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3.5


 彼女は泣いていた。

 一粒、二粒、デスクの上に涙を落とすと、静かに手で拭った。普段は意思の強さを秘めた瞳が、その時だけは混迷に揺らぎ、涙を湛えていた。

 ――美しいと思った。

 不謹慎だと、己を叱責しながら。

 まだ若く、自分のことだけを考えて生きていれば良い年頃で、声を上げて泣いても許される状況で、それでも全てを受け止めていくその姿を、堪えた上で溢れ出した涙を、美しいと思った。


「後の手続きもこちらでしておきますね」

「……はい。お願いします」




 彼女の父親は先々月亡くなった。交通事故だった。

 相続放棄と、保険金についての相談だった。

 相続放棄に関しては慣れたものだったが、保険金の方は何とも言い辛い状況だった。

 保険会社からは自殺と判断されたのだ。数年前にリストラされて以来無職のまま、更に借金を抱えこんでいた。手詰まりの状況で追い込まれ、保険金に望みを託し自殺したのでは、との見解だった。

 しかし彼女から話を聞く分に、それは考え難いとの意見だった。曰く、「死ぬ決意なんてできない人間だ」とのことだった。

 プライドは高いが打たれ弱く、面接で何度も落とされ再就職先が見つからなかったことで、早々に諦めて貯金を切り崩すばかりの生活であったらしい。今更死ぬぐらいなら、死ぬべき箇所はもっと他にあったと彼女は言った。

 自分の父親への評価を淡々と話す彼女は、本当に血の繋がった娘なのかと疑わしくなるほどだ。客観的に見れば、彼女が何らかの工作をして、彼を死に追いやったという可能性も否定はできなかった。彼女の為人ひととなりを知っている身としては、そんなことはしないと分かっているのだが。

 ならば借金を作ったことがきっかけだったのでは、と申し出ると、彼女は押し黙った。

 やがて眉根に苦渋を寄せると、重く口を開いた。


「実は……あの日、喧嘩したんです」

「喧嘩?」

「はい。……いえ、喧嘩というか、その、父が借金を作ったことを知って、激昂して、言ってはいけないことを言いました」

「何て言ったの?」


 彼女は少し沈黙した。ごく僅かに眉に力を入れると、口を開いた。


「『死んでしまえ』と」


 ひたすらに平坦な声で、真顔のまま彼女は続けた。


「だから、死んだんです。死ねと言ったから、死にました」


 真っ直ぐ、淀みなくはっきりと言い切った彼女に、恐ろしさと悲しみを覚えた。他人事のように放った言葉は、何度も叩き割った後悔で築かれていた。

 その言葉で、彼女が手を下したわけがないと切に実感した。であるならば、より一層自殺の線が濃厚となった。精神的なショックで拍車が掛かり、身を投じたのだと。

 しかし、同時に保険金目当てでの自殺と言い切るのも弱くなった。


 その後、調査の結果、我々は事故死と判断した。

 ブレーキ痕がなく樹木へ激突した、車での単独事故ということで、やはり自殺の可能性も高かった。しかし、遺書がないことが一つと、道に街灯がない夜ということで視界状況が悪かったこと、しばらく直線が続くことで多発と言えないまでも、過去に近辺で事故が数件発生していたこと、彼の行動並びに外出先が判明した結果、先述の結論に至った。




 この一件は、自殺と言い切るにも、事故と言い切るにも決定打と呼べるものがなかった。

 現場は、交差することのないシンプルな片側一車線の道路で、直線の終わりとして緩やかなカーブを描いていた。事故当時に走行していた車線は、カーブの内側にあたる。

 ここで、情報だけを追うのならば、単純にカーブを曲がり切れなかったのだろう、と考えるが、曲がり切れなかったというわけではない。

 曲がり切れなかった場合はカーブの外側、ガードレールへの衝突及び、河口へ落ちることになる。自殺にせよ、事故にせよ、そちらの方が自然だった。

 だが実際はカーブが始まる辺りの内側へ、まるで車線を一つ分間違えたかのように激突していたのだ。

 自殺の場合、このぶつかり方では、勢いを殺さずに林に突入するだけの、微細なハンドル捌きが必要になる。自殺をしようという精神状態で、冷静に繊細な運転ができるのだろうか。アクセルを全開にして、直進のまま河口へ飛び込む方が遥かに容易で、目を閉じていてもできるという状況であるのに。

 かといって事故としてみる場合、なぜこのような衝突の状態になったのかだが、これも決定的な証拠はなかった。

 運転者が喫煙所であることからみて、煙草によるわき見運転が原因ではないかというのが、可能性として考えられた。

 この状況で、早々に自殺と見切りをつけた保険会社に半ば憤りを感じつつも、我々は独自の捜査を進めた。



 距離、車線等から考え、彼は帰宅途中だった。ならば、行ってきた先は何処であったのか。これが難航を要した。

 彼の身元自体は、ズボンのポケットに入っていた財布に免許証があり、損傷がなかったので判明したのだが、それ以外の荷物が見当たらなかった。金がないので乗せる荷物もない、というのも分かるし、ただのドライブだけならば荷物もいらない、というのでも納得できた。ただ、前席の窓が全開だった、という点が引っかかった。残暑の足掻きもとうに終わり、肌寒さを感じる季節の夜に、窓を全開にするのだろうか、と。

 彼の財布からは一切のレシートが無かったため、やはり買い物等をしたのかは分からなかったが、窓が開いていたということもあり、身に付けていた以外の物は車外へ飛び出したのではないか、という可能性を考えた。

 しかし周囲の木々や地面を調べたところ、出てきたのはゴミばかりだった。

 さらに同時に進めていた聞き込みの方でも大した成果は上がらなかった。

 手詰まりに似た閉塞感に、諸手を上げそうになったが、ゴミを調べることにした。

 そうして調べたゴミの中で、『捨てた』と言い難い物を発見した。

 ビニール袋の中に、ぐしゃりと潰れた箱があった。その箱の中には腐敗した饅頭が数個あった。ビニール袋の中にも同じ饅頭が数個あった。合計した数は半数程だったが、食べたとは考え辛かった。

 箱の口を留める為に貼られていた楕円状のシールが、端のほんの数ミリだけ破れていなかったのだ。

 食べる目的で、箱を開けるためにシールを破ったなのならば、全て破れていなければおかしい。

 破ったのではなく、破れたのならば、それは何らかの衝撃によるものであろう。

 そしてその衝撃は、箱の状態からみて、人の手で投げ捨てられた程度の力で起きたものではないだろう。投手やアスリートならいざ知らず、一般人が出せる力よりも明らかに強い力であるように見えた。


 ならばそれは――。


 希望の光に当てられた思いで、箱に記載された和菓子屋を調べた。結果は大当たりだった。

 事故当日、閉店間際に駆け込んで来た男があったという。外見の特徴も一致した。

 男は息を切らせて入って来たらしい。それだけでも印象深かったのだが、大の男が、まるで泣きそうな顔をしているように見えて、内心ぎょっとして、より強く覚えていたとのことだった。

 饅頭を箱で買うと、安心したような顔をして少し急ぎ足で出て行ったそうだ。


 その和菓子屋は最寄りのパーキングエリアから徒歩で数分歩いた先にある。

 そして事故現場からは車で数十分だった。

 閉店に間に合わないかもしれないと、走って店へ向かった男が、上がった体温を冷ます為に、帰りの車内で窓を開けていても不思議ではない距離と位置関係だった。


 そしてそれらの行動は自殺をしようと考えている人間が起こすものではなかった。

 彼は事故死だった。

 無事、保険金も支払われることとなった。




 私自身の考えは告げず、ただ事実と結果を彼女に伝えただけだった。

 しかし十分過ぎたのだ。彼の行動が示すものが何であるか、彼女は知った。

 そうして、顔色一つ変えぬまま、ただ、静かに涙を落とした。


「白三堂の白あん饅頭が好きだなんて、いくつの時の話だと…………馬鹿でしょうが……」


 仲直りがしたかったんだろう。嫌われてしまって、碌に口も聞かなくなって、今の好みが分からなくて、昔好きだと言っていた土産を持って、話がしたかったんだろう。

 たったそれだけだった。

 そしてそれは、もうできなかった。


「後の手続きもこちらでしておきますね」

「……はい。お願いします」


 真っ直ぐな眼差しを戻した彼女は、ゆっくりと深く頭を下げた。


「ありがとう、ございました」


 そうしてもう一度繰り返した。


「本当に、ありがとうございました」


 はっきりと、芯のある声音だった。


「……こちらこそ。お力になれて、良かったです。ありがとうございました」



 その人生に雨が降ろうと、槍が降ろうと、彼女はきっと、これからも真っ直ぐ歩いて行くのだろう。

 孤高の生き様は、美しくも、切なく見えた。

 ただ、影を抱えてしまったのであれば、その影の強さだけ、明るく照らされて欲しいと思う。

 その道筋に光あれと、出て行く背を見送った。



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