第32話 言語の墓場①
新宿駅東口。かつては一日に数百万人が行き交った「世界で最も忙しい駅」は、今や巨大な「言語のシュレッダー」と化していた。
成城から環八を抜け、命からがら辿り着いた律と累が目にしたのは、都市という概念そのものが文字の奔流に押し潰される光景だった。
「……っ、ハァ……ハァ……。なんだよ、これ……」
累が、掠れた声で絶句した。
アルタ前の広場には、逃げ遅れた人々が折り重なっている。だが、そこにあるのは血の通った死体ではない。自分たちがSNSで、掲示板で、あるいは独り言で吐き散らしてきた「無責任な言葉」が、その主の肉体を食い破って溢れ出していた。
「死ね」「消えろ」「どうせ無理」「あいつが悪い」
そんな棘のような文字列が、肉を割って噴き出し、主の四肢を苗床にして、黒い蔦のように地面に根を張っている。
「……『言語の墓場』だ。……堂々の言っていた大規模回収が、ここまでの速度で進んでいるとはな……」
律は、壁に手を突き、吐き気を堪えながら呟いた。
眼鏡のない視界は、もはや正常な像を一つも結んでいない。空気中に漂うノイズは、一つ一つが「意味」を持って律の脳を殴りつける。ネット上で無責任に拡散された罵詈雑言、誰かを死に追いやった匿名の中傷……それらが物理的な「重さ」を伴った黒い煤となり、律の肺を焦がしていた。
「律、顔色が真っ白だぞ! これ以上ここにいたら、オマエの器が先に砕けちまう!」
累が必死に律を支える。累自身の体も、律へのエネルギー譲渡のせいで、指先が時折ノイズのように明滅していた。二人は、互いの崩壊を補い合う、歪なシーソーのような状態で立ち尽くしている。
その時、広場の中心で積み上がっていた「言葉の死体」が、不気味な音を立てて蠢き始めた。
主を失った無数の「悪意」が、互いの文字列を絡み合わせ、一つの巨大な群体を形成していく。それは、数千人分の「匿名の中傷」が縒り合わさった、高さ五メートルを超える肉塊の塔――【言語の獣】だった。
獣には顔がない。代わりに、数千のスマートフォンの画面が肉に埋め込まれ、そこには現在進行形で誰かを罵倒するログが、超高速でスクロールされ続けている。
『……ターゲット……確認。……論理的矛盾……抹消……抹消……』
獣が咆哮した。それは声ではなく、数万人の罵倒が重なり合った「不協和音」の衝撃波だった。律の耳から血が滴り、周囲のビルのガラスが一斉に粉砕される。
「……あ、が……っ!」
律は耳を塞いで蹲った。脳内に、直接何千人分もの「呪いの言葉」が流れ込んでくる。
「お前は偽物だ」「不法占拠者」「さっさと消えろ」「誰も愛していない」
それは、律が心の奥底に隠していた罪悪感を、この世で最も汚い言葉で増幅させたものだった。律の首筋から這い上がってきた黒い痣が、その精神的侵食に反応して激しく発火し、肉を内側から焼き切り始める。
「律! 聞くな! そんなの、ただのゴミの集まりだろ!」
累が獣に向かって飛びかかった。
少年の姿を捨て、黄金の神威を纏ったワニの幻影が、獣の肉塊に食らいつく。だが、噛み砕いても、引き裂いても、獣はすぐに新しい「言葉のゴミ」を吸収して再生した。
獣を構成しているのは、実体のない「情報の濁流」だ。物理的な攻撃は、水面を殴るようにして虚しく散っていく。
『……死ね。……消えろ。……お前の存在は……無意味だ……』
獣から伸びた文字の触手が、累の体に巻き付いた。
「……っ、うああああ!」
累が悲鳴を上げる。黄金の光が、黒い文字列に侵食され、汚泥のような色に染まっていく。文字の触手は累の生命エネルギーを直接奪い、それを「呪い」へと変換して律へとフィードバックさせているのだ。
律は、ぼやける視界の中で、累が苦しむ姿を見た。
俺を助けるために、こいつは……。
律の心臓が、怒りと自責で激しく脈打つ。
俺が解呪師を気取っていたのは、世界を救うためじゃない。ただ、自分の不法な存在を、論理という防壁で守りたかっただけだ。だが、その防壁はもう壊れた。
ならば――。
「……累、離れろ……!」
律が、血を吐きながら叫んだ。
律は、あえて自分を縛っていた「解呪師」としてのプライドを捨てた。論理で敵を解体するのではない。自分自身が、この世界の「矛盾」そのものとして、あのゴミの塊を飲み込んでやる。
律はよろめきながら立ち上がり、獣の正面へと歩み出た。
眼鏡のない瞳が、真っ赤に染まる。
「……お前たちの言うことは、正しい。……俺は偽物だ。死体の脳を盗んだ泥棒だ。……だがなぁ……」
律の手が、獣の表面に触れる。
瞬時に、膨大な量の「呪いの言葉」が律の器へと流れ込み、肉体を破壊し始める。だが、律はその崩壊の痛みさえも燃料に変え、己の痣を暴走させた。
「……お前たちのその『ゴミ』には、重みが足りない。……匿名でしか語れない言葉に、……俺たちの『共生』を壊す力なんて、一分もありはしないんだよ!」
律の痣から、どす黒い文字の渦が逆流し始めた。
それは、律がこれまで解呪してきた数多の呪いの蓄積。そして、彼自身が抱える「不法占拠」という消えない大罪。
「純粋な悪意」という名の獣に対し、律は「重層的な罪」という名の毒を流し込んだ。
獣の体が、内側から激しく脈打ち、不規則な文字列を吐き出し始める。
論理的に正しく、かつ感情的に鋭利な「匿名の中傷」というシステムは、律が抱える「実体としての罪悪感」の重さに耐えきれず、文脈崩壊を起こし始めた。
「……ぐ、あああぁぁぁ!」
律の身体が、限界を超えてひび割れる。
ドォォォォン!
衝撃波とともに、獣が四散した。
新宿の街に、無数のスマートフォンの破片と、意味を失った文字の塵が降り注ぐ。
沈黙。
瓦礫の山の中で、律は累の手を握ったまま、死人のような顔で空を見上げていた。
獣は消えた。だが、街のあちこちからは、まだ「器」を回収される人々の絶叫が聞こえてくる。
「……律、大丈夫か? ……オイ、律!」
累が律の顔を覗き込む。
律の瞳は、もう何も映していないようだった。
痣は、彼の顔の半分を覆うほどに広がっている。
「……ゴミの重さが、……抜けないんだ、累……」
律はそう呟くと、糸が切れたように意識を失った。
新宿。かつての喧騒は消え、そこにあるのは、言葉という毒に犯された人々の墓場。
二人の本当の試練は、ここから加速していく。




