊魔法で作った石だ。
「何でも石になるわけじゃないよ。なりやすいのとそうじゃないのがあるの」
エリスは真砂土と石灰を塩水で練ると石にしやすいのだと言った。これならこの貧乏な村でも身近な材料で作れるのである。
エリスはまたその水を宙に浮かべて畑に撒いた。霧滴のような柔らかな雨が畑の土を湿らせた。また荒れ地の土を魔法でひっくり返し、細かく粉砕して空気を含ませ、石灰を混ぜ込んだ。土づくりの前段階だと言う。
「私がお城に呼ばれてる間はみんな手作業でやってるんだよ? 大変なんだから」
と言いながら数十人分の一日仕事を一人で、ほとんど一瞬で終えていた。
魔法の範囲も力もレオンとは段違いである。同じ精霊使いと思えない魔法の規模だ。エリスの魔法の力はレオンの想像を超えていたが、一つだけ納得したことがあった。
この村の他の農夫たちはみんな手足が太い。貴族の子女だって本気で格闘技をやってる子はみんな太い。一方エリスは細い。王城の大抵の女性より細く、貴族の若者たちの目にはそこがまた魅力的に映っていた。
ここでのエリスは田舎の農民そのままの生活なのになんでこんなに細いのだろう、と思ったのだが、全部魔法でやっているからだということに気がついた。エリスは普通の人間が手足を動かすのと同じ感覚で魔法を使っている。日常の生活の中で筋肉が鍛えられて太くなる代わりに魔法の力が鍛えられて強くなったのだ。元々の才能だけの話ではなかった。
(これでは当然、俺の及ぶところではないよなあ)
感心すると同時に村人たちへの疑問が湧いてきた。
この村は生活インフラのかなりの部分をエリスに頼っている。いくらなんでも頼り過ぎではないだろうか? エリスはいいように利用されているだけではないだろうか。
エリスの力はこんな僻地の村人たちを潤すためにあるのではないはずだ。それにこの美しい少女をあんなあばら家に住まわせておいてよいものだろうか。彼女にはもっと豪華な邸宅の方がふさわしいのではないだろうか。
母ではないが、王城に移住する方がエリスのためになるのではないか──レオンはそう思った。
「エリスは何でこの村に住んでいるんだ?」
「え?」
レオンがそう聞くとエリスはきょとんと問い返した。質問の意味がよく伝わらなかったようだ。
「だって私の家はここにあるし」
「いつまでもここにいなくてもいいじゃないか。君には未来がある。こんなところではなくてもっと都会で自分の可能性を試すべきではないか?」
重ねてそう言うとエリスは露骨に嫌そうな顔をした
「やめてよ」
「この村の連中はエリスに頼り過ぎじゃないか?」
「そんなことないから」
「この村の連中がエリスに何をしてくれたっていうんだ」
「……全部をくれたよ。私の命、それから心!」
エリスは堰を切ったように自分の生い立ちをまくしたてた。三歳、自己申告だから本当は二歳だったか四歳だったかわからない。ともかくエリスは自分で言うところの三歳の時に村の外れで行き倒れて死んだ母の隣で死にかけていた。父親の顔も名前も知らない、生まれた町の名前も自分の誕生日も知らない。母親が何でこんなところに来たのかもわからない。正直に言えば母親の顔だって覚えていない。祖父母に拾われていなかったらそこで死んでいたはずだ。村人たちが愛してくれなかったらやはり生きてはいなかっただろう。
「おじいちゃんもおばあちゃんも……三歳の子供が精霊使いだからこき使ってやろうと思って拾ったと思う? 違うよね、ただ愛があったからそうしたの! 私もそう、みんなのことが好きだからみんなのために力を使ってるの!」
そこまで言ってしまうと憤るエリスの表情は急速に冷めていった。レオンはかえって怯えた。
「……私の命もみんなからの愛情も、どっちもお城にはないよね」
見たこともないほど冷たい目をしていた。
「それに、そんなこと……お城で何不自由なく暮らしてる人に言われたくない!」
そう言い捨てて、エリスは走って行ってしまった。
レオンは呆然と立ち尽くしていた。後を追いかけることもできなかった。
ショックだった。エリスの生涯も、孤児だったことも全然知らなかった。何より傷つけてしまったことが辛く、恐ろしかった。
夕食は無言だった。黙って料理を盛り付けるエリスを祖父母は心配そうに見つめていて、レオンは見ることができなくて下を向いて食べた。
「エリス、ちょっといいか?」
「……」
その夜、レオンはエリスを家の外に呼び出した。
「あの、殿下……」
衛士が止めようとするのをレオンが「いいから」と押しやると、彼はしぶしぶ後ろを向いて耳を塞いだ。
「? 何をして──」
「すまなかった!」
レオンはガバッと地面に伏せた。土下座である。彼の兄が昔そうしたときには床に頭まではつけなかったがレオンは額を地べたに押し付けていた。そうしないと気が済まなかった。
「わああ! 何してるの!」
慌てるエリスだったがレオンは顔を伏せたまま謝罪の言葉を口にした。
「知らなかったから──」
「え?」
「いや、知らなかったら言っていいって言葉じゃなかった! 済まない、いや申し訳ない。人から奉仕されて暮らしている身で言えた事ではなかった……」
エリスは何も言わなかったがレオンはそのまま地に伏せていた。許しをもらえるまでそうしているつもりだった。
そしてエリスはようやく大きな息を漏らした。
「わかってくれたならいいよ、もう」
「……ありがとう」
エリスはレオンの手を取って引き起こした。そしてその額に土がついているのを見て、背伸びして払った。
指先が温かい。レオンはその指を握りしめたけれどもエリスは拒否しなかった。
それで二人は手をつないだまま家に入った。指だけをそっと絡めて。
村には共同のパン焼きかまどの小屋がある。小屋と言っても屋根があるだけでかまどはむき出しだが。燃料を節約するため十日に一度のパンの日にまとめて焼く。エリスは気軽に火を扱えるので今は毎日でも焼けるのだが、昔の習慣でそうすることになっている。
村の女たちが集まって一斉に生地をこねてパンの形にした。それをかまどの中に入れるとエリスが魔法の火で焼いた。
「これも私がいないと──」
「君は本当にすごいよ。君の力は大勢のためになっている」
「そ、そう? なんか照れる……」
エリスはまた胸を張って自分の仕事を強調しようとしたのだがレオンは先回りして称賛した。落ち着かなくてエリスはもじもじと手を揉み合わせた。
パンが焼き上がった。かまどから出したパンを女たちは各家庭に持って帰った。日持ちするように固く焼き締めたパンがほとんどだがエリスは火力を調節して一部だけふっくら焼き上げていた。これは今日のうちに食べてしまうのである。
「今夜はごちそうパンだよ!」
パンを入れたバスケットを抱えるエリスはご機嫌で、足取りも軽い。そこへ隣の家の男がやってきた。エリスを探していたようだ。
「おーい、エリス、ちょっと手伝え」
「どうしたの?」
「猪が掛かった」
「!」
畑の隅に置かれた罠檻の中に猪がいた。作物を荒らしに来て引っかかったのだろう。レオンの知っている猪よりずいぶん大きかった。まるで仔牛だ。エリスの魔法の一撃で気道と頸動脈を断ち切られて猪は即死した。
「今夜はごちそうだー!」
ウキウキと、今度は実際にスキップまでしている。魔法で浮かべて村の屠殺小屋まで持って帰ると隣の家の男は自分の小さな子供を連れてやってきた。そして実際にやってみせながら子供に解体のやり方を教え始めた。その様子を眺めていたら、男はレオンに目を向けて咎めるように言った。
「おい、見てないでお前も手伝え」
「やり方を知らない」
と答えると、隣家の男は一瞬バカにしたような顔をした。
「何だ、町のモンはこんなこともできんのか。……よし、お前も一緒に教えちゃる!」
そう言ってナイフを渡してきた。レオンは生まれて初めて自分で食べる肉を自分で捌いたのだった。
「取っといても腐っちゃうし」
エリスたちは手分けして肉を村中に配って歩いた。
「干したり漬けたりしないのか?」
「この季節じゃ無理だよ、腐っちゃう。腐った肉を馬鹿にしちゃ駄目だよ。あれは本当に怖いんだから……」
深刻な顔をしていた。
後で見せてもらったが屠殺小屋の後ろの柵の中にも猪がいた。近頃では村の生活にも少し余裕が出て来て猪を飼い始めたのだと言う。家々から出た野菜の切れっぱしなどを与えて育てているようだ。
「豚じゃないのか?」
「この村って豚を買ってくるほどお金がなかったし……。でも豚と猪は同じ生き物なんだよ。昔の人がずっと飼ってたら豚になったの」
エリスが言うことには野生動物の中にもたまに人に慣れる個体がいて、捕まえたうりぼうの中からそういうのを選んで飼っているそうだ。
夜になってエリスと祖父母は寝室に引っ込んだ。レオンと衛士はベッドを並べて横になった。
狭い食堂の、ベッドというには少しばかり細いベッドの上で考える。
エリスは誰かのために働いている。それがその誰かの役に立っている。あの少女の力をこんなところで使うのはもったいないとも思うが……。
自分はどうだ? いわゆる冷や飯食いというやつだ。
(いや、冷や飯食いならまだいいな。無駄飯食いだ)
上の兄は役に立っているとかいう話ではない。もはや国王代理だ。いないと誰もが困る。
下の兄は運よく侯爵家の婿に収まることができた。女好きで多少は問題を起こしそうな気もするが、何とかやっていけるだろう。
自分はただいるだけの存在だ。何の役にも立っていないし誰のためにも働いていない。将来のビジョンもない。エリスに力の使い方をとやかく言ったが、王家の自分が力を無駄遣いしていないと言えるのか?
その時ふと、エリスが城を嫌がっていたのは自分の愛する人たちが今日食べるものにも困っている一方で、あの生まれが良かっただけの貴族たちが贅沢な暮らしを送っているのを見るのが辛かったせいかもしれない、と気づいた。
翌日になってもレオンはまだ考え込んでいた。はた目にはぼんやりしていると映るほど自分の考えに耽溺して、森の端をそぞろ歩いていた。
そのために気づくのが遅れた。
森の茂みがガサリと音を立てた。だから反射でそちらを見ただけだったのに、気づいた瞬間全身総毛立った。森からのそりと姿を現したのは、魔獣カトブレパス──見られたら死ぬというモンスター──
「殿下!」
自分の体を盾にして守ろうと衛士が間に割って入った。
「やめろ!」
押し問答のうちにカトブレパスが顔を上げ、死の瞳がこちらを──
突然目の前が光った。何事が起ったのか、カトブレパスはズムリと鈍い音を立ててその巨体を横たえていた。後ろからエリスの声が聞こえた。
「今夜もごちそうだー!」
「やったー!」
両手を挙げるエリスの横で隣の家の子供がぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいる。
レオンにはまるで理解できなかったがエリスが何かの魔法を使ったのだろう。衛士は全身から脱力して思わずこぼした。
「私、来る必要ありましたかね……?」
「いてくれて助かってるよ、うん……」
とレオンは慰めた。
エリスは四年前の選考会でも既に王国最強クラスだった。あの時観戦していたレオンはただ圧倒されたものだ。そしてレオンの見る限り、今のエリスにはきっと兵士が百人がかりで飛び掛かっても勝てないだろう。
素顔のエリスは今まで知っていたエリスと全然違っていた。生き生きと明るく、よく動いてよく笑う。人形に魂が通ったようだ。王城にいるときには春の花にたとえられたエリスだが、こうしてホームグラウンドにいるときの彼女は夏の太陽のようだった。
もう同世代の男たちの間での争いなんか意識になかった。レオンは狂おしいほど恋をした。
だから、自分がどう思われているのか気になった。嫌われているわけではないと思うのだが……。
「エリスは結婚しないのか?」
しかし面と向かって尋ねるのは恐ろしかったので少し違う角度から攻めてみた。エリスはきょとんとしていた。
「え?」
「プロポーズされてるじゃないか。ペイガン伯の嫡男とか、クラレンス侯の次男とか」
エリスはカラリと笑い飛ばした。
「あはは、無理無理。私にお貴族様の生活なんて絶対無理よ。というか嫌。ずっとこんなことして──」
エリスは背筋を伸ばして優雅に立った。
「肩の力は抜いて、指先は伸ばしておへその前で手を重ねて。つま先から足をつけてふわふわ歩いて。笑う時は静かに微笑んで。口元を見せるなんてはしたないから扇子で隠すの。──そんなの絶対無理! それよりも田舎の道を大股で歩いて、おかしいときは口を開けて笑って暮らす方がずっといいもん」
そして唇に指先を当てて考え込んだ。
「……そうだなー、もしあの二人がこの村で暮らしてくれるっていうなら、少しは考えてみてもいいけど。それで野良仕事とかするの」
「……無理だろうな」
「でしょ? お互い無理なの」
それでエリスの主張は終わりだった。
滞在七日目の夕方に、村を見下ろす夕日の丘で二人は隣り合って腰かけて世界を眺めていた。
「綺麗だね」
と言うその横顔をレオンは見つめた。君の方が綺麗だ、月並みなセリフが浮かんだ。
「き……」
言いかけて、いやいくらなんでも気障すぎるだろう、しかし正直な感想なんだから言うべきか? ──などと葛藤しているうちにタイミングを逃した。
レオンはそのまま横顔を見つめていた。白い肌に夕日の照り返しではない命の輝きが透き通っている。桜色の柔らかな髪が至近距離で揺れている。
我慢できなくなった。口で伝えられないなら態度で示そう。
「エリス」
「なあに?」
レオンは呼ばれて振り向いたエリスの頬に手を添えた。そして唇を重ね合わそうと──
「……ダメですよ、殿下」
エリスはくるりと回りながら立ち上がった。背中に夕日を背負って、どんな顔をしているのかよく見えない。
「ご覧になった通りです。私の居場所はこちら。あなたの居場所はあちら」
エリスの指は王城の方を向いていた。
「ねえ、おわかりでしょう? 住むところが違うんです。……もうお帰りください。さようなら、王子様。お城には二度と行きません。王妃様には今まで良くしていただいてありがとうございますとお伝えください」
翌日レオンは悄然と帰って行った。
それからはお城に呼び出されることもなくなった。エリスが自分から出向くはずもなく、多少は寂しい気持ちがないわけでもなかったが、それよりもほっとする気持ちの方が強かった。
元の平穏な生活が戻ってきた。きっとこうして祖父母の面倒を見て、一生畑を作って暮らすのだろう。それでエリスは満足だった。
村に春の足音が近づいていた。
レオンが去ってから半年も経ったその日、近隣の村々に領主の変更が布告された。この辺りは見捨てられた僻地で、他の領主がいなかったために王室領とされていた土地である。それが王家から分けられて新しく伯爵領となったのだという。
エストの一番大きな建物が買い取られて執政館になったとか、若い伯爵様が領民を集めて演説したとか、この村にも噂話が聞こえてきた。
「何でクシャナンじゃないんだろう?」
「何かの間違いじゃないのかねえ?」
村人たちは首をかしげた。
ところが、そうしているうちに噂話は他人事ではなくなった。町から大工が大勢やって来て、村の入り口に家を建て始めた。
大工に話を聞きに行った村人は首をかしげるどころか大いに捻りながら帰ってきた。
「何でも、伯爵様のおうちらしいぞ」
「……何で?」
「さあ」
誰にも意味がわからなかった。それに建てられているのはこの村の基準で言えば大きな家だが、一般的にはむしろ小さな家の部類に入る。とても伯爵様のお屋敷には見えない。やはり何かの間違いではないだろうか……?
小さな家だ。短期間で完成してしまうと家財が運び込まれて、ついに邸宅の主人が引っ越してきた。その若き伯爵は一軒一軒家々を回って、熱心に語りかけた。
曰く、中央に吸われるだけの税金も伯爵領ということになれば領内で還流できる。伯爵は王家と縁があり中央とのパイプは太い。であるからには支援も引き出しやすいし陳情も通りやすい。
「──そして時間が許せば農作業も覚えていきたい。皆と共に生き、地域の発展に尽くす所存です」
と。
そして日が暮れる頃、伯爵は最後に村でも特に貧しげな小さな家を訪れた。
「ごめんください」
「はーい」
ちょうど家にいたエリスは祖母の代わりに応対しようと外に出た。
そしてそこに思いもかけない人物を見つけて、ピタリと動きを止めてしまった。
「久しぶりだね、エリス」
「レオン……」
夕日の中、懐かしい顔がそこにいた。
「お久しぶり。どうしたの」
「この村に引っ越して来たから挨拶回りをしているんだ」
「……えっ?」
「分家してね、伯爵家を創設したんだ」
「そうなんだ。おめでとう」
「それでこの地方を領地として拝領したんだ」
「……ええっ!」
レオンは両親と王太子にそれはもう熱心に訴えたのだった。地方の窮状を救いたいと。そのためには王族から分家を立てて乗り込むのが一番だと。もしレオンが成功すれば今後行き場のない王族のためのモデルにもなると。それと母親には「エリスと結婚するにはこの手しかない」とこっそり耳打ちした。
「貴族の手続きは煩雑でね。これだけのことを決めるのに半年もかかってしまった」
「そう……」
「ここに住むからには畑仕事もするつもりだ。教えてくれるよね?」
「……本気で言ってるの?」
「もちろんだとも。さて、これで俺の居場所は晴れてこちらになったわけですが」
レオンは跪いて手を差し出した。
「お嬢様、私の奥方になってくださいますね?」
「う……」
エリスは視線だけ動かして、上を見て、右を見て、左を見て、下を見た。
「貴族は嫌だけど……」
視線がレオンに戻った。夕日に照らされた顔が赤い。
「……レオンなら、いいかも」
エリスは差し出された手を取った。
「こっちにお嫁に来てもらおうと思ってたのに」
その頃王城では王妃が不機嫌そうにブツブツこぼしていて、廷臣たちは戦々恐々としていた。
「あ、でもそのしゃべり方はやめてね? 何だか背筋が寒くなるの」
「……ああ、努力するよ」
そしてエリスは彼女の夫となる人を紹介するために家へ入った。
寄り添う二人の繋がれた手は固く結び合わされていた。
二年ぶりに再開したお話もこれにて終わりです。
書きそびれた物語が喉の奥の小骨のように引っかかっていたのですが、これでようやく胸のつかえが取れました。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




