プロローグ 人生最高の日から不幸の見本市へ
本日は7話まで投稿します。
強くて元気な女の子を活躍させたくて色々考えてたら思わぬ方向に展開し、ちょっと変わった話になりました。
シンクに水滴一粒残っていないことを確かめたさやは満足げにうなずいた。
「これで良し! あとは床掃除だ」
そう言うと鼻歌交じりに、足跡が付かないよう後ずさりしながら床にモップをかけていく。しつこい汚れがなかなか落ちなくても、さやはこれ以上無いぐらい上機嫌だった。
だって昨日は祝日に制定したいぐらい良い事があったのだ。ようやくこの仕事が自分の転職だと自信をもって断言出来たのだ。それも長年闘ってきた、母という名の宿敵に。
ここに至るまでの道のりは長かった。
大学卒業直後に宿敵に提示された、〝最高に幸せな結婚へと続く道〟を拒否して家を飛び出したのが六年前。それからバイトで食いつなぎながら自分は一体何がしたいのかを必死に模索し、バイトの一つとして今の仕事に就いたのが五年前だった。
他のバイトに比べて明らかに自分に向いており、やりがいも充実感も半端ない仕事。しかし宿敵が雨あられと浴びせかけてくる見合い攻撃を跳ねのけながら、本当にこの仕事で良いのか、ただ宿敵に反抗してしがみついているだけじゃないのかと迷いながら働き続けて五年経った。
宿敵が大反対する仕事、という要素はさやにとって間違いなく魅力的だったから。
宿敵の手を変え品を変えての反対や説得という雑音が凄まじ過ぎたさやは、ようやく自分の本心を確かめるのにそれだけの歳月がかかってしまったのだ。
(あたしももう二十八歳か。ここまでくるのに随分かかっちゃったな)
さやは苦笑した。しかし心は晴れやかだ。あの手ごわい宿敵に抗して本当に自分がやりたい事という、
何物にも代えがたい財産を得たのだ。二十八年の歳月ぐらい、安いものだ。
床の汚れがようやく落ちたところで、さやは後ろ向きにトイレのドアを閉めた。そこで時計を見る。作業終了予定時刻の十七分前。上出来だ。後は外回りの掃き掃除だけだ。
ちょっと余裕が出来たので、さやは外に向かいながら少しだけ楽しい空想を巡らせた。一生続けていくと決めたのだから、今後は正社員登用を目指そう。清掃業は給料が安いのが難点だから、それを補うために資格を取るのも良いだろう。
取り敢えず今夜は祝杯だ。せっかくだから奮発して、駅前のちょっとお高い総菜屋でつまみを買おう。
外に出たさやは空を見上げた。見渡す限り雲一つ無い、目の覚めるような青一色。まるで今のさやの心のようだ。
さやは思いきり伸びをした。
この時のさやはこれから数十分後に、まるで不幸の見本市のような運命が自分に襲いかかるなどとは夢にも思わなかった。
「だから君、臭うんだよ」
「……は?」
「ここ最近、耐えられないぐらい酷い臭いがするんだって、この事務所の社長さんから苦情が来てるんだよ」
仕事先を訪ねて来た清掃会社の上司がさやに告げた事は、あまりに思いがけないものだった。
「……私が、ですか?」
上司は大きく頷いた。
「この事務所、以前とは状況が変わってお客さんの来る数が大幅に増えたのは、君も知っているだろう? 自分達が感じているならお客さんも感じるだろうと思うからちょっと、という事なんだよ」
「…………」
ようやく上司の言葉が頭に入ったさやは、ゴクリと唾をのんだ。背中を冷や汗が流れていく。
ショックなどというものでは無かった。今までとても良い関係を築いていると信じて疑わなかった顧客がそんな不快な思いをしていたなんて。考えただけでも心が凍りそうだ。
信じられない、いや信じたくない話だった。さやは清掃という仕事をするにあたり、思いつく限りの事に気を遣い正してきたつもりだった。自身の清潔さも然り。
毎日の入浴はもちろん、清掃道具もきちんと洗い消毒している。作業着だって毎日洗濯した上に、基本的に午前と午後で着替えて作業しているのだ。
制汗剤だって無臭のものを常に使用している。
しかもこの会社は午前中の仕事だ。汗の匂いだってまだ目立たないだろう。臭いが発生する余地は無いはずなのだ。
しかしさやがそう訴えると、上司は更に顔をしかめた。
「それだけやってそれでも臭うなら、どうしようも無いということだ。言いにくいが、君自身の体臭が原因だと考えるしか無いね」
「体臭⁉」
さやは悲鳴を上げた。身体が臭うなんて、今までの人生で指摘された事など一度も無い。
上司は腕を組み、難しい顔で言った。
「——そうなると、午後の現場も問題だな。あの事務所はおとなしい人が多いから、君が臭っても今まで口に出さなかった可能性が高い」
「——え」
衝撃のあまり言葉を失っているさやに、上司は容赦なかった。
「俺もね、こんな事は言いたくないんだよ。君は仕事を本当に真面目に、一生懸命やってくれている。この事務所の人達も『臭いさえ無ければ』と言ってたよ。だからここは結構うるさい人が多いのに、今まで我慢してくれてたんだろうけどね」
いきなり自分を褒めだした上司にさやは気付いた。
ああ、これは死刑宣告をする前に裁判官が述べる、判決理由だと。
上司は散々さやを慰める言葉を並べ立ててから、本題を切り出した。
「だからね、言いにくいんだけど、まずこの現場は今日まで、ということで。それから午後の現場の事務所にも確認して、やはり君の臭いで悩んでいる事が明らかになったら、うちとしてはこれ以上君を雇うわけにはいかないんだ」
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