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その日の夜は、羽山さんの入れてくれた大風呂に浸かった。
私の仕事なので私が入れると主張したのだが、私の仕事は清掃並びに管理であり、風呂を入れるのが仕事というわけではないと言われた。大した違いはないだろうとも思ったが、雇用主の通達なので、ありがたくお言葉に甘えた。
繊細に照らされた庭を眺めながら、思考を湯の中へ溶かしていった。今日一日で得た情報がふわふわと、脳内で濃厚な泡のように浮かんでは消えていった。
何も考えずに、美しい庭を眺めていた。様々なものが浄化されていくような、不思議な感覚だった。
それから、これほど大きな風呂になるとやりたくなるが、温泉施設や他人のいる空間ではできないこと、つまりちょっと泳いだりもした。プールに比べれば浅いので泳ぎ方は制限されるが、それなりに楽しんでしまった。高校生にもなって何をやっているんだか。自嘲も疑問も水に流し、羽山さんに挨拶をして眠りについた。
ふかふかの高級布団、我が永遠の恋人、愛しているよ。
翌朝、一抹の寂しさと共に笑顔で羽山さんを送り出した。羽山さんがいなくなるのは寂しい。でも一人になれるのは嬉しい。
今日から、これからが本当にただ自分のためだけに生きる日々を過ごせるのだ。
見送った後、その足で外の庭を歩いていた。快晴を確信する穏やかな朝の日差し、海を渡った冷たい風が、競い合うように庭を通り抜けた。
まだ少しだけ残った手続きやらがある。
報告は明日、明日になれば過去の全てに片がつくのだろう。
人はたったの十七年しか、と言うかもしれない。しかし私にとっては十七年も生きた。基本的には普通だが、ちょっと変な人生だった。もう人生の全てが、あらゆることが面倒なのだ。色んなことに囚われて悩んで、馬鹿みたいに日々と精神をすり潰して生きて、そこに一体何の価値があって、何の意味がある。ただただ全てが煩わしいだけなのだ。
全ての出来事を煩わしいか煩わしくないかに振り分けて、煩わしいものの方が多いなら、自分も詰め込んだ丸ごとを捨てたくなる。
世間で上手く生きていくための私と、本来の私は全然違う生き物だ。上手く生きていくための私になるには、精神的コストがかかる。別に本来のままで、上手くできずに失敗しても良い。それが私だけの問題に留まるのならば。
だが世間というものの中には他人がいて、自らの失敗は得てして誰かに迷惑や被害を与えるものだ。それが煩わしくて面倒で、誰かに犠牲を与えてまで生きる価値があるかと問われれば、それは否であり、ならば捨ててしまおうと思ってしまうのだ。
何の価値も意味もない、つまらない人生を生きた。まだまだこれからだと言う人もいるかもしれない。だがその「これから」にも価値も意味も見出せないのなら、わざわざ疲弊するだけの人生を全うする必要性を感じられなかった。
ただ私は今、意味はある。羽山さんのために生きる。羽山さんの別荘のため、羽山さんが悩んだ末に救ってくれた「私」を生かすために生きる。それだけはある。
いつかその意味も消えてしまえば、このままこの足をもう一歩踏み出して、崖から海に向かうのも良いのかもしれない。ただ、今はその旬ではない。
さて、今日は何をしようか。
とりあえず大風呂は掃除しなければ。滅多に使う機会がない分、しっかりと洗おう。その後は昼御飯を食べに行って、そのままぶらぶらしてから買い物をして、帰ってきても良いだろう。
しばらくは色んなことを忘れて過ごそう。
早速大風呂の湯を抜いて、その間は再び羽山邸の内装を見て回っていた。
そして掘り出し物を発見した。バルコニー用物置の中に折り畳み式の椅子――確かデッキチェアと言うのだっか――があった。これは、いい。
木と布でできたシンプルな素材かつデザインの椅子は、穏やかな時間によく似合う。
当たり前だがこの時期に外は寒い! だが良い! 構わん!
毛布も引っ張り出して、バルコニーで椅子を広げて座った。
風を浴びていると、それだけで気分が良い。
顔だけ防御策を見出せないので冷えていくが、それ以外は何の心配もなく、穏やかに海や山や空を眺めていた。眺めているだけで何時間でも過ごせそうだ……とも思ったが、風呂を掃除せねば。そろそろ全て抜けただろうか。
バルコニーを満喫した後で、風呂掃除に取り掛かった。
戸なのか窓なのか分からなくなる大きさだが、位置としては多分窓……を開けて、ゴム手袋をして、デッキブラシを引っ張り出した。
壁、床、浴槽、あらゆる場所に熱湯をかけ、洗剤を振り撒き、擦り上げて洗い流した。広さ、大きさから、昼までに終わるのか、とも思ったがなんとか正午過ぎに終わりを迎えた。
熱湯を使ったため、冬場というのに汗を大量にかいた。そして洗った後だというのに、シャワーを浴びるために風呂場を使った。本末転倒な気がするが、気にしないことにする。使用した面積としては、ごく一部なのでまあ良いだろう。
さて、ご飯だご飯。動いた後はお腹が空く。
米は炊けるが、料理はできないので、今日は外食に出るとしよう。引っ越し祝い、ロンリーバージョンだ。昨日してもらったけど。昨日はクリスマスの要素が大きかったので、今日は自分なりの自分祝いだ。
あとは買い物で、しばらく引きこもっても大丈夫なように、インスタント食品を買い込もう。へへへ。
バスに乗って駅前に着くと、しばらく歩きながら町を見ていた。同時に安くて美味しそうな店はないかと探していたのだが、駅前は駅前なりの値段がする。これならば羽山邸周辺で探せば良かったかもしれない。
だが名分を思い出せ。私は自分祝いと言ったはず。ならば「美味しそう」だけを基準に考えれば良いではないか。
表通りから一つずれた通りに、蕎麦屋があった。
蕎麦。
そういえば、しばらく食べていない気がする。ここ数年ずっと家以外の食事はバイト先のまかないぐらいだった。家では茶漬けや納豆、もやしに茶漬け、茶漬けや茶漬けを食べていた。
蕎麦が好き、というわけでもないが、今日は蕎麦が食べたい。そんな気分になった。
もし一見さんお断りの店だったらと、少し緊張はしたが、無事席へ案内された。一人だと告げると若干驚かれたような気もしたが、珍しい自覚はある。
店内は暗く褪せた色の床に、ほぼ白に近いが薄く緑色の混じったざらざらとした壁をしていた。黒い机と椅子が並ぶ様を見渡せ、奥には座敷もあるようだ。
机の数に対して客は二割ほど、といった印象だ。ピークが過ぎればこんなものなのだろうか。
ボーっと内観を眺め、あれやこれやと感想を浮かべていると、蕎麦がきた。
私が頼んだのは温かい蕎麦だ。溶き玉子と梅干し、とり天が乗っている。
出汁から鰹の匂いがする。いい香りだ。
まずは蕎麦だけを食べる。うむ、蕎麦に詳しくないので何割蕎麦だとか、違いだとかは分からないが、美味しい。柔らかな玉子と一緒に食べ、時に梅干しと、そしてとり天を齧りながら、どんぶりを平らげた。
量もしっかりしていて、満腹感がある。
少しだけ休憩をしてから店を出ると、またぶらりと歩き始めた。今度は買い物ができる店を見てまわった。
蕎麦屋に対して、良い店を見つけたと思うものの、あまり来ることはないだろう。基本的に外食自体が面倒なのだ。
一人きりの空間で、美味しい料理を食べる。これが理想だが、両者が揃うことはない。
私が料理をできれば、解決するのだが。
まだ両親がいた頃、一人で料理を作ったことがある。誰でもできると噂の、カレーライスだ。
もちろんカレーはできた。完成した。両親は美味しいと言ってくれた。
だが、なぜか。なぜかは分からないが、自分で食べると、物凄く気持ちが悪かった。今でも理由は分からない。
両親は美味しいと言っていたし、味として変なところがあったわけでもない。それでも、ともすれば吐き気を催すほどの気持ち悪さで、なかなか食が進まなかった。なんとか皿に盛った分だけは食べ切ったものの、それ以来、料理に対しての自信、興味、意欲、色んなものが削げ落ちてしまった。
精神的な疾患だろうか、とも思うが、自分の作った料理に対するトラウマなど、全て一人で作った料理自体そのカレーが初めてで、それ以前に何かトラブルを抱えた記憶などない。
あれから随分と経った今は、料理ができるようになればそれに越したことはないと思うので、できるようになりたいという気持ちはあるものの、重い腰は上がらない。
買い物をする店を探していたはずだが、映画館を見つけた。ちょっと、覗いてみよう。
映画館特有の、明るいのに薄暗さを感じる照明に、甘いキャラメルポップコーンの匂いを嗅ぐと、それだけで少しわくわくとしてしまう。
上映作品一覧を見ていると、もうすぐ始まる作品が、なんとなく面白そうだった。
上映終了時刻から買い物をしたら、夕方の丁度いい頃合いに帰ることになりそうだ。今日は祝いだ。見よう見よう。
ジュースを片手に、間もなく始まるスクリーンへ向かって行った。
主人公が目を覚ますと、携帯電話が鳴っていた。折り畳み式の、古い携帯だ。
ここはどこだ――見たこともない景色に混乱する。薄明かりの中、冷たいコンクリートの床、隣にはトラック、ここが誰かのガレージだと分かる。
せめてもの手掛かりにと、電話に出た。
『トラックに乗れ。三十秒後に爆破する』
途端、秒針を刻むような電子音がピッ、ピッ……と聞こえてくる。
訳も分からぬまま、半分パニックになりながら、シャッターを開けてトラックに飛び乗り、ガレージから一目散に逃げ出した。
きっかり三十秒後に爆破されたガレージに、なんとか被害に遭わずに済んでほっとしたのも束の間、またもや電話が鳴り響く。
次々と、電話から出される指示を、命の危機と引き換えにこなして行く主人公。果たして、無事生き残ることができるのか。
指示をするのは誰で、どうして主人公はそんな状況になったのか。
そして主人公の結末は――。
スリルのあるサスペンス映画だった。
電話からの一声で変わる緊張感、主人公の煩悶や葛藤、厳しい現実の辛さ、様々な感情が丁寧に描写されていた。
たまたまだったが、良い映画を見れたと思う。
今日はたまたまが良い塩梅になる、たまたまラッキーデーだな。
気分の良くなったところで、スーパーを見つけ、買い物に勤しんだ。リュックを持ってくれば良かったと思ったのは、レジ袋に商品を詰め込んだ後だった。
何もかもを忘れて満喫した翌日、現実を見る日がやってきた。
向かったのは弁護士事務所だった。
母の独身時代から付き合いがあり、とても親切にしてもらっている弁護士の方がいる。
彼女は母に恩があるのだ、と内容は詳しく聞いていないが、その延長線上で私にも懇意にしてもらっていた。
父とともに母を見送った後、親族に連絡し、頼ったのが彼女、竜崎さんだった。
母よりも年上で、いつも落ち着いていて真面目、親切で物腰が柔らかだが、言うことはハッキリと言う、理想的な弁護士そのものだった。
そして父が死んだ後も、私は最低限の親族に連絡したのち、すぐさま彼女に連絡を取った。
右も左も分からず、何をどうすれば良いのか、母のときに一度経験したとはいえ、状況はまた変わっていた。弁護士としての範疇を超えた相談でも、人として恩人の娘として、親切に教えてくれた。
父のときも家族葬で、遠い昔のように思うが、まだ二か月ほどしか経っていないと気付いた。そして集まったのは、母方の祖父と叔父夫婦だけだったが、竜崎さんは親族よりも丁寧に、様々なことを教えてくれた。
今回はもちろん、弁護士としての範疇に収まる依頼だ。
相続放棄と保険金の支払いについてだ。
相続放棄に関しては既に終わっているが、保険金の方は不払いになりそうだった。自殺ではないかと判断されたのだ。しかし竜崎さんは「最善を尽くします」と宣言すると、他の仕事があるにも関わらず、こちらの案件を最優先で処理してくれた。
その結果を今日、伝えてくれるとのことだった。