本より難しいもの
新しい小説です
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「お兄様、朝です。起きてください。訓練に遅刻します」
少年アレクシス――愛称アレクは、服を着たままベッドの上で眠っていた。
枕元には、開いたままの本が放置されている。
「もう。本は大事にしなければだめです。お父上とお母上に叱られますよ」
少女――リリアーナ、愛称リリアは、本を閉じて机の上に置いた。
「あーーーっ!! しおりを挟んでないのに!!」
その気配でアレクが飛び起きる。
その声を聞いて入ってきた侍従が言った。
「坊ちゃまが悪いのです。さあ、起きてください。毎朝お嬢様に起こされるなんて……兄上として情けないと思わないのですか?」
侍従がカーテンを開く。
まだ外は薄暗かった。
「わかったよ……だけど眠い……」
目をこすりながらアレクは起き上がる。
「では、私は先に行きますね」
リリアはそう言って部屋を出ていった。
侍従はため息をつく。
「私ではまったく起きてくださらないのですから困ります。お嬢様だって、毎日遅くまで勉強なさっているのですよ」
「すまない。支度を手伝ってくれ」
そうして少年は、すでに整列している騎士たちの列の後方へと紛れ込んだ。
「アレクシス様! 毎回遅刻では困ります。皆の示しがつきません!」
侯爵家私設騎士団長の叱責が飛ぶ。
「これから気を付けます」
まだ眠そうな声で少年は答えた。
これは毎朝繰り返される、侯爵家の日常の光景だった。
大人の騎士たちは苦笑いを隠せない。
しかし、皆が知っている。
侯爵家の嫡男であるアレクが早く来れば、自分たちはもっと早く並ばなければならない。
ある意味、遅れて来てくれた方が助かる面もあった。
もちろん、誰も口には出さなかったが。
「では、持久走から始める!」
その中には、一人の少女の姿もあった。
リリアーナである。
彼女は大人の騎士たちに混じり、同じ訓練を受けていた。
「無理しなくてもいいのに……」
アレクは走るリリアの姿を見ながら思う。
リリアーナは実の妹ではない。
従妹だった。
ある日、何者かが少女を侯爵家の玄関先へ連れて来て、そのまま置き去りにした。
少女の首には侯爵家の紋章入りの指輪が下げられており、何より、その顔立ちは侯爵の亡き妹によく似ていた。
調べてみると、少女は侯爵の妹――伯爵夫人の娘だった。
しかし伯爵家は没落しており、使用人もほとんど残っていなかった。
リリアは侍女同然に働きながら暮らしていたらしい。
そんな中、両親は移動中の事故で亡くなった。
屋敷は借金のかたに取られ、少女は行き場を失ったのだ。
当時、侯爵家の嫡男だった母の兄は、その結婚に大反対していた。
それを知っていたリリアは、
「頼ってはいけないと思っていました。でも、気が付いたらここに連れて来られていました」
と話していた。
侯爵にとっては実の姪である。
「養女にする」
そう宣言し、少女を迎え入れた。
しかし――
彼女は侍女たちに紛れ込み、必死に働いた。
「そのようなことはしなくてよい」
侯爵夫妻が何度言っても聞かなかった。
そんなある日、リリアが侯爵に願い出た。
「お願いがあります。このお屋敷の本を読むことをお許しいただけますか?」
「いくらでも読むがよい。その代わり、侍女の真似はやめなさい。それが条件だ」
少女は目を見開いた。
「居場所をくださっただけで十分です。でしたら本はあきらめます」
「なぜそうなるのだ!」
侯爵夫妻はそろって頭を抱えた。
「わかった。そなたに役目を与える。
毎朝、息子が起きるのを手伝いなさい。
あれは本を読んだまま寝てしまうのだ。
侍従がいくら起こしても起きない。
その本を片付けるのがそなたの役目だ。
図書室へ戻す前に内容を読んで、家庭教師に報告しなさい。
そして朝の騎士訓練にも参加するのだ。
女性騎士は王室で重宝される。
侍女ではなく、女性騎士を目指しなさい。
王室に仕える女性騎士には、常識も教養も必要だ。
家柄も求められる。
そなたは伯爵家の出だ。十分に資格がある。
侍女は誰でもなれるが、女性騎士のなり手は少ない。
そちらを目指しなさい」
少女の瞳が輝いた。
「はい。かしこまりました。必ずご期待にお応えします」
「本当は、そういう意味ではないのだがな……」
侯爵は遠い目をするしかなかった。
こうしてアレクは毎朝、自分より年下のリリアに起こされることになった。
「お兄様が本を読んだまま放置すると、本が傷みます。私が読めなくなります。その前に救出しなくては!」
ちなみに「坊ちゃま」を「お兄様」と呼ばせることに成功したのは、
「お兄様と呼んでくれないと本に触らせない」
とアレクが言ったからである。
「私たちのことも『お父様』『お母様』と呼ばせてくれ」
侯爵夫妻は懇願したが、
「自分たちで方法を考えてください」
とアレクは投げた。
「せっかく娘ができたと思ったのに、『旦那様』『奥様』では寂しすぎます!」
侯爵夫人は本気で嘆いた。
「頑固なところが亡き妹にそっくりだ……」
侯爵は苦笑する。
その横を、今日もリリアは本を抱えて真面目な顔で歩いていく。
そんな姿を見ながら、侯爵夫妻はそろってため息をついたのだった。
ある日、リリアはアレクのお供として本屋を訪れていた。
そこで彼女は、一冊の本の前で足を止める。
ある国の歴史書だった。
「その国の歴史に興味があるのか?」
アレクが尋ねる。
「はい。昔、家にいた侍女がその国の出身だったのです。いろいろなお話を聞かせていただきました」
リリアはしばらく本を見つめていたが、やがて名残惜しそうに視線を外した。
「失礼いたしました。お兄様のお探しの本は見つかりましたか?」
「今日はめぼしい本がない。また来ることにするよ」
そう答えながら、アレクはあることを思いついていた。
帰宅後、彼は侯爵夫妻に報告する。
「リリアがとても欲しそうにしている本がありました。ただ、少々高価で、僕の小遣いでは買えません」
「ほう」
「その本と引き換えに、『お父様』『お母様』と呼んでもらうのはどうでしょう?」
侯爵夫妻の目が輝いた。
早速、本に詳しい騎士が店へ向かう。
店主からは、
「とても珍しい本です。お目が高い」
と褒められたそうだ。
後日、リリアは侯爵夫妻の部屋へ呼ばれた。
机の上に置かれた本を見た瞬間、少女の瞳が輝く。
だが、
「その本が欲しいのなら、私たちの本当の娘になってほしい」
という侯爵の言葉を聞くと、すぐに視線を落としてしまった。
「私ごときが手にしてよい本ではございません。とても高価なものです」
しょんぼりとうなだれる。
侯爵はため息をついた。
「そなたは亡き妹の娘だ。れっきとした私の姪であり、すでに養女としての手続きも終わっている。
それなのに侍女のような真似をされては、我々の面目が立たぬ。
そこを少し考えてくれないか?」
本で釣る作戦は失敗した。
仕方なく正攻法に切り替える。
「普通、貴族の令嬢は侍女のような仕事はしない。
そなたがそうした振る舞いを続ければ、周囲の貴族は『侯爵家は養女を侍女として扱っている』と思ってしまう。
それは侯爵家の名誉に関わるのだ」
リリアは目を丸くした。
「家では家事のほとんどを私がしておりました」
「普通の貴族の家では令嬢はそのようなことはしない。
どうか、普通の令嬢として振る舞ってくれないだろうか。
そうしないと、我々が周囲から冷たい目で見られてしまう」
すると侯爵夫人が前に出た。
「私は娘が欲しかったのです。
お願いだから、本当の娘になってちょうだい。
『お母様』と呼んでほしいの」
そう言って、リリアの手を優しく握る。
しかし少女は下を向いたままだった。
「こんな没落貴族の生き残りが侯爵令嬢だなんて、それこそ侯爵家の恥になります。
どうか今まで通り、侍女として働かせてくださいませ。
その代わり、侯爵家に恥じない女性騎士を目指します。
それでは、いけませんか?」
結局、侯爵夫妻の願いは聞き入れられなかった。
「少しずつ時間をかけましょう。
よほど辛い思いをしてこられたのでしょう」
執事が静かに言う。
こうして本はアレクへ渡された。
「さっさと読んで、あの子に渡しなさい」
と言いつけられたのである。
だが――無理だった。
本は好きだ。
しかし、書かれている言語が違う。
「なあ、この部分は何と書いてあるんだ?」
アレクはリリアに尋ねた。
少女は本をのぞき込む。
「ここは料理の話ですね。
材料や調理方法が書かれています」
「読めるのか?」
「はい」
その日からアレクはリリアにその国の言葉を教わるようになった。
「そなた、下手な貴族令嬢よりよほど賢いぞ。
侍女ではなく、僕に言葉を教える仕事をしてくれないか?」
そう言うと、リリアは真顔で答えた。
「お高い本ですから、ベッドへ持ち込まないと約束していただけるのでしたら構いません」
「この子の基準が本当にわからない……」
アレクは頭を抱えた。
それでも二人は、その本の翻訳を少しずつ進めていく。
気が付けば、それが二人の日課になっていたのだった。
何だかよくわからない女の子
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