6-2
体力を使い切ってから眠りに落ちたせいか、ぐっすりとよく眠れた。そう、ぐっすりと。いつもよりも一時間も長く。
学校には十分間に合う時間であるのだが、朝に回している用事もあるので、雑務は放棄して、支度のみをして出ることになった。
登校時間が変わると、少し学校の様子も違って見えた。普段の登校時より賑わいを感じた。特に校門をくぐると顕著だった。数人の塊が散見する中で、五、六人程の集団があった。
歩行の遅い者に速度を合わせているためか、集団はゆっくりと進んでいた。徐々に近付いて行く中で、見えてしまった。集団の中心人物は、「如月君」だった。
遠くから見えたその姿は、どこか違和感を覚えた。
見えた一瞬の印象を取り上げれば、その笑顔は虫さえも慈愛を持って包み込んでしまうような、穏やかで温かな顔つきに見えた。さながらアイドルよろしく、といったところか。
しかし同時に、酷く学ランの似合わない場違いな人物にも見えた。なんとなく高校生のように見えなかった。高校生と呼ぶには少し、社会を知り過ぎているような、そんな印象を受けたのだ。
そしてもう数秒も見ると、虫程度なら表情一つ変えずに踏み潰すような、酷薄な姿に瓦解した。
私はすぐに視線を戻した。
自分でも、なぜそんな風に思ってしまったのかは分からない。
初対面どころか、対面すらしていない人間に、なぜここまで失礼な感想が浮かんでしまったのか、理由が分からない。
これまで見知らぬ他人に対して、取り立てて興味を持つことはなかったが、そこはさすが学校のアイドルとあって、こんな人間にまで感想を持たれる存在ということだろうか。
それとも昨日の奇妙な感覚が、まだ漠然と残っているせいなのか。
進行方向を真っ直ぐ向いて、集団を通り過ぎた。
それからは数日、学校に通い始めてからは一週間ほどが、順調かつ円滑に経過した。時折耳に飛び込む「如月君」サイレン以外は特に変化のない、穏やかな日々だ。
何事もなく私は一人を満喫でき、素晴らしい限りである。この学校のタイムスケジュールにも概ね順応できた感触だ。
先日はカフェで初めてのバイトをし、手際を褒められてほくほくしていた。バイト自体は初めてではないので、要領は分かっていたからできたことだ。
解雇されることなく、安心して給料を払ってもらえるように、集客を上げる作戦は何かないのだろうか。
流行りを取り入れるのは肝要だが、取り入れ方を失敗すると悲惨になる。手堅い集客の上げ方は、マイナスステータスがあればそれをゼロかプラスにすることだと思うのだが、何があるだろう。
立地条件は恵まれているとも言えないが、悪いというほどでもない。改善するとすれば、表通りなど目立つ所に誘導看板や広告を設置することだが、それらは私の手が出せる範囲にない。
となるとメニューの内容や内装の改善など、店舗内で収まることに限られるのだが、果たして何があるか……。
本を読むフリをして、食後の昼休みに考案していたときだった。中島さんが話しかけてきた。
「ね、ね。七瀬ちゃんってあの別荘に住んでるってほんと?」
あの別荘とはどの別荘だ。……どうやら変な噂が流れているようだ。
中島さんは時々、こうして話しかけてくる。基本は元々の友人たちと話していたりするのだが――友人たちが出払っているのだろうか。それともただの気紛れか。
それにしても、別荘の噂が流れるとは、誰かに尾行されていたのだろうか? 特にそんな気配は感じなかったのだが。羽山さんには防犯上、あまり吹聴するべきではないと教わっている。ここは誤魔化すしかなさそうだ。しかし情報は収集しておかなくては。
私は顔を上げて中島さんに尋ねた。
「あの別荘って、どんな別荘ですか?」
「ほら、あの海のそばの、崖の上? の~、オシャレで、綺麗なおっきい家あるじゃん! 知らない? この辺じゃちょっと有名だよ。道とかからは見えないけど、海から見たら見えるんだって。どんな芸能人が住んでるんだろ~って」
「へえ、見たことないですね。私も家は海の近くなので、もしかしたら近くには住んでるかも知れませんが」
「あ、そうなの! じゃ、違うんだー。なんかね、七瀬ちゃんが来るちょっと前頃から、あそこに誰か住み始めたって噂でね、今まであんまり誰か住んでる様子とかなかったから、芸能人か誰かの別荘か、もしくは幽霊屋敷じゃないかって言われてて。そんな状態だったのに、一体誰が住んでるんだっ、芸能人かっ、ってあの辺に住んでる子が気にしててね。七瀬ちゃんが来た時期と似てるし、もしかしたら七瀬ちゃんの可能性もあるよねって話になってて」
なんと迷惑な話だ。仮に住んでいるのが芸能人だったとして、その芸能人にしてみれば、詮索されるなどしたら、鬱陶しいことこの上ないだろう。俗世から離れたくて、わざわざ別荘を拵えて暮らすのだから。生憎、住んでるのは芸能人どころか、冴えない一般の学生であるのだが。
とはいえ誰かが住んでいるだけで、そんなに盛り上がる話だろうか。これが田舎特有の話題性なのか。
しかし陸から見えないのに、なぜ住んでいるのが分かったのだろう。漁師の家族か、知り合いがいるのだろうか。もしくは夜間の明かりが強く漏れているのか。
それともまさか……ゴミ、だろうか? 地域指定でなく、別で回収に来て貰っているのだが、その車が通う様子を目撃されていたのかもしれないな……。そちらの方が可能性は高そうだ。いずれにせよ、案外、人は人を見ているのだな。恐ろしい。
「それは、情報元はどちらからですか?」
「え? 何?」
「その噂は誰が言っていました?」
「あ、ごめん気にした? もう七瀬ちゃんのことは言わないようにするから」
中島さんは笑いながらも少し気まずそうにした。
言い方が悪かっただろうか。一ミリたりとも怒ってはいないのだが。ところで、怒りの単位は長さと同じなのだろうか。不思議だ。
「いえ、単純に興味です。道から見えないのに、その別荘のことを詳しく知っているという人物は、一体どこから見ているのか気になりました。その人はしょっ中海で遊んでいたりするのですか?」
中島さんはキョトンとした後、少しして笑い出した。
「あはは! 何、探偵ごっこ? ウケる、でもごめん知んない。あたしも又聞きだから」
「そうですか。残念です」
会話を終えるつもりで、私は本へと視線を戻した。しかし変わらず声は降ってきた。
「んー、そんとき話してたのは~誰だったかな」中島さんは少し教室を見渡した。「イッチーとゆんゆんと……だったかな。でも二人もよそから聞いたっぽかったよ」
「ああ、いえ。本格的に知りたいわけじゃありませんから。もう充分です。ありがとうございます」
「ありがとうございますって、そんなんで? 笑うからもーやめて。普通にして普通に」
その後も話を杜撰に対処していたが、中島さんは時折ケタケタと笑うので、彼女のツボの浅さが気になった。何が面白いんだろうか。女子高生、分からん。
ようやく飽きたかに思えた中島さんは、話し掛けるのをやめたので、私は本を読むフリに戻った。
その「イッチー」さんと「ゆんゆん」さんにも尋ねて、人伝に辿っていけば、何とか情報元には辿り着けるかもしれない、が、するつもりはない。噂はあくまで「別荘」に対しての噂であり、私自身に関する噂ではないため、この段階で深く行動するのは憚られる。
そもそも「イッチー」さんと「ゆんゆん」さんが誰なのか、把握していないのでできない。顔と本名とあだ名が一致しない。御免。
もしも次に「私」の「学校外」に関する噂があれば、その時は尾行を疑っても良いだろう。今はまだ、記憶に留めておくだけにしよう。
放課後になると、一度帰宅した後にバイトへと向かい、今はバイトも終わって一人で帰っていた。
小さな懐中電灯で道を照らしながら、ぽつぽつと歩く夜道は静かだ。
寒い空気ばかりを肺に取り込んでいると、早く帰りたいと切に願う。早く帰れるかどうかは、私の歩行速度次第なのだが。
羽山さんの別荘に越してから、学校やバイトなどに行っても、以前よりも強く「早く帰りたい」と思うようになってしまった。もちろん現実逃避としての意味合いもあるのだが、何よりも羽山さんの別荘で過ごす時間をより長く確保したいという意味で、「帰りたい」との思いが感情を占める。
やはり家は大切だ。素晴らしい家に越して来たからこそより実感する。
以前住んでいた場所は、本当に寝に帰るためだけの場所だった。寝て起きて、雑用を済ませるだけの場所だった。
だが羽山邸は、寝て起きて、朝の支度をすれば庭を眺めて、外に出れば海を眺めて、掃除をすれば暖かな風呂にゆっくりと浸かって、時々映画を観たり、ただリビングで座って本を読むだけで、それだけで幸せで楽しくて、そして美しくて心地がいい、そんな場所であり空間である。毎日が満ち満ちている。
もちろんバイトの時間が極端に減って、自分の時間が増えたからというのもあるだろう。だが同じだけの時間を与えられたところで、以前の住処と羽山邸とで同じ過ごし方ができるかと問われれば、確実に違うと言える。同じ本を読むのでも、前と羽山邸とでは違う。寝るのだって、そもそも布団から違う。何から何まで、この羽山邸での生活は「心地いい」になるのだ。
だからこそ、もしもそんな羽山邸での生活が脅かされることになれば、私は黙っていられないだろう。
私が噂になることも、尾けられることも構わない。しかしそれによって、羽山邸並びに羽山さんに危害を加えられるとなれば、話が変わってくる。
今は何もないし、たぶん心配も必要ないだろう。ただ会話のネタになっただけだ。取り立てて面白い話がないから、こんなつまらないことが噂になっただけのことだろう。
仮にそういう事態になることがあれば、私は全力で挑む心意気があるということだ。
何かがあれば、竜崎さんを頼っても許されるはずだ。
私は景色を眺めるように、歩きながら辺りをゆっくり見回していた。
この街は暗い。最小限の街灯に、店の明かりも少ない。店仕舞いの時間帯が、平均的に少し早い気がする。
ただ、その暗さに恐怖はなく、どこか懐かしささえ思い描いてしまうような、不思議な空気を感じる。
人との距離感はまだまだ掴めてはいないが、この街の景色や雰囲気は好きだと思う。
そして寒い夜空に光る星は、こちらの方が数が多かった。
以前の生活では、夜空を見上げながら帰っていたことなど、あっただろうか。もうそんなことは覚えていないし、当時は日々が精一杯で、兎にも角にも必死だった。たぶんそんな余裕はなかっただろう。
だが今ではそんな余裕があって、こうして星空を眺めて帰って。それも全て羽山さんや竜崎さんのおかげで。支えてくれる大人がいるということがありがたくて、それを確信できる私は幸せで、ここは最高の暮らしで。こちらでの生活が、私を色濃く染め上げていた。




