第34話 言語の墓場③
ミズキが霧散した後の新宿は、束の間の静寂に包まれていた。しかし、それは救済の訪れを意味するものではない。パンデミックの嵐は、さらにその外縁を広げ、いまや新宿区全体が巨大な「意味の断層」に沈もうとしていた。
「……動けるか、律」
累が、掠れた声で問いかける。彼は律の腕を自分の肩に回し、強引に立ち上がらせた。累の身体はもはや、薄いベールを通して向こう側の景色が見えるほどに希薄化している。律を繋ぎ止めるために放出された黄金のエネルギーは、彼の根源そのものを削り取っていた。触れる肌の感覚さえも頼りなく、律はまるで実体のない光の塊に寄りかかっているような錯覚を覚えた。
「……あ、ああ……。すまない、累。俺の器が、お前の寿命を……際限なく飲み込んでいる」
律の視界は、眼鏡がないせいで依然として酷いものだった。剥き出しの眼球に飛び込んでくるのは、光の粒子ではなく「情報」そのものだ。地面を這う「文字の泥」が、蛇のようにうごめいて、自分たちの足首を絡め取ろうとしているのが分かる。新宿の地下へと続く階段は、もはやコンクリートの塊ではなく、崩壊したニュース原稿や、意味を成さない広告の羅列が積み重なった「情報の腐敗物」に見えた。
二人が駅ビルの瓦礫を抜け、地下通路へと潜り込もうとしたその時。背後の闇から、先ほどよりもさらに巨大な「予兆」が響いた。
――地響き。
いや、それは数万人の「舌打ち」が重なり合ったような、生理的な不快感を伴う振動だった。
「逃がさないよ、不法占拠者さん。一度目の取材を逃れたくらいで、校了だと思わないで」
闇の中から、再びあの声が響いた。
驚愕に累が目を見開く。そこには、身体の半分を文字の泥で補完し、歪な姿で再生し始めたミズキが立っていた。彼女のスーツは無残に裂け、露出した白い肌からは「速報」「号外」「未確認情報」「関係者の証言」という文字列が絶え間なく溢れ出し、彼女を巨大な「情報の怪物」へと変貌させていた。彼女のレンズ状の瞳は、ひび割れながらも赤く発光し、律たちの絶望を克明に記録しようとしている。
「……再生したのか? あの傷で……!」
「事実は不滅よ。誰かが私を記憶している限り、誰かがこの惨状をネットに書き込み続ける限り、私は何度でも編纂される。……さあ、次のページを始めましょうか。タイトルは……そうね、『共依存の果ての心中』なんてどうかしら? 読者受けしそうな、残酷で甘い悲劇じゃない」
ミズキが指を鳴らすと、地下通路の壁一面が波打ち、そこから鋭利な「ペン先」の形をした怪異たちが無数に飛び出してきた。それは万年筆の先のように鋭く、インクの代わりに「誰かを呪うための毒」を湛えた言葉の凶器。
律は、もはや解呪を行うための集中力が残っていないことを悟った。脳は焼けるように熱く、視神経を伝って流れ込んでくる情報の暴風が、彼の意識を何度も断絶させる。首筋の痣は心臓にまで届こうとし、鼓動のたびに激痛が全身を走る。
「累……、ここは俺が……」
「黙ってろ律! 自分の心配だけしてりゃいいんだよ! オレの『名前』は、こんな紙クズみたいな連中にくれてやるためにあるんじゃねぇ!」
累が、残された力を振り絞って前に出る。黄金の爪が空を裂き、迫り来るペンの怪異をなぎ払う。だが、最悪の事態はその直後に起こった。
累の身体があまりに透過しすぎたせいで、彼の爪を擦り抜けた怪異や、彼が切り裂いた破片が、累の身体をそのまま素通りしたのだ。まるで実体のない幽霊を通り抜ける風のように、呪いの刃が累の身体を透過し、その背後にいる律へと直接突き刺さる。
「……がっ、あ……!」
律の肩と脇腹に、黒いインクの槍が深く突き刺さる。
累の身体を通り抜けた「呪い」は、累が律を守ろうと身を挺すればするほど、死角から、あるいは盾となった累の身体そのものを媒介にして、より確実に律の急所を貫く。守るための盾が、攻撃を通すフィルターへと成り下がっている。ミズキが設計した最悪のシステム。
「どう? 美しいでしょう? あなたの『守りたい』という意志が、彼を物理的に殺す毒に変わるの。守れば守るほど、彼は傷つき、命を散らす。これこそが、君たちが選んだ共生という名の『矛盾』への、唯一にして正しい解答よ」
ミズキが、歪んだ悦びに震える笑みを浮かべて近づいてくる。
律は、苦痛の中で一つの真実に辿り着いた。このままでは死ぬ。累が俺を守るほど、俺は死に近づき、俺を助けようとする累も消滅する。この「守り、守られる」という因果そのものが、ミズキの編纂する『悲劇』の燃料になっている。
律は、自身の肺を灼くような熱い息を吐き出した。
「……累。……手を、貸せ」
「あ? 手ならさっきから貸して……」
「そうじゃない。……お前の『正当な力』のなかに、……俺の『痣』を流し込め」
律は、震える手で累の透過した腕を掴んだ。
ミズキが定義する「事実」は、律が不法占拠者であるという一点に基づいている。ならば、一時的に累の神霊としての波動と律の精神を完全に同調させ、ミズキのレンズがどちらを「主体」として認識すべきか分からなくなるほどに攪乱するしかない。
「……俺たちの境界線を、曖昧にするんだ。……お前が俺になり、俺がお前になる。……解呪師としての『俺』を、一時的に放棄して……お前の暴力を、俺の呪いで汚染する……!」
律は累の腕を強く引き寄せ、自分の首筋にある痣を累の手のひらに押し当てた。
その瞬間、黄金の光と黒い泥のような文字が混ざり合い、凄まじい火花が散る。
「……あ、あああぁぁぁ!!」
律の絶叫。
それは苦痛というより、自身のアイデンティティが強制的に書き換えられることへの存在的な拒絶反応だった。だが、累はその濁った力を拒まなかった。律が抱える「不法」という名の重みを、神霊としての広大な器で丸ごと受け止める。
「……面白いじゃねぇか。……正当な神様が、ドロドロの嘘つきに染まるってワケだな!」
累の透過していた身体に、どす黒い文字の血管が浮き上がる。
黄金の光が、侵食された闇と混じり合い、見たこともない「極彩色のノイズ」となって地下通路に溢れ出した。
「なっ……何をしているの!? 記録が、私の記録が……バグを起こしているわ!」
ミズキが狼狽し、デバイスのシャッターを連打する。だが、レンズに映るのはもはや「一人の人間」でも「一柱の神霊」でもない。絶えず輪郭を入れ替え、意味を反転させ続ける、定義不能の「二律背反」そのもの。
「……取材時間は、……終わりだ、ミズキ」
律と累の重なった声が、地下通路の壁を粉砕した。
二人の手が一つに重なり、そこから「確定された事実」を消去するための、巨大なエラーの奔流が放たれる。




