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 歓楽の聖地である吉原の中と外を隔てる大門には多くの顔がある。


 一見するところ、朱色に塗られた派手で堂々とした構えではあるが、これから中に入る客に向けては快楽への欲望を掻き立てる誘惑の色を放ち、遊び終わり満足して帰る客には哀愁を帯びた物悲しい眼差しを向ける。


 あるいは、売られてきた女達には過酷な労働を匂わす非情な冷たさを感じさせ、勤めを終えて無事に抜ける女達に向けては穏やかに慰労する安らぎの表情を漂わせる。

 門を仰ぐ者の心を敏感に感じ、中での悲喜交々を知るからこそ、見せる顔である。


 霧の濃い朝だった。


 掃除のために門の外に出た丁稚小僧が竹箒を持った手を止めた。近くに立つ男が目に入ったのだ。朝帰りの客が付近にたむろし、名残惜しそうに止まっている姿は珍しくない。

 だが、この商人風の身なりをした男は、遊び終わって帰る客の表情とは明らかに違っていた。ジッと一点を見詰め、青ざめた顔には悲壮感さえ見て取れる。


 丁稚小僧は、その尋常で無い雰囲気に興味をそそられて、引き付けられるように男の方に近付いた。


 男がハッとしてそれに気付き、顔を背けて、慌てるように走りながら去って行った。


 丁稚小僧が、男が立っていた場所に来て、その見つめていた草むらを見て、思わず後退りした。


 最初は着物が捨てられているように思えたが、よく見ると人だったのだ。

 遊び人風の派手な衣装を身に纏っている。目を見開いて、血が滲み出ている腹を両手で抑え、ピクリとも動かない。既に死んでいるのは明白だった。


「た、大変です・・、ひ、人殺しです・・」


 丁稚小僧が大声で叫びながら中に入って行った。

 やがて、中から多くの人が出てきて人だかりが出来た。驚きや興奮で騒ぐ声に、何やらささやく声なども加わり、ざわざわという喧騒の声が周りを包んだ。


 次第に霧が晴れて行った。


「あ、こいつ市松じゃないか」

「ついにやられたか」

「やはり、良い死に方はしなかったな」

 殺されていたのは、中でも少しは顔の知れた市松という男だ。通称、人さらいの市松とか、騙しの市松と呼ばれている。


 表向き、江戸に店を構える商店から頼まれて奉公人を斡旋する口入れ屋をしているが、裏の顔は、農村などから女を買って遊郭に売る女衒ぜげんでもあった。


 この頃、幕府は女衒を禁止している。


 凶作時の農家だけでなく、貧しい多くの地方の家が、一家を食わせるために娘を遊郭などに売ることは茶飯事であった。歓楽街も若い娘を必要としている。その点、需要側と供給側の双方の思惑は一致していた。商売としては成り立つ構図である。

 しかし、人身売買という人道にも反し、かつ、悪徳非道な連中の稼ぎの元となっている行為を、流石に幕府が黙認する訳にはいかない。禁止令は当然の措置だった。


 とはいえ、残念なことに、幕府の取締りにもおのずと限度がある。四六時中、津々浦々に眼を光らせる訳にはいかなかった。抜け道はいくらでもあった。


 そういう状況の中で、市松は上手くやっていたとも言えるのだろうが、この男の評判が悪いのは、江戸の大店の奉公人になるような事を言いながら娘を連れ出し、実際の行先が遊郭だった、との噂が絶えない事だ。更に、手付金などの支払いを渋るなど金の揉め事も多いとの話も聞こえていた。

 であるならば、市松に恨みを抱く者がいるであろうことは容易に想像ができた。口入れ屋にしては羽振りが良すぎ、中で遊ぶ姿も結構目にされたことが、その噂も案外当たっているかも知れない、と思わせることにつながっていた。


 ただ、中の店でも、商品となる娘たちを市松のような連中に世話してもらっているところも少なくない。そこは、持ちつ持たれつの所があり、大きな揉め事が無ければ、多少の事には目を瞑っているのが現状であった。したがって、この殺しの関係で、自分のところに厄介ごとが及んでこないかを心配する者もいたに違いない。


 一方で、市松を見ていて、慌てて逃げ出した男もすぐに目星がついた。


 丁稚小僧が覚えていた顔つきや背格好から、日本橋の老舗呉服問屋「大磯屋」の仕立て職人である住吉である可能性が高まった。住吉は前日に中の「愛宕屋」を訪れて、そこで一夜を過ごしていた。


 住吉は、武州は日野村の出だ。農家の三男坊であることから、江戸に出て「大磯屋」の仕立て職人となった。

 元々手先が器用な上にコツの飲み込みも早く、しかも、丁寧な仕事ぶりであることから、次第に周囲から認められて行く。その性格も、見るからに純朴なうえに素直で、その言動からは真面目さや誠実さも感じられた。悪い仲間などの噂も無く、どう考えても、中で遊ぶような男には見えなかった。


 ただ、住吉は、ここ二月ほどの間に、何度も愛宕屋を訪れていた。


 無論、人は見かけによらないこともある。何かをきっかけに心を寄せる女が出来るかも知れない。それが、同じ店で働く色気のない芋娘ではなく、中の優雅な遊女であっても不思議ではない。健常な男としてはあり得ることだ。

 確かに、住吉には一途なところはあった。ひたむきさ、あるいは強い追求心とも言えるのかもしれない。


 例えば、他の者が敬遠するような難しい仕事でも文句一つ言わず引き受け、場合によっては昼夜を分かたずに取り組んだ。更に、その結果に満足しない時には、何度でもやり直しをするほどのこだわりも見せている。

 また、休みを貰った時の行動などにも、それらを伺わせるものがあった。必ず一人で、朝早くに出かけて帰りは遅かったが、名所見物や仕事の疲れを癒す気晴らしなどとは違う、目的を持った行動であることは確かだった。周囲には何も語らなかったが、いつも、思い詰めた表情で帰って来る姿からは、心に秘めた深い訳と、何か信念のような固い決意を感じさせた。


 いずれにしても、この堅気で真面目な老舗大店の職人である末吉と、娘売り捌きの悪人市松との間に、深刻に利害が絡む接点があるとは思えなかった。


 だが、あの状況は、住吉と市松が何らかの関わりがあったことをほのめかしていた。黙って死人の市松を見詰めていた住吉は、丁稚小僧に気付いた途端に逃げ出しているのだ。住吉に、逃げ出すほどの後ろめたさがあることは確かだった。


 これでは、市松を殺したのは住吉だろうと誰もが思うだろう。


 仮に、そうであるならば、中の女を巡っての恋の鞘当が痴情に発展したのだろうか。それとも、偶発的な揉め事か。あるいは・・


 何処かで猫が鳴いている。

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