第76話 栗が一つ弾けただけで、家中が大騒ぎになりました
朝の空気が、日に日に冷たくなっていた。
家の周りでは木々の葉が色づき始め、風が吹くたびに黄色や赤の葉が庭へ舞い込んでくる。少し前まで青々としていた山の斜面にも、いつの間にか茶色い場所が増えていた。
そろそろ本格的な冬支度を進めなければならない。
そんなことを考えながら朝飯を食べていると、フェルナが昨日の遊び道具を持ってきた。
「お父さん、今日も勝負!」
「朝飯の途中だぞ」
「食べたら!」
「今日は少し山へ行くからな。帰ってからならいいよ」
そう答えると、フェルナは不思議そうに首を傾げた。
「何しに行くの?」
「栗を拾いに行こうと思ってる。そろそろ落ちてる頃だろうし」
その言葉に、ラグナが反応した。
「栗! 食べるやつ!」
「そうだな」
「いっぱい!?」
「拾えたらな。ただし、まだ風邪が治ったばかりだから、今日は近いところだけにする」
先日熱を出して以来、七人は俺の体調に妙に厳しくなっていた。
朝起きればノエルが顔色を確認し、少し咳をすればセレスが水を持ってくる。ラグナに至っては、重そうなものへ手を伸ばすだけで「ラグナが持つ!」と駆け寄ってくる始末だ。
ありがたいのだが、そろそろ普通に暮らさせてほしい。
「遠くない?」
セレスが確認する。
「ああ。家の裏手から少し登ったところだよ。前にも通ったことがあるだろ」
「大きな木があるところ?」
「そう。あそこに栗の木が何本かある」
「じゃあ私たちが拾うね。お父さんは見てて」
「いや、俺も拾うよ」
「でも病気だった」
「もう治った」
「昨日もそう言ってた」
すぐには信用してもらえなかった。
結局、俺は重い籠を持たず、拾った栗を選り分ける役目をするという条件で、どうにか同行を認めてもらった。
山へ栗拾いに行くのに、娘たちの許可が必要になるとは思わなかった。
◇
出発する前に、俺は物置から古い厚手の手袋と小さな火ばさみを出した。
「栗を拾うのに、これ使うの?」
リシェルが火ばさみを見て聞いた。
「落ちている実には、とげのある殻がついてるものが多いからな。素手で掴むと痛いぞ」
「ラグナなら平気!」
「平気かどうか試さなくていい」
そう言いながら、俺は去年使った手袋を確かめる。何度も補修しているので見た目は悪いが、厚みは十分にあった。
「お前たちも直接触るなよ。中身が見えているものを選んで拾えばいい。無理に開けなくても、落ちている実だけで結構集まるからな」
フェルナが自分の黒い爪を見る。
「これで開けられる!」
「開けられるだろうけど、今日は開けなくていい」
「どうして?」
「中の栗まで傷つけたら、持って帰っても食べにくくなる。それに、わざわざ危ないことをする必要もないだろ」
「じゃあ落ちてるのを探す!」
フェルナはあっさり方針を変えた。
ノエルは俺の持っている手袋をしばらく観察してから、縫い目のところを指差した。
「ここ、少し薄い」
「本当だな。よく見つけた」
「とげ、入るかも」
「じゃあこれは使わない方がいいな」
別の手袋へ取り替えると、ノエルは満足そうに頷いた。
本人は特別なことをしているつもりがないらしいが、こういう細かなところに気づいてくれるのは助かる。
支度を終えたところで、ユラが俺の服を引っ張った。
「おとうさん」
「何だ?」
「ユラも、くりひろう」
「もちろん。落ちているのを拾うだけならできるだろ」
「おっきいの」
「見つかるといいな」
ユラは嬉しそうに笑った。
その横でセレスが、持っていく籠の数を確かめている。
大きなものが一つ。
小さなものが二つ。
今日は八人で食べる分に加えて、少し保存できるくらい集まれば十分だ。
「じゃあ行くか」
「はーい!」
七人分の返事が重なった。
◇
山道には、思っていた以上に落ち葉が積もっていた。
歩くたびに乾いた葉が足元で音を立て、時々その下からまだ湿った土が見える。風の当たる場所では葉が片側へ寄せられ、木の根元には小さな山がいくつもできていた。
フェルナは歩き始めてすぐに落ち葉を蹴り上げようとしたが、今日はユラがすぐ隣にいたので、途中で足を止めた。
「ユラ、これ踏むと音する!」
「ほんと?」
「こう!」
乾いた葉を踏むと、ぱりぱりと軽い音がした。
ユラも真似をする。
最初はそっと。
次は少し強く。
足元から音がするたびに嬉しそうな顔をしている。
「フェルナ、もっといっぱいある!」
「走らずに行けよ。葉の下に石が隠れてることもあるからな」
「分かってる!」
返事をしたフェルナは、今度はユラの手を取ってゆっくり歩き始めた。
こういうところを見ると、少し前とは随分変わったものだと思う。
以前のフェルナなら、自分が楽しいと思った瞬間に先へ走っていた。今はユラも同じように楽しめる速さを選ぶことがある。
もっとも、本人がそこまで考えているかは分からない。
ただ、二人が楽しそうなのだから、それで十分だった。
少し登ったところで、目当ての栗の木が見えてきた。
太い幹が二本。
その周囲には、茶色くなった殻がいくつも落ちている。
「着いたぞ」
俺が言うと、七人が一斉に足元を見た。
「いっぱいある!」
ラグナが真っ先に声を上げた。
地面には、とげだらけの丸い殻があちこちに散らばっている。
割れているもの。
閉じたままのもの。
中身がなくなったもの。
まだ栗が残っているもの。
それぞれが落ち葉の間に隠れるように転がっていた。
「これ全部栗?」
リシェルが聞く。
「全部栗の殻だな。ただし、中身が入ってるとは限らないぞ」
「じゃあ、どうやって分かるの?」
「まず見てみろ。割れてるところから中が見えるだろ」
俺が一つ指差すと、リシェルは慎重にしゃがみ込んだ。
茶色い殻の間から、つやのある実が覗いている。
「いた」
「栗だからな」
「一個?」
「そこには一個見えるな」
リシェルはもう少し覗き込み、殻の奥にもう一つ実があるのを見つけた。
「二個!」
「そういうのもある」
「じゃあ数える!」
「拾ってからな」
ようやく栗拾いが始まった。
◇
最初のうちは、七人とも順調だった。
ラグナは大きな実を見つけるのが得意で、落ち葉の中からつやのある栗を拾うたびに得意そうな顔をした。フェルナは木の周囲を何度も行き来し、小さなものまで見逃さずに集めてくる。
もっとも、フェルナが持ってくるものには空の殻も多かった。
「お父さん、これ!」
「中身がないぞ」
「じゃあこっち!」
「それも空だな」
「なんで!?」
「先に何かに食われたんじゃないか?」
フェルナは殻をひっくり返し、穴の開いているところを見つけると、今度は周囲の木々へ視線を向けた。
「誰が食べた!?」
「山の動物だろうな」
「フェルナの栗!」
「まだ拾ってないだろ」
「先に食べた!」
「そりゃ向こうも腹が減るからな」
フェルナは少し悔しそうだったが、すぐに次の栗を探し始めた。
その横で、ラグナが大きな殻を持ち上げようとしている。
「ラグナ、とげに気をつけろよ」
「手袋してる!」
「それでも強く握るな」
「分かってる!」
ラグナは慎重に殻を押さえ、火ばさみを使って中の実を取り出そうとした。
ところが力を入れる方向が悪かったらしく、殻がくるりと回転してしまった。
「あっ」
中の栗が一つ、ころころと斜面を転がる。
「逃げた!」
「栗は逃げないぞ」
「転がった!」
ラグナが追いかけようとしたところで、少し下にいたミレアが手を伸ばした。
転がってきた栗を、落ち葉の上でそっと受け止める。
「はい」
「ありがとう!」
「大きいね」
「ラグナの!」
「そうだね」
ミレアは笑いながら栗を渡した。
自分の分を急いで集めるわけでもなく、周りを見ながら必要なところへ手を貸している。
それでいて、本人の小さな籠にもちゃんと栗が増えていた。
いつ拾ったのだろう。
俺がそう思っていると、ノエルが近づいてきた。
「お父さん、こっち」
「何かあったか?」
「穴」
手に持っている栗を見ると、表面に小さな穴が開いていた。
「ああ。それは虫が入ってるかもしれないな」
「食べられない?」
「中を確かめないと分からんけど、傷んでるものは避けた方がいい」
「じゃあ別」
ノエルはすぐに傷のある栗を別の場所へ置いた。
「ここにもある」
「本当だ。よく見つけるな」
「みんな拾うの速いから」
「ノエルは遅い?」
「うん。でも、変なの見つける」
「それはそれで助かるよ」
ノエルは少し笑った。
◇
しばらくすると、セレスの籠だけがほとんど空のままだと気づいた。
おかしい。
セレスだって栗を拾うくらいできるはずだ。
何をしているのかと思って見ていると、理由はすぐに分かった。
「ユラ、そっちはとげがあるから、こっちへおいで」
「うん」
「フェルナ、その殻は無理に触らなくてもいいよ」
「でも大きい!」
「中身が空っぽかもしれないから、先に見てみよう?」
セレスは妹たちの間を行き来していた。
誰かが困っていれば声をかけ、栗が転がれば拾い、ユラが足元を見ずに歩けば手を取る。
そのせいで、自分の栗を拾う時間がなくなっているらしい。
「セレス」
俺が呼ぶと、すぐに振り返った。
「どうしたの、お父さん?」
「お前の栗、まだ少ないな」
「ああ、うん。でもみんな結構拾えてるよ」
「そうじゃなくて、お前自身はどうなんだ?」
セレスは自分の籠を見下ろした。
中には栗が三つしか入っていない。
「あとで拾うつもりだった」
「そうか。じゃあ今から少し拾ってみるか」
「でも、ユラが――」
「ユラは俺が見てるよ」
そう言うと、セレスは少し迷った。
近くではラグナとフェルナが大きな栗を見つけたらしく、また何やら言い合っている。
セレスの視線がそちらへ向いた。
「放っておいていいのかな」
「危ないことしてるわけじゃないだろ」
「そうだけど」
「せっかく栗を拾いに来たんだ。セレスも拾えばいいよ」
俺がそう言うと、セレスはようやく小さく頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ」
そう言って木の根元へしゃがみ込む。
しばらくして、つやのある栗を一つ見つけた。
「お父さん、これ大きい」
「いいの見つけたな」
「うん」
セレスは嬉しそうに籠へ入れた。
その顔を見て、俺も少し安心した。
最近のセレスは、妹たちの世話をする時に本当に頼もしくなった。
だが、本人だってまだ子供だ。
栗を拾いに来たのなら、栗拾いを楽しんでもいい。
そう思っていたところへ、フェルナの声が響いた。
「セレス姉! すごいのあった!」
セレスが反射的に立ち上がる。
しかし、その途中で一度止まった。
「フェルナ、自分で取れそう?」
「取れる!」
「じゃあ取ってみて。あとで見せてね」
「分かった!」
セレスは再びしゃがみ込み、自分の栗を探し始めた。
その様子を見て、俺は何も言わずにユラのところへ向かった。
◇
昼前には、持ってきた籠がかなり埋まっていた。
ただ、思ったより傷んだ栗も多い。
虫の穴があるものや、殻の中で黒くなっているものは別にしておく。
全部持ち帰ってから困るより、ここである程度分けた方が楽だった。
「お父さん」
リシェルが籠を覗き込む。
「何だ?」
「これ、全部食べる?」
「食べられるものはな」
「でも、まだ木の上にいっぱいある」
「ああ」
「全部落ちたら、もっと拾える?」
「拾えるかもしれないけど、他の動物も食べるからな」
リシェルは木を見上げた。
枝の間には、まだ落ちていない殻がいくつも見える。
「じゃあ、残しておく?」
「そうしよう。俺たちは今日の分だけでも十分あるし」
その会話を聞いていたユラが、手のひらに載せた小さな栗を見つめた。
「これも?」
「それは拾ったんだから持って帰っていいぞ」
「ちいさい」
「そうだな」
「たべられる?」
「ちゃんと中身があればな」
ユラは少し考えたあと、その栗を自分の小さな籠へ入れた。
「ユラの」
「なくさないようにな」
「うん」
その返事を聞きながら、俺は籠を持ち上げる。
思っていたより重かった。
すると、すぐにラグナがやってきた。
「ラグナ持つ!」
「頼めるか?」
「うん!」
「重いぞ」
「大丈夫!」
ラグナは両手で籠を抱え、少し持ち上げてから位置を直した。
無理に一気に運ぼうとせず、ちゃんと足元が見える高さで持っている。
俺が何か言う前に、本人が得意そうに笑った。
「これなら前見える!」
「ああ。それなら頼めるな」
籠を持つラグナを中心に、俺たちは家へ戻ることにした。
◇
帰り道は、行きより少し賑やかだった。
フェルナは自分が見つけた一番大きな栗の話を何度も繰り返し、ラグナはそれより大きいものを拾ったと言い張っている。
リシェルが二つを並べて比べようと提案すると、今度はどちらが長いか、どちらが太いかで揉め始めた。
「重い方が大きい!」
ラグナが言う。
「じゃあ量ろうよ」
リシェルが答える。
「見たら分かる!」
「見て分からないから比べるんでしょ」
「ラグナのが大きい!」
「フェルナの!」
結局、どちらも譲らなかった。
その横でミレアが、二人の栗を静かに眺めている。
「どっちも大きいよ」
「一番は!?」
二人が同時に聞く。
「……どっちかな」
ミレアは困ったように笑った。
俺も笑いながら歩いていたが、少し先でノエルが立ち止まっていることに気づいた。
「どうした?」
「風」
「風がどうした?」
「栗の木、鳴ってる」
振り返ると、さっきまでいた木が風に揺れ、枝から乾いた葉が落ちていた。
少し遅れて、硬いものが地面へ落ちる音がする。
「また栗が落ちたのかもな」
「うん」
「取りに戻るか?」
冗談半分で聞いてみる。
ノエルは籠を見る。
ラグナを見る。
そして首を横へ振った。
「もういっぱい」
「そうだな」
「明日もあるかもしれない」
「あるかもな」
ノエルは少し笑い、また歩き始めた。
家へ帰れば、今度は拾った栗を食べる仕事が待っている。
俺としては。
正直、そっちの方が楽しみだった。
◇
家へ戻ったあと、七人は栗を洗うところから手伝った。
表面の汚れを落とし、傷んでいるものが混じっていないか確かめる。山で分けたつもりでも、洗っている途中で小さな穴を見つけることがあった。
「これ、虫いる?」
ユラが栗を一つ持ち上げる。
「穴があるな。中にいるかもしれないから、食べる分からは外しておこう」
「むしも、くりたべる?」
「食べる奴もいるよ」
「おいしいから?」
「虫に聞かないと分からんな」
ユラはしばらく栗を見つめ、それから傷のあるものを別の器へ置いた。
台所の方では、セレスとリシェルが栗の数を確かめている。フェルナとラグナは洗い終えたものを運び、ミレアは濡れた栗を布の上へ並べていた。
ノエルは相変わらず穴を見つけるのが得意で、他の六人が見落とした小さな傷を何度も指差している。
「お父さん、全部焼く?」
セレスが聞いた。
「今日は食べる分だけにする。残りは様子を見て、別の料理にも使おう」
「何作るの?」
「煮てもいいし、細かくして飯に混ぜてもいいな」
「全部食べたい!」
ラグナが言う。
「今日全部食ったら、明日なくなるぞ」
「じゃあ残す!」
このあたりの判断は本当に早い。
食べ物の話になると、ラグナとフェルナは普段以上に真剣になる。
俺は笑いながら、焼く分の栗を選び始めた。
◇
栗を焼くには、少し準備がいる。
皮に切れ目を入れておかないと、加熱した時に中の水分が膨らみ、殻が勢いよく破れることがある。以前一人で暮らしていた頃にも何度か焼いたが、手間を惜しむとろくなことにならない。
「何してるの?」
フェルナが覗き込む。
「切れ目を入れてる」
「全部?」
「ああ。これを忘れると、焼いてる途中で弾けることがあるんだ」
「弾ける!?」
フェルナの目が輝いた。
「見たい!」
「見せるためにやるものじゃない」
「でも弾ける!」
「危ないから、わざと弾けさせないんだよ」
「そっか」
少し残念そうだった。
俺は栗を一つずつ確かめ、皮へ切れ目を入れていく。
途中でセレスが手伝おうとしたが、硬い皮に刃を入れる作業なので、今日は俺がやることにした。
「じゃあ、私は焼く場所を片づけておくね」
「頼むよ」
セレスは火の周りに置いてあった道具を片づけ、邪魔になりそうなものを端へ寄せた。
ラグナは薪を運び、リシェルは焼く分の栗を数え直している。
俺も切れ目を入れる作業へ戻った。
ところが、その途中でユラが自分の籠を持ってきた。
「おとうさん」
「何だ?」
「これも」
手のひらに載せられたのは、山で拾った小さな栗だった。
「ああ、ユラのだな」
「やく」
「いいぞ。小さいから先に火が通るかもしれないな」
「ユラ、たべる」
「分かった」
その栗も他のものと一緒に並べる。
そして最後に、切れ目を入れた栗を焼く道具へ移し、火の具合を確かめた。
これで準備は終わりだ。
……そう思っていた。
◇
夕方。
栗を焼き始めると、家の中には香ばしい匂いが広がった。
最初はほんの少しだった。
それが火を通すうちに強くなり、七人が次々と台所へ顔を出すようになった。
「いい匂い!」
フェルナが鼻を動かす。
「まだ食べられないぞ」
「匂いは食べていい?」
「好きなだけ嗅げ」
「やった!」
何が嬉しいのか分からないが、本人は満足そうだった。
ラグナは焼いている栗を見て、今にも手を伸ばしそうになっている。
「熱いから触るなよ」
「触らない!」
「本当か?」
「食べる時まで待つ!」
「それならいい」
セレスは火の周りを確認し、ユラが近づきすぎないよう隣へ座らせた。リシェルは栗を焼き始めた時間を気にしているが、今日は細かな記録をつけるつもりはないらしい。
ノエルは火の音を聞いていた。
「ぱちぱちする」
「薪が燃えてるからな」
「栗も音する?」
「皮が少し開くことはあるよ」
そう答えながら、俺は焼き具合を確かめようとした。
その時だった。
――ぱんっ!
突然、乾いた大きな音が響いた。
焼き道具の蓋が一瞬跳ね、近くに置いてあった小さな木片が床へ落ちる。
「うわっ!」
思わず俺も身を引いた。
七人が一斉にこちらを見る。
フェルナは目を丸くし、ラグナは反射的に立ち上がった。ユラが驚いてセレスへしがみつき、リシェルも持っていた板を落としそうになっている。
「お父さん!?」
「大丈夫だ。近づくなよ」
俺は一度火を弱め、少し離れたところから様子を確かめた。
幸い、道具が壊れた様子はない。
蓋も外れていない。
どうやら栗が一つ弾けたらしい。
「……ああ」
思い出した。
最後にユラから受け取った小さな栗。
あれだけ、切れ目を入れた覚えがない。
「しまったな」
俺がそう呟くと、セレスが心配そうに顔を覗き込んだ。
「お父さん、怪我してない?」
「ああ。大丈夫だよ。栗が一つ弾けたみたいだ」
「栗が?」
「切れ目を入れ忘れたんだと思う。全部確認したつもりだったんだけどな」
そう答えながら立ち上がったところで、フェルナが急に俺を指差した。
「お父さん!」
「何だ?」
「顔!」
「顔がどうした?」
フェルナは口を開けたまま、俺の顔を見ている。
ラグナも振り返った。
次にリシェル。
ノエル。
ミレア。
全員の視線が、なぜか俺の鼻のあたりへ集まった。
「……何だよ」
すると。
「お父さん、鼻が黒い」
ノエルが言った。
俺は自分の鼻を触った。
指先に黒いものがつく。
さっき驚いて手を動かした時、煤のついた指で鼻を触ってしまったらしい。
「……ああ」
そう言って手を下ろした瞬間、フェルナが吹き出した。
「お父さん、鼻!」
「分かったよ」
「黒い!」
「聞こえてる」
「真ん中だけ!」
ラグナまで笑い始める。
「お父さん、鶏みたい!」
「鶏の鼻は黒くないだろ」
「じゃあ何!?」
「俺が聞きたいよ」
そのやり取りで、リシェルまで笑い出した。
俺は近くの布で鼻を拭こうとしたが、慌てて取ったのが少し湿った布だったせいで、煤をきれいに拭き取れなかった。
それどころか、鼻の横へ黒い筋が伸びたらしい。
「増えた!」
フェルナが叫ぶ。
「お父さん、増えた!」
「分かったから騒ぐな」
「だって!」
笑いすぎて、もう言葉になっていない。
その時だった。
それまで妹たちを見ていたセレスが、突然声を上げて笑い始めた。
◇
最初は、少しだけだった。
口元を押さえ、肩を震わせる。
だが、俺が顔を拭き直したところで、とうとう我慢できなくなったらしい。
「あははっ! お父さん、もう、そこじゃない!」
「どこだよ」
「反対! あはははっ!」
「笑ってないで教えてくれ!」
「だって、お父さんが……!」
セレスは途中で言葉を切り、机へ手をついた。
本当に笑っている。
目尻に涙まで浮かんでいた。
こんなふうに声を上げて笑うセレスを見るのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
いつも妹たちの様子を見ている。
誰かが転べばすぐ駆け寄り、喧嘩が始まれば間に入り、仕事を分ける時には自分が一番大変なものを引き受けようとする。
最近は以前ほど無理をしなくなったものの、やっぱり七人の中では一番周りを気にしている。
そのセレスが、今は俺の顔を見て笑い転げていた。
「そんなに面白いか?」
俺が聞くと、セレスは笑いながら頷いた。
「だって、お父さん……最初、すごく真剣だったのに……!」
「栗が弾けたんだから真剣にもなるだろ」
「そのあと自分で鼻を黒くして……!」
「悪かったな」
「あははっ!」
また笑った。
フェルナがそれを見て、ますます嬉しそうになった。
「セレス姉、いっぱい笑ってる!」
「フェルナ、言わないで……!」
「一番笑ってる!」
「だって……!」
セレスはもう、まともに返事ができなかった。
それを見ているうちに。
俺まで笑ってしまった。
◇
結局、栗が落ち着くまでには少し時間がかかった。
俺は火を弱めたまま様子を見て、十分に安全を確かめてから焼き具合を確認した。
予想通り、栗が一つ大きく割れている。
「これ?」
リシェルが離れたところから覗き込む。
「ああ。たぶんこれだな」
「ユラの?」
ユラが不安そうに聞いた。
小さな栗のことを覚えていたらしい。
「そうかもしれない。でも、ユラが悪いわけじゃないぞ。切れ目を入れ忘れたのは俺だからな」
「おとうさん、わすれた?」
「ああ」
「おとうさんも?」
「そりゃ忘れることくらいあるよ」
ユラは少し驚いた顔をしたあと、割れた栗を見る。
「ユラの、なくなった?」
「一つだけな。他にもあるから大丈夫だよ」
「じゃあ、いい」
思ったよりあっさり納得した。
その横でラグナが、弾けた栗をじっと見ている。
「ラグナなら割れる!」
「わざわざ割らなくていい」
「でも栗より強い!」
「栗と力比べするな」
まだ言っている。
フェルナに至っては、俺の鼻がきれいになったことを残念がっていた。
「もう黒くない」
「当たり前だろ」
「さっきの方が面白かった!」
「俺の顔で遊ぶな」
「もう一回!」
「嫌だよ」
また笑い声が起きた。
栗を食べる前から、ずいぶん騒がしい夕方になってしまった。
◇
ようやく焼けた栗を器へ移し、少し冷ましてから七人へ分けた。
温かい栗の皮を開くと、中からほくほくとした実が顔を出す。甘い匂いが広がり、さっきまで笑っていた娘たちも、今度は食べ物へ夢中になった。
「おいしい!」
最初に声を上げたのはラグナだった。
「うん。ちゃんと甘いな」
「もっと!」
「まだ口に入ってるだろ」
「食べたら!」
「好きなだけ食べろとは言ってないぞ」
ラグナは口を動かしながら、大きく頷いた。
フェルナも栗を一つ食べ終えると、自分が拾ったものと比べ始めた。
「これ、フェルナの?」
「もう混ぜたから分からんな」
「じゃあフェルナの!」
「何でそうなるんだ」
「美味しいから!」
「全部美味しいだろ」
「じゃあ全部フェルナの!」
「もっと駄目だ」
セレスがまた笑い始めた。
さっきほどではないが、今日はいつもよりずっと表情が柔らかい。
ミレアは栗を小さく分け、熱さを確かめながら食べていた。ノエルは皮の内側に残った薄い部分を丁寧に取り除いている。
リシェルは食べる前に栗の中身を眺め、外側の大きさと食べられる部分の大きさが必ずしも同じではないことに気づいたらしい。
「お父さん、こっちの方が外は大きかったのに、中は小さい」
「そういうこともあるよ」
「じゃあ、拾う時は外だけ見ても分からない?」
「全部は分からないな」
「難しい」
「食べる時まで勉強しなくてもいいんじゃないか?」
「でも気になる」
「なら好きにしろ」
リシェルは少し笑い、ようやく栗を口へ運んだ。
「……美味しい」
「そうだろ」
「うん」
それだけで満足したらしい。
◇
ユラは自分の器を見つめていた。
小さな栗が二つ。
俺が分けてやったものだ。
「食べないのか?」
尋ねると、ユラは一つを持ち上げた。
「おとうさん」
「何だ?」
「これ、あげる」
「ユラの分だろ」
「おとうさん、くりなくなった」
「ああ、さっきのか」
どうやら、弾けてしまった栗のことが気になっていたらしい。
「父さんの分はちゃんとあるよ」
「でも、これ」
ユラは小さな栗を差し出したまま動かない。
俺は少し迷ってから、それを受け取った。
「じゃあ、もらうよ」
「うん!」
ユラは嬉しそうに笑った。
皮を剥いて口へ入れる。
他の栗より少し小さい。
だが、ちゃんと甘かった。
「うまいな」
「ユラの!」
「ああ。ユラが拾ったやつだな」
「おとうさん、たべた」
「食べたよ」
それで十分だったらしい。
ユラは残った栗を自分で食べ始めた。
その様子を見ながら、セレスが小さく笑う。
「ユラ、よかったね」
「うん」
セレス自身も栗を一つ取り、ゆっくり皮を剥いた。
◇
夕飯は、普段より少し遅くなった。
栗を食べていたせいで、七人ともいつもほど腹が減っていなかったからだ。
それでも食事の時間になれば、ちゃんと八人揃って食卓へ座る。
「今日、一番面白かったこと!」
突然フェルナが言った。
「何だ急に」
「みんなで言う!」
どうやら思いつきらしい。
「フェルナは、お父さんの鼻!」
「知ってる」
「ラグナも!」
「お前らな……」
俺が呆れていると、リシェルまで笑いながら頷いた。
「私も、あれかな」
「他にもっとあるだろ。栗を拾ったとか、焼いた栗が美味しかったとか」
「それも楽しかったよ」
リシェルはそう言ってから、少し考えた。
「でも、お父さんがあんなに驚くと思わなかった」
「俺だって驚くよ」
「だって、いつも落ち着いてるから」
「そんなことないぞ」
言いながら。
少し考える。
七人の前では、確かに慌てないようにすることが多かった。
誰かが転べば怪我をしていないか確かめ、物が壊れれば直せるか考える。何か危ないことが起きれば、まず七人を安全な場所へ動かす。
そのせいで、俺が驚いたり慌てたりするところを、あまり見せていなかったのかもしれない。
「今日のお父さん、変だった」
ノエルが言う。
「どう変だった?」
「音がした時、目が大きくなった」
「そりゃ驚いたからな」
「あと、鼻触った」
「もう忘れてくれ」
「覚えた」
「覚えなくていい」
ノエルは少しだけ笑った。
たぶん、しばらく忘れてくれそうにない。
◇
「セレス姉は?」
フェルナが聞いた。
「私?」
「一番面白かったこと!」
セレスは少し考えたあと、俺を見た。
その時点で嫌な予感がした。
「……お父さんの顔」
「やっぱりか」
七人が笑う。
「だって、本当に面白かったんだもん」
セレスは笑いながら言った。
「最初は栗が弾けてびっくりしたけど、お父さんが大丈夫って言ったから安心して。それで顔を見たら……」
途中でまた笑い始めた。
「もういい。十分伝わった」
「ごめん……でも、思い出すと……」
「謝らなくていいよ」
そう答えると、セレスは少し驚いたように顔を上げた。
「いいの?」
「何が?」
「お父さんの失敗、笑っても」
「怪我をしたわけでもないし、別にいいよ。実際、変な顔してたんだろ」
「うん」
「そんなに?」
「すごく」
「そこは少し遠慮してくれてもいいんだけどな」
また笑われた。
俺も諦めて一緒に笑った。
別に父親だからといって、娘たちの前で格好よくしていなければならないわけではない。
今日みたいに失敗して、鼻を煤だらけにして、娘たちに笑われる日があってもいいだろう。
少なくとも。
七人は楽しそうだった。
◇
食事が終わったあと、セレスが片づけを手伝いに来た。
他の六人は居間で昨日の石遊びを始めている。
フェルナが早速ラグナへ勝負を挑み、リシェルは二人の置き方を見て何か説明しているようだった。
俺は使った器を洗い、セレスは拭いたものを棚へ戻していく。
しばらくして。
「お父さん」
セレスが声をかけてきた。
「何だ?」
「今日、楽しかった?」
「楽しかったよ」
「栗拾い?」
「それもだな」
「栗が弾けたのも?」
「それは楽しくなかった」
セレスが笑う。
「でも、みんな笑ってた」
「ああ。あれは面白かったな」
俺が答えると、セレスは少し照れたように笑った。
「私、あんなに笑ったの久しぶりかも」
「そうか?」
「うん。何か、止まらなくなっちゃった」
「笑いすぎて腹痛くなってたもんな」
「ちょっと痛かった」
そう言って、また笑う。
俺は洗った器を一つ渡しながら、セレスの顔を見た。
「また笑えばいいよ」
「え?」
「別に今日だけじゃなくてさ。面白いことがあったら、遠慮しないで笑えばいい」
セレスは少し考えた。
「でも、みんなが何かしてたら……」
「笑ってる間くらい、俺が見てるよ」
そう言うと、セレスは俺を見上げた。
そして。
「じゃあ、お父さん」
「何だ?」
「また変な顔して」
「嫌だよ」
即答した。
セレスが吹き出す。
「だって、あれ面白かったんだもん」
「わざとやったら面白くないだろ」
「そうかも」
「そもそも栗を弾けさせる気はないからな」
「うん。危ないもんね」
そこでようやく真面目な顔になる。
だが、すぐに口元が緩んだ。
「でも、また栗焼きたい」
「それならいいよ」
「今度は一緒に切れ目を確認しようね」
「頼む。父さん一人だとまた忘れるかもしれないしな」
「うん!」
セレスは嬉しそうに頷いた。
◇
片づけを終えて居間へ戻ると、石遊びの方は大変なことになっていた。
「フェルナ、勝った!」
大きな声が響く。
見ると、板の上には黒い石が三つ並んでいた。
向かいに座っているラグナは、ものすごく悔しそうな顔をしている。
「もう一回!」
「いいよ!」
「今度ラグナ勝つ!」
「さっきも言った!」
「今度は本当!」
昨日から何も変わっていない。
俺がそう思っていると、ユラが近づいてきた。
「おとうさん」
「何だ?」
「ユラ、きょうもかつ」
「今日はもう遅いぞ」
「ちょっとだけ」
「明日にしよう」
「おとうさん、まける?」
「今度は負けないよ」
ユラは少し考えたあと、満足そうに頷いた。
「じゃあ、あした」
「楽しみにしてるよ」
その返事を聞くと、ユラはセレスのところへ戻っていった。
どうやら明日の勝負へ向けて、何か相談するつもりらしい。
俺としては。
また本気で負けることにならなければいいのだが。
◇
夜。
寝る支度を終えた七人は、今日拾った栗の話をまだ続けていた。
ラグナは自分が一番大きな栗を拾ったと言い張り、フェルナは数なら自分が一番だったと主張している。
リシェルは次に拾う時は大きさだけでなく重さも調べたいらしい。
ノエルは虫の穴がある栗を見分ける方法をもっと知りたいと言い、ミレアは今日食べきれなかった栗で何を作れるか考えている。
ユラは、明日も自分で拾った小さな栗を食べたいそうだ。
そしてセレスは。
「お父さん」
布団へ入った俺を呼んだ。
「何だ?」
「明日、栗焼く?」
「残りは別の料理にしようと思ってるけど」
「そっか」
少し残念そうだった。
「何だ。そんなに焼いた栗が気に入ったのか?」
「うん。美味しかった」
「また今度焼けばいいだろ」
「そうだね」
セレスは頷き、布団へ潜った。
だが。
少ししてから。
「お父さん」
「今度は何だ?」
「今日は、ありがとう」
「何が?」
「栗拾いに連れていってくれたこと」
「ああ」
「あと、いっぱい笑ったこと」
「それは俺に礼を言うことじゃないだろ」
「でも、お父さんがいたから」
何とも答えにくいことを言う。
俺は少し考えてから。
「じゃあ、また一緒に遊ぼうな」
と返した。
「うん」
暗い部屋から、嬉しそうな声が返ってきた。
◇
山には、毎年秋が来る。
木々の葉が色づき、実が落ち、空気が冷たくなる。
俺が一人で暮らしていた頃も、栗は同じように実っていた。
拾って帰り、焼いて食べる。
たまに皮を剥くのが面倒で、そのまま煮てしまうこともあった。
それだけのことだった。
今日も、やったことは大して変わらない。
山へ行って。
栗を拾って。
家へ帰って。
焼いて食べた。
ただ、今年は七人いた。
大きな栗を取り合う奴がいて、小さな傷を見つける奴がいて、数を数える奴がいて、転がった実を拾う奴がいた。
小さな栗を大事に持ち帰り、俺へ分けてくれる娘もいた。
そして。
栗が一つ弾けただけで、腹を抱えて笑う娘がいた。
あんなに笑うセレスを見られたのは、今日一番の収穫だったかもしれない。
そんなことを考えていると、暗い部屋の向こうからフェルナの声がした。
「お父さん」
「何だ?」
「明日、鼻黒くする?」
「しない」
「ちょっとだけ!」
「しないって」
「セレス姉、また笑うよ!」
「笑わせるために煤をつける父親がどこにいるんだ」
その言葉で、またセレスが笑った。
最初は小さく。
それから、少し大きく。
「もう、フェルナ……!」
「ほら笑った!」
フェルナが嬉しそうに言う。
ラグナも笑い、ユラまでつられて笑い始めた。
俺は布団の中で、呆れながら目を閉じた。
「お前ら、もう寝ろよ」
「はーい!」
七人分の返事が重なる。
しばらくして、ようやく静かになった。
明日になれば、また冬支度の続きをする。
残った栗を料理して、薪を運び、鶏と雛の様子も確かめなければならない。
やることはいくらでもある。
それでも。
今日みたいに、何でもないことで笑い合う時間くらいは、これからも作ってやりたいと思った。
……もっとも。
俺の鼻を黒くする以外の方法で、だが。




