お盆
「ああ、高良くん! もう体調は大丈夫なんだね。治ったみたいで何よりだよ」
出勤した俺と顔を合わせた戸枝店長は、心底ほっとしたように笑顔を浮かべた。
夏風邪を引いてから数日。思っていたよりも不調が長引いて出勤日に被ってしまったので、結局、昨日は休みの連絡を入れたのだ。
「ご迷惑おかけしてすみません」
「いやいや、高良くんは普段からしっかり働いてくれてるからね。余計な私用で休むなんてこともないし!」
店長はそのまま、朗らかな調子で続けた。
「まあ、連絡が来た時には『とうとうか!』なんて焦っちゃったけどねえ」
どうやら店長の中では、なんらかの霊障的な影響が起きたと考えていたようだった。電話口でも、連絡をした俺よりもむしろ店長の方が焦っていたくらいだ。
予測としては当然のものなので、俺は苦笑いを返すしかない。
グ▇▇ハイツの近くにあるこのコンビニに勤めて長い店長は、これまでにも七〇二号室の入居者を見かける機会があったという。体重の過度な変化や、一気に老化したような様子を見せる人間が多く、今回俺が体調を崩したと連絡したことで、随分と心配しているようだった。
まあ、心配の内訳に関しては、体調についてが五割と、お盆中のシフトに関してが五割かもしれない。
俺は去年の盆が過ぎてから此処に応募したので知らなかったが、毎年お盆の時期には昼シフトの人員は休みを取る人が多いらしく、空いたシフトは店長が一人で埋めるのが常だったそうだ。
店長としても、去年まではそれで全く構わなかったのだが、今年は娘さんと奥さんが此方に会いに来ることになったらしく、七月に入ってからは、なんとか時間が作れないかと頭を悩ませていた。
あまりにも困っている様子だったので、俺が昼にも出ましょうかと提案したのだ。どうせ帰省の予定もないし、怪談を聞く時間帯さえ変えれば特に向こうの仕事にも支障は無い、と思って。
それがお盆の直前になって体調不良の連絡をしたものだから、店長としては問題ないと分かるまで落ち着かなかったに違いない。
せっかくこっちに来るのだから、と娘さんが好きなキャラクターのテーマパークに行くと約束しているらしい。
この時期は暑いし家でゆっくりしていたいんだけどねえ、なんて愚痴のように言っていたが、顔を見る限り店長も楽しみにしているのは確かだった。
「そういえば、あの子はどうなったの?」
この時期でも、深夜帯ではそう客は多くない。作業の合間に思い浮かんだのか、店長はタブレットを眺めながら、ふとした声で尋ねた。
「あの子――ですか?」
「そうそう。あの、ほら、万引きの子」
付け足された言葉に、脳内にはっきりと少年の姿が浮かぶ。
マンションに連れていった彼がどうなったのか、俺の口から店長にはっきりとした説明はしていない。店長にとっては妙な親子による被害――してもいない万引きの謝罪が繰り返されるような状況――がなくなればそれで良かった訳で、その後については聞かれることもなかったからだ。
「知り合いの人が預かってくれることになりました。元気でやってるみたいです」
「もしかして、高良くんのお師匠さん?」
「ああ、いや。別の人なんですけど」
顔を上げた店長が、興味深そうに視線を向けてくる。
伊乃平さんに預けたのだと思われているのを察して、二重の意味で否定を口にした。
預かってくれたのは伊乃平さんではないし、彼は俺の『お師匠さん』でもない。どういう訳か、店長は全く信じてはくれないが。
マンションの部屋に引き取ったあと、色々あって前の職場の人間が連れて行ったことを説明すると、店長は「変な人もいるもんだねえ」と、なんだか感心したように呟いていた。
弧見さんは事実として変な人である。何の否定も出来ないくらいに。
曖昧な笑みを浮かべて流した俺に、店長は明るい声で続けた。
「僕だったら絶対嫌だな。ほら、嫁の実家の件であの霊能者さんにもお願いしたことあるけどさ。ああいう変なのと住んで、呪われちゃったりしたら困るでしょ」
今度も、俺は曖昧な笑みを浮かべるに留めた。
店長はグ▇▇ハイツがおかしなマンションであることは知っているが、そこに住む人間がどういう仕事をしているのか詳しく知っている訳ではない。妙なことには極力関わらないのが穏便に過ごすコツだと分かっているタイプの人だし、実際、その判断はとても正しい。
まさか、今まさに話している相手が、『変なのがいるような部屋の隣に住む仕事』をしているとは思っていないだろう。こういう時に愛想笑いで流す以外の対応が出来ればいいのだが、なかなか上手くいかないもんである。
それに、俺自身、弧見さんが彼を連れて帰ると聞いた時には驚いたので、気持ちは分からなくもなかった。
「上手くやっているみたいなので、二人にとってはあれで良かったんだと思います」
「はあー、やっぱり、弟子となると言うことが違うんだねえ」
重ねて感心したように言われてしまったので、これ以上触れるのはやめておくことにした。伊乃平さんは、俺から見ても絶対に弟子とか取らないタイプだと思うのだが、そんなことを説明する必要も意味も無い。
店長としても、またこの店に迷惑をかけに来ないかを気にしただけで、尋ねたことに深い意味はないのだろう。
その後はほとんど客が来ることもなく、俺は約束した昼シフトの出勤日を確認してから退勤した。
ところで。
お盆というのは、故人が里帰りをするものだそうだ。身内の四十九日を過ぎて初めて迎えるのが初盆らしい――のだが。
他所にあげたことで母親がいなくなった場合、この状況は初盆に該当するのだろうか?
なんてことを考えながら、俺はマンションまでの短い帰り道を歩いていた。
そもそもあの人は死亡届を出せるような状況にもなく、葬式すら出来ていないので、無意味な想像といってしまえばそうである。
世間的にはあの人は行方不明というのが妥当な扱いであり、仮にここから俺が届けを出したとしても、失踪を認められて、そこから死亡の扱いになるまでは随分とかかるだろう。
だとしても、俺はあの人がこの世からはいなくなったと知っている訳だ。
あの世にいるかどうかも怪しいし、何処からどう帰ってきて、何処に向かうのかも分からん状態だが、とにかく、少なくとも、生きてはいないとは知っている。
葬式はしないのに供養はしたいのかというと、それはそれで、なんだか妙な話ではあるのだが。そういや、お盆ってそういう感じだったよな、と思い浮かんでしまっただけの話だ。
ちなみに断っておくと、別に全然、全く、帰ってきてほしい訳ではない。むしろ来なくてはいい、と思っているので、特に迎えるような用意をするつもりはない。
ただ、何もしないまま忘却しようと努めるのも、何かが違う気はしていた。時間が全てを解決して、何も考えられずに済むようになる、なんて状況になる日が来るとは、あまり思えなかった。
葬式にしろ何にしろ、故人を弔う儀式的なものは、こういう思いに区切りをつけるためにあるのかもしれない。
考え事をしている内に、エレベーターはすんなりと七階に上がっていた。
七〇五号室の扉は閉まっている。玄関ポーチに置いて贈り直した兎のぬいぐるみは、今回は部屋の中にしまうことにしたようで、次の日には姿が見えなくなっていた。
郵便受けには『だいじにします』と書かれた手紙が入っていたのを覚えている。前回ぬいぐるみを渡した際にはなかったが、同じものを渡したのだから、どちらが気に入ったというものでもないだろう。
あの時は害虫騒ぎのお詫びに贈ったものだったので、澄江由奈としても、とても手紙など書く気分ではなかったに違いない。むしろ、あの程度でよく許してくれたものだと思う。
鍵を開ける数秒の間、七〇五号室を見やる。今日は最後まで、扉は閉まったままだった。




