幸せな未来
病院に到着し、幸たちがロビーに入ってすぐのことだった。
「さっちゃん!」
横から呼び止められ、急ぎ足だった歩調を幸は慌てて止める。声の出元を探してきょろきょろと周囲を見回すと、結を抱っこした檀がいた。
「檀さん……と、結ちゃん」
美人な二人が揃っているとそれだけで場が華やかだ。姪と叔母の関係だが、初見だと親子としか思えないレベルでそっくり、遺伝子の奇跡を感じずにはいられない。
隣には真と颯真がいる。幸たちの姿を認めて、彼らも立ち上がって手を振ってくれる。大声で話すのは迷惑になるので傍に寄ったものの、付近には志乃の姿はなかった。
「早かったのね」
「すみません、こんなタイミングでわざわざ病院にまで付いてきてもらって」
「何言ってるの、もう家族でしょう? 私たちにとっても心配だし、何より傍にいたいのよ」
さっちゃんの。
そう言って結を颯真に手渡しながら、檀が優しく笑ってくれる。その笑顔に人心地つけつつ、幸は状況を訊いた。
「あの、それで今、どうなっていますか? 母と、……えっと、お義母さんはどこに?」
「三階よ。二人で一緒にいるわ」
「……三階? 処置室じゃなくて?」
自分でもぽかんとした声になったのが分かった。
予想というか、覚悟していた状況と違う。明らかに切迫していたから、処置室に入って集中管理をされているものだとばかり思いこんでいた。当然意識はないだろうし、まさに峠を迎えていておかしくはないはず、と。
雄三の病室は七階だ。
要経過観察や緊急対応に使われる処置室も同じ階にあるわけで、あの重篤な状態から察するに当然そこにいるはずなのだが、そうではないらしい。言われた三階にはいくつかの診療科と検査室があるはずだが、この期に及んで一体何の検査をしようというのだろう。
幸が首を捻ると、檀が右手を頬に当てて小首を傾げた。
「それがね、最初はさっちゃんの言う通り処置室に入ったんだけど、しばらくしてから『検査します』ってお医者様が。検査室の前にぞろぞろいるのもなんだから、母さんたちだけ残ってもらって私たちはロビーで待つことにしたのよ」
「そうだったんですか。検査……なんの検査だろ」
呟くと同時、幸の携帯が震えた。
慌てて鞄から引っ張り出して画面を見ると、そこに表示されていた名前は恵美子だった。
急なことにものすごく幸は狼狽える。
「お、お母さんだ! どうしよう、どこで」
「小さな声で出ればいい。ここで大丈夫だ」
落ち着いた低い声と背中に添えられた手は、氷室のものだった。
ち、近い。
何の違和感もなく縮められた距離に、幸の心臓が跳ねる。しかし当の氷室はというとまるで昔からそうしてましたと言わんばかりに顔色一つ変えていない。
色々と言いたいことはあるが、とりあえず幸は手の中で鳴り続ける携帯を優先させることにした。
「もっもしもしお母さん? 今病院ついたんだけど、三階にいるの?」
『あら、もう着いてたの。それなら良かったわ、そうよ、今三階なの。それで、検査結果の説明をしたいってお医者様が言ってるから、幸も上に来てちょうだい』
「わかった、すぐ行くね」
要点だけの会話は二往復にも満たずに終わった。
視線で尋ねてくる氷室に、携帯を仕舞いこみながら幸は説明した。
「検査は終わったみたいです。今から説明があるから、上に来てって」
「そうか。じゃあ行くか」
「私たちはここで待ってるから、何かあったらすぐ電話して」
落ち着いた檀の声に背中を押されつつ、幸と氷室は階段へと向かった。
* * * *
「え、あの、すみませんもう一度お願いできますか」
医師から検査結果の説明を一通り受けての第一声がこれだった。
恵美子も状況を理解しておらず、おろおろしている。一緒に診察室に入ってくれた氷室も、珍しく難しい顔で黙り込んでいた。
目の前に座る医師は幸の結婚を急ぐべきだと助言をくれたあの人だ。幸に問われたその医師もまた怪訝さを隠しきれないまま、もう一度目の前の画像のとある部分を指し示した。
「ここからここまで……およそこぶしくらいの大きさの、病巣が見えますね」
見たことがあるから知っている。それは雄三の入院が決まった直後に見せられた画像だ。周囲を圧迫するようにいびつな形で、指摘された塊が身体の中を占拠している。
医師は数枚の画像を時系列に並べて提示する。
その病巣は月を経るごとに大きくなり、最近の画像では倍近くまで成長している様が見て取れた。素人目にも健康ではないと分かるほどで、この状況を知っているが故にこの医師は「時間が無い」と警鐘を鳴らしたし、幸も恵美子も反論の余地はなかった。
「これが先ほど撮った最新の画像です」
並べられた画像は、あたかも他人と取り違えたのかと心配になるほど様相が異なっている。
しかし管理体制から取り違えの可能性は否定でき、かつ他の検査の数値も完全に正常値を示していると医師は重ねて説明し、大変に不可解ではあるけれども現代の医学は雄三の状態を、健康――多少体力の消耗は認められるけれども、病巣は綺麗さっぱり消えてしまっている――それ以外に判定のしようがない、と続けられた。
その場にいる全員が絶句する。
喜ぶべきことなのだろうが、心当たりがまったくない。
例えばいわゆる民間療法というやつで、奇跡の水を飲み続けると身体の毒素が排出されますとか、このご神体を拝めばご利益が必ず、などといった方向での努力は佐藤家に限っていえば一切してこなかった。本を良く読みものを知っている雄三自身が、その手の効果に懐疑的だったからだ。
まさか娘の結婚が嬉しすぎて病を克服したというのだろうか。
確かにテレビで特集されるような数々の奇跡体験の紹介では、笑いは何よりの薬になるらしいし、前向きな気持ちというのは生きる気力に直結する、という論調で結末を迎える。ついでに言えば、病に倒れた者を支える献身的な誰かの愛も、セットで押し出されるのが常でもある。
しかし、返す返すもそんな献身、身に覚えがまったくない。
現代医学の判定上は、雄三に差し迫っていた命の期限は当面延長されたようなので、それ自体は喜ばしい。だが手放しで喜ぶよりも先に、「一体なぜ?」が全面に出てきてしまい、喜び大爆発、とはならないのだ。
テレビだったら、ここで再現VTRの役者さんが涙を流して抱き合う場面だろう。
しかし現実に奇跡を目の当たりしてみると、幸自身は怪訝な顔しかできなかった。そう冷静に分析している自分に気付き、幸はそれも含めて「なんだかなー」とゆるーくびっくりするばかりだ。
結婚式からの救急車騒ぎを経て本物プロポーズ、そして父全快という訳の分からない怒涛の展開を駆け抜け、気が抜けたという方がいいか。
様々な検査結果を記した紙を机の上に置いて、気を持ち直したように医師が言った。
「検査結果はご説明したとおりですが、さすがに即日退院はお勧めできません。こちらも経過を見たいですし、最低でもあと一週間ほどは入院を続けて下さい」
「はい、分かりました」
恵美子が素直に頷いた。
「それで、主人は今どちらに?」
「ああ、もう病室に戻っていますよ。ただ疲れているようなので、まだ眠っているでしょう」
いずれにせよ良かったですね、と優しい言葉を医師は掛けてくれ、それを合図に三人は診察室を後にした。
ロビーに降りる前に病室を覗くと、やはり雄三は深く眠っていた。多少顔色は悪いものの上下する胸は一定で、安らかな寝息に本当に今は疲れて眠っているだけなのだと信じられた。
この分だと当分目は覚まさないだろう。
そして幸たちはそっと病室を後にして、檀たちが待つロビーへと降りた。
心配そうな氷室家の面々に医師から受けた説明をそのまま話すと、彼らは一様に驚きながらも「良かった」とまるで彼ら自身のことのように喜んでくれた。
眠っているなら挨拶は後日改めると言って、真と志乃はそこで帰ることとなった。
檀が送ると言い、ついでに颯真も乗っていくという流れになり、四人がそれぞれに手を振った。
「お母さんは泊まっていくの?」
「ええ、そうするわ」
「じゃあ私も」
「まあ、幸は駄目よ」
「えっなんで」
「新婚さんだもの、ゆっくり過ごしなさい」
穏やかながらも断固言い放たれた恵美子の言葉に、幸は不承不承ながらも頷かざるを得なかった。
確かに「新しい家庭を持つのだから、出来る限り二人で」と今朝方に諭されたばかりだ。状況は状況だが悪い方ではないので、そう頑なになる場面でもない。
「お父さんの目が覚めたら電話で教えてあげるから」
「うん、絶対ね」
「幸」
「なに?」
「……ウェディングドレス、とっても綺麗だったわよ。これからも稜さんと仲良くね」
優しい言葉に幸はただ頷いた。
また明日がある、そんな確信が別れの背を押した。恵美子は病室に戻ると言い、幸たちはそれを見送った。
「さて、帰るか」
ロビーに残った面子――幸と結、それに慶次を見て、氷室が言った。いつの間にか結は慶次の逞しい片腕に抱きかかえられて、ご満悦になっている。
今日からは住み慣れたあの家ではなく、氷室のマンションへ帰るのだ。
少しだけ寂しいような気もするが、二人きりではなく娘の結がいるから、きっと賑やかだろう。それに、隣の世界の住人たちも常にいてくれるらしいので、彼らを想像すれば楽しくなれると思う。
病院の外に出ると抜けるような高い青空で、梅雨明けしたかのごとく雲が白く輝いていた。
「あ、そういうことか」
駐車場まで歩く道すがら、ふと慶次が思いついたと言いたげに呟いた。視線はたまたまなのか結に向けられていて、彼女は小首を傾げて「どうしたの、けいじおじさん」と大きな目を瞬かせている。
大き目の独り言は幸と氷室の耳にも入ったので、自然と注目する。
視線を受けた慶次は、歩きながらも幸の背中に視線を投げた。
「さっちゃんの親父さんが良くなってたって聞いてからさ、ずっと考えてたんだよ。どうしてだろうなって。今だから正直に話すけど、どう見ても生命力は尽きかけてたから」
この結婚式に間に合うかどうかさえ、半信半疑だった。
肩を竦めた慶次は申し訳なさそうに言うが、幸は首を横に振った。そんなことは分かっていたことで、慶次が気に病む必要はない。教会で倒れた時も、信じられない気持ちよりとうとう来てしまった、そんな諦めにも似た感情がこみ上げたくらいだ。
「私も同じです。本当は、もう駄目だって思ってました。親不孝ですよね」
「いや、さっちゃんは強いと思うよ。前から思ってたけど、何でも真正面から向き合ってくれるよね。絶対に嘘はつかないし、だからかな。さっきの光は、さっちゃんの守り人になった猪が力を削って親父さんに渡したんだ。多分、自分が消えても構わない覚悟で引き留めた。本当は親父さん、花畑くらいまで足踏み入れてたんだろうけど、ぎりぎり間に合った」
思わず幸は足を止めた。
「消えてもいいって、なんで……」
背中を振り返るが、今の幸には何も見えない。
だから、小さく縮んでうり坊にまでなってしまったあの新しい守り人がどんな顔で、所作で、そこにいるのかが分からない。そうしろと詰め寄った記憶はないが、何か無理強いをしてしまったのだろうか。
悩む幸の隣で、氷室家次期当主がにこりと笑った。
「訊いてみる?」
そういえばこの人はそういう芸当ができる人だった。
「お願いします」
「ちょっと待ってね」
結を抱いたまま、慶次がぱちりとウインクをしてみせる。
ややあって、
「嬉しかったんだって」
調査結果はたった一言で片付けられた。
何もかもが見えてかつ聞こえている慶次にしてみればその説明で事足りるのだろうが、幸にとっては意味不明の域を出ない回答だ。当たり前だが結はきょとんとしているし、氷室は既に諦めたのか慣れているのか全く平静を装って待ちの姿勢である。
この面子だと、詳しく掘り出すのは幸の役目だ。
「何がどう嬉しくて、あんなに小さくなるまで出血大サービスしてくれたんですか」
「んー、さっちゃんの傍にいられるってのが一番。次はさっちゃんが山のことを分かってくれたから、かな」
「それだけですか? どう考えても割に合わない気がするんですけど」
「割ってのは本人が決める話だからねえ。あっちの世界の住人は思念の塊みたいなもんだから、本人が納得すれば物凄いエネルギーを生み出すんだよ。でも今回のは、まさかだったな。自分の力を半分以上削るなんて思ってもみなかったけど」
きっと、さっちゃんが最後までブレずに優しかったから。
その姿勢が猪も、父も救った。平凡だとか力がないなどとんでもない、誰にでもできることじゃない。
そう慶次は言った。
「さーて。結、今日からは毎日さっちゃんと一緒だぞー!」
ぽーん。
音が聞こえそうな程軽く、慶次が結にスーパー高い高いをした。手加減なしだ。
途端に結が楽しそうに声を上げて笑う。放り投げられながら、空中で体勢を崩さないのは見事だ。将来は体操選手かフィギュアスケート選手になれるかもしれない。
「ちくしょー、俺も結婚したい! 家族欲しい!」
そして戦う神主の忌憚のない本音は、初夏の青空に溶けて消えた。
* * * *
オレンジ色の温かい間接照明の中、幸は結のあどけない寝顔をずっと見つめていた。ベッド横に敷いた子供用の布団は大人が添い寝するには足りなくて、身体がはみ出るが構いはしない。
夜は更けた。
氷室に引き取られてからというもの、結にとっては日常生活とはかけ離れた日々だっただろう。年の割に物分かりの良すぎる子で、「寂しい」とか「疲れた」と素直に口に出せていないのではないかと心配になる。
紆余曲折を経たものの、結局自分たちは本当の家族になった。
どんな暮らしになるのかは想像がつかないが、帰りたいと思える温かな家庭を築いていきたい。
もちろん不安もある。子供を産み育てたことはおろか兄弟さえいない自分が、結の母親になれるのだろうか。忙しい氷室を、妻としてしっかり支えていけるのだろうか。考え出すときりがない。
何より結に寂しい思いだけはさせたくなかった。物分かりは良いが、この子は一人になることを極端に嫌う。きっとそれは、置いて行かれた時についた心の傷なのだ。
そういう意味で、近い内に氷室の実家に同居を願い出てみるのも良いかもしれない。
そんなことを考えた矢先、寝室の扉が控えめに開かれた。ついていた頬杖から顔を上げると、氷室がするりと入ってくるところだった。
「……寝たか?」
「はい、一冊読み終わる前に」
枕元には幸が読み聞かせた絵本が五冊ほど散らばっている。結に好きなのを持ってこさせたは良いものの、結局その中の一冊しか出番はなかった。
「疲れたでしょうね」
言いながら、そっと前髪をかき分けて頭を撫でてやる。
子供特有の柔らかい髪が、さらりと流れた。
「明日はご飯何作ろうかな。結ちゃん、他に何が好きでしょうね」
「俺の好みは聞いてくれないのか」
ベッドに腰かけながら氷室が言う。声が明らかにからかい調子だ。
今までの幸なら激しく動揺するところだが、実は氷室の気持ちが分かったので、もうテンパるには至らない。ただし、恥ずかしさについては自覚していなかったこれまでに比べると、当社比五倍で襲い掛かってくるが。
「だってもう知ってますから」
「そうか。ところでその敬語、いつまで続けるつもりだ」
「うーん……正直、タメ口とか一生無理だと思うんですよねえ」
名前呼びでさえ高すぎたハードルだった。
そもそも氷室は年上なのだから、敬語を使っていてもおかしくはない。口を尖らせて幸が抗議すると、氷室が柔らかく笑って「おいで」と幸の手を取った。
促されるままに、幸は氷室の隣に座った。
すかさず長い腕が肩を抱き寄せ、かと思えば額にキスが落とされる。
甘い。
この人がこんなに甘い人だとは思ってもみなかった。
恥ずかしいながらも広い胸に大人しく頬を寄せていると、静かな鼓動が優しくて涙が出そうになった。
「稜さん」
「うん?」
「荷物運び込んだ後でアレなんですけど、お義父さんとお義母さんにお願いして、氷室の実家に同居させてもらえないでしょうか」
世間一般で良く取り沙汰される嫁姑問題は全く気にしていない。義両親はとても人間のできた人たちで、そんな心配はするだけ無駄というものだ。
幸自身も、大家族に憧れがある。
実家のように三人で仲良く密な空間を過ごすのも悪くないが、大人数でそれぞれの関係性を築いていくのも面白そうだと思っている。
と、氷室が抱き寄せていた幸の肩を開放した。
「同居? できるだけ気兼ねないようにと考えてこっちを選んだんだが、どうした急に」
「あー、やっぱりそうですよね。稜さんならその辺気遣ってくれてると思いました」
やっぱりこの人は如才なかった。
それはともすれば失敗に終わった過去二回の結婚から得た教訓なのかもしれないが、有難い反面申し訳なくもなる。
「結ちゃんを出来るだけ一人にしたくないなあって思ったんです。稜さん気付いてました? 結ちゃん、こんなに聞き分けいいのに、絶対一人になりたがらないんです。トイレもお風呂も寝るのも。一人遊びはずっとできるお利口さんですけど、それも誰かが同じ部屋とか傍に居なきゃ駄目で」
気付いたのは氷室の実家に挨拶に行った時だった。
年の割に賢すぎる故に、隠し通そうとしたのだろう。小さな胸にどれだけ大きな不安を留めていたのかと思うと、この子が不憫で、愛しくて堪らなくなった。
氷室は驚いた顔で幸と結を交互に見た。そして自身の不覚を恥じるように、掌で口元を覆った。
「いや、……すまん、気付いていなかった」
「気にしないでください、って私が言うのも変ですけど。稜さんは結婚式の準備で色々と忙しかったし、その間は結ちゃんの面倒が見れなかったわけだし。でも、だからこそ次は結ちゃんを最優先にしてあげてほしいんです」
「最優先? だがお前は」
「私は一生の記憶に残る結婚式をしてもらえました。本当に嬉しかった。これからも稜さんと一緒に生きていけるから、それだけで充分幸せです」
「駄目だ」
「ありがとうござ、え? 駄目?」
間抜けな声が出た。
氷室のことだから、絶対に肯定してくれると踏んでいた。その為、お礼の言葉しか頭に準備しておらず、力いっぱい噛み合わない会話になってしまった。
出端を挫かれたがしかし、氷室は理由なくNOを突きつける人間ではない。ここは丁寧に確かめる必要があると踏んで、幸は身体ごと氷室に向き直り、ベッドの上に正座した。
「どうして駄目なんでしょう。というか、どうしたら駄目じゃなくなるんでしょうか」
「そういう訊き方か……」
「だって稜さんが嫌がらせの為だけに駄目って言うとかちょっと考えられませんし」
「信用されてるのか微妙だな。まあいい、せめてあと二年は待てと言いたい」
「二年? なんですか、その具体的な年数は」
一瞬、氷室が言い淀んだ。
辛抱強く幸が待っていると、ややあって重そうに見えた口が開かれた。
「復学して、ちゃんと大学を卒業するんだ。それを待てないほど俺は子供じゃない」
「駄目です」
「……理由を訊こう」
「四歳の結ちゃんは今しかいません。今怖いと思っているものを放っておいたら、取り返しがつきません。復学は後でもできます。そりゃタイムリミットはありますけど、そうなったら最悪もう一回勉強して入学し直します」
「駄目だ」
「駄目です」
「お前、意外に頑固だな」
「稜さんこそ」
言い争いには発展しないものの、両者一歩も譲らず見つめ合う。
しかし、やがて折れたのは氷室の方だった。深いため息が吐かれ、腕を組む。
「分かった。このままじゃ埒が開かない。互いに半分ずつ譲るというのでどうだ」
「半分?」
「住み込みの家政婦を雇う。そうすれば結が一人になる時間はないし、お前は無理なく復学できる。お前が卒業したら後は自由にしていい。どこかに就職してもいいし、相談所でバイトしてもいいし、実家で同居して子育てでもいい」
頭の良い氷室ならではの大変に魅力的な折衷案に、幸は一も二もなく飛びついた。
住み込みの、という部分を良く斟酌せずに。
「まったく異議ありません。じゃあ、家政婦さんが見つかったら復学の手続きしますね」
「七月中にはしておけ。家政婦はどうせすぐに見つかる」
「そういうもんですか? まあいいや、分かりました」
結のことは心配ながら、幸はまたあの学び舎に戻れるという現実が嬉しかった。まだ恩師はあの場所で待っていてくれる。間に合った、そんな喜びが静かに胸の内を満たしていく。
友人たちには余裕がなかったことを謝ろう。
そして、この半年ほどで自分に起こった変化を伝えるのだ。父の闘病、自身の結婚を聞けば、きっと皆驚くに違いない。
けれど自分は笑って言うのだ、普通とは違うけれどとても幸せなのだと。
「幸」
「はい?」
「……ありがとう」
柔らかな橙の光の中、氷室が眩しそうに笑っていた。
そして。
家政婦という名の副業戦う神主がこの生活に加わるのはすぐのこと。
無事の卒業、大家族での同居、小さな家族が増えるのは、もう少し後になってから。
幼かった長女が美しい娘に成長し、連れてきた婚約者が父と叔父から決闘を挑まれるのは、ずっと後のお話。
終わり




