16 足を洗う
新品の服に袖を通す。パリッと仕上げられたシャツは広げれば柔らかく身体を覆い、頭からかぶったセーターはふんわりと暖かさを運ぶ。スラックスに足を通そうと片足を上げかけたところで、「あっ!?」とテオドゥーロが叫んだ。
「……人がズボン履こうとしてるタイミングで叫ぶのはなんでだよ」
「エリアス! おまえ! 靴! また! 履いてない!」
「なんで単語ずつ喋るんだよ」
あわあわと震えるテオドゥーロに「履いちゃっていい?」と声をかけ、今度こそスラックスに足を通す。
なんとなく自身を見下ろし、それからエリアスは向き直って両手を広げて見せた。
「新エリアス=ハーランド完成でーす。似合う?」
「似合う! かわいい! かわいいけど、俺また靴忘れてたの!? お前ずっと裸足でウロついてたわけ!?」
「うん」
「寒いじゃん冷たいじゃん信じらんねー! 言えよおおお!」
実際テオドゥーロの言うとおり、エリアスの足先は氷像のごとく冷たくなっていた。
指を曲げようとすると皮膚がぴりぴり痛み、関節は錆び固まった蝶番のようにきしむ。積もった汚れの上を歩き回った足裏は真っ黒になっていたが、エリアスは気にもとめずに両手で腹をさすっている。セーターが暖かくて嬉しいらしかった。
「テオ、ありがと。大事に着るわ」
そうエリアスが笑いかけると、テオドゥーロはきゅんと言葉に詰まる。チャラついた甘言も単純に照れるが、テオドゥーロはどうやらエリアスのたまに見せる純朴な顔に弱いらしい。
テオドゥーロが言う『かわいい』は、姿かたちが天使のようだという意味ではなく、『自分にとって愛おしい』ことを一番端的にまとめたものだ。
そして彼が何より愛しく思うのは生命力や気力と呼ばれるもの――命を奪われつつあってもなお止まらない心臓や諦めない瞳や、身内だけは助けてくれと命を繋ごうとする健気さ、命あるからこそ暖かい人の心や血肉。そんなようなものだった。
――エリアスは散々酷い目にあったのに、嬉しいとかありがとうとかまだそんな感情を持てるのか。すごいな、こいつ今、ちゃんと、まだ、『生きてる』んだ。
「……本当かわいい、エル」
「えーあんた変なやつだな。ありがと」
感傷にすら近い曖昧な心象を『かわいい』の一言にまとめたテオドゥーロに、軽口と受け取ったエリアスはにっこり笑って返した。
テオドゥーロは黒髪の頭を軽く撫でると、今度は首を締めはせず、エリアスに背を向けた状態で片膝をついた。エリアスが不思議そうに立ち尽くしているのを気配で察してか、テオドゥーロは顔だけ振り返って言う。
「背負うから。お風呂で足洗ってから靴履こう」
「え? ……ああ、うん」
「……言っとくけど、新しい靴下が汚れるとかそういうことじゃないからな」
「あ、そう?」
「そうってお前ー……」
当たり前じゃん、と言おうとして、テオドゥーロはほんの数刻前の自分を思い出して口をつぐんだ。
服を喜んで笑った顔だって確かに愛しいと感じたのに、そうではなく、別の欲望をぶつけた痕がエリアスの首にはしっかり残っている。気持ちが萎むのと一緒に視線が下がった。
押し黙ったまま自分を背負って立ち上がったテオドゥーロに、エリアスは後ろから声をかける。
「なあ、テオ。俺にとってあんたは充分優しいからな。言っとくけど」
「なに急に」
「別に? テオがそう言われたそうな顔してたからさ」
「してませんー。……俺別に優しくないよ。変なの。エリアス変なやつ」
「真似すんなよ」
「え、それお前が言う?」
どちらからともなくふっと笑う声が廊下に響く。
くだらない会話を続けながら回廊をくだって一階へ、地下へ。
エリアスがふらりと散歩した範囲は屋敷のほんの一部だったらしい。調度品は少なく古いが、装飾は緻密で、この広い邸宅内でもしっかり統一されている。煌びやかな印象こそ失われているが、どこを見ても十二分に『豪邸の室内』といった風格だった。
「この広さでテオ一人で、よくそこそこ綺麗に保ってるよな。うっすらホコリ被ってる程度でさ」
「屋敷ができた時から不朽の魔法がかかってんだ。ノルデンフェルト家は錬金術師の家系だから。つっても俺は身代わりだし血は入れられてるけど継いでるわけじゃないし、汚したら普通に掃除してるけどね」
汚したら――というのは、主に人を食べた後の血みどろになった部屋の話だ。エリアスが来てからはこっそり普通の掃除も頑張っているが、普段使わない範囲までは行き届いていなかった。
「……血入れられてんの?」
そしてエリアスの耳にも届かなかった。エリアスはノルデンフェルト家の話が嫌いらしい。明らかにトーンの下がったエリアスの声に、テオドゥーロはうーんと首をひねりながら答えた。
「確かそんなこと言われた気がするんだよなー。イェルド本人の血だかお父様かお母様の血だか忘れたけど、『イェルド=ノルデンフェルト』を名乗る以上正しい血統を身体に流す義務が云々」
「聞けば聞くほどムカつくわそいつら……。クソなのにそいつらがいなかったらテオと再会できなかったのもムカつく。感謝なんて絶対してやらないけど」
「エリアスはいっつも俺のためにムカついてくれんなあ。正直ちょっと嬉しいよ」
顔を見て笑うかわりに勢いをつけてエリアスを背負い直す。エリアスはむすっとしたままテオドゥーロの首筋に頭を預けた。
◆
そんなこんなで連れて行かれたのは、地下に広がる大浴場だった。
日の光が差さない場所であることを忘れるくらい明るく見えるのは、全体的に白みがかった大理石が使われているからだ。雪とはまた違うクリームがかった白に、淡く灯る暖色の照明。
神殿を模したような大小様々の内湯には一箇所だけ湯が張ってある。テオドゥーロ一人にホールのような大浴場は広すぎて、その一箇所しか使わないのだと言う。
テオドゥーロはひとつ横の空っぽの浴槽の端にタオルをひくと、エリアスを座らせた。
「ちょっと待ってね」
テオドゥーロはしっぽ髪をリボンで短くまとめると、腕まくりをし、ソックスをポイ捨てするとスラックスをまくって片膝をついた。
「え? マジ?」
「なにが?」
「あんたもしかして俺のこと女だと思ってる?」
自然な流れでエリアスのスラックスの裾をあげて片足をとったテオドゥーロに、エリアスは若干引き気味の声でたずねた。
弱者が押しつけられるものは大抵三つある。
暴力。食人衝動がそれだとすると今ではない。
嘲笑。テオドゥーロはエリアスを嗤わない。
消去法でいけば……あとは足を開くしかない。甲斐甲斐しく甘やかされ可愛がられるときなどはほぼ確実にそういった奉仕を求められてきたのだが――
——テオドゥーロが? 別に、なんでもするけど。
エリアスは文字通りなんでもする準備を心内で進めるが、本当は『そんなはずはない』と分かっていた。案の定テオドゥーロは冗談めかした口調で顔を上げる。
「え、エリアスが女? には見えないけど……あ、跪いて足触るのがお姫様扱いってこと? んだよ我慢しろよイケメンはワガママだなー」
屈託なく笑ったあと、なんでもないようにテオドゥーロは手元に視線を戻す。だからこそエリアスは曖昧に笑い返したまま頬を引きつらせた。
妙にぞわつく背筋を嫌な汗が伝う。善意なのだ、目の前の男の甘ったるい行動は。信用させてあとで突き落としてやろうだとか、立ち直れない恥をかかせて心を折ろうだとか、そういった裏の一切ない、純粋な。
――純粋な善意って何? 見返りを求めないなんてあり得なくない?
テオドゥーロが握るシャワーヘッドから温水が流れ出る。清潔なお湯にも関わらず、エリアスにはぬるいヘドロのような液体に感じられた。足が溶けて骨だけにならないか、あるいは無数の虫が沸いて足を這い上がってこないかと恐ろしかった。
「つっめたい足だなあおい! 足先冷えるとしんどいぞー、雪国ナメんなよお前ー。靴の用意忘れてた俺が言うことじゃないけど。あってかお湯熱くない? 平気?」
磨き抜かれた銅製のシャワーヘッドは透明なガラスの取手に繋がっていて、その中に水がたゆたっているのが見える。ホースのようなものは繋がっていない。魔法道具らしいそれはテオドゥーロの機械の翼の一部だったのを、エリアスは見ていた。
お前の翼シャワーヘッドまで入ってんのかよ、なんでもありだな、と軽口を叩いて笑いたかった。それなのに、顎を引いて頷くのが精一杯だった。
「うん、平気」と呟いたつもりの声がちゃんと音になったかわからないが、テオドゥーロは「よかったあ」と柔らかい声を出している。エリアスはつま先に視線を落としたまま息を殺していた。
流れる水の音と、立ちのぼる湯気。テオドゥーロの手とタオルの感覚、落とした視線に映る自分の足と、流れるあたたかい湯。
水が黒い。足の指の間を滑る水の感触が、這い回る無数の百足に感じて仕方ない。
――見返り? 見返りって表現おかしくない? 俺が交換できる価値を持ってるみたいだ。搾取されるだけの分際で……。
泡立てられたタオルが足裏に触れたとき、小さくつま先が跳ねた。テオドゥーロは手を止めて顔を上げる。
「くすぐったかった?」
「ん、大丈夫」
「ちょっとだけ我慢してな」
エリアスが僅かにぎこちなくと微笑むとテオドゥーロは笑い返して、それから何事もなかったように手元に視線を落とした。うまくごまかせたらしい。
向けられる笑顔がなくなると、エリアスはまた過去に絡めとられる。
タオルの隙間にナイフが隠れていて、足裏から貫かれたりはしないか。両足に刃物が刺さったまま歩けなどと無茶なことを言われて、できなければ頭を潰されたりしないだろうか。
足首を触られると体が震える。そのまま引きずられて運ばれるのか。意識があると怯えるからと、朦朧とするまで殴打された後の話か。逆さ吊りに晒されるのか。そうでなかったら、目も当てられないような下品な格好で縛りつけられるのか。あるいは足首ごと落とされて、逃げ出せなければ立ち上がれもしないようにされるのか。
体の一部を削ぎ落とされたり内臓を内側からえぐられれば、声はあがるし体は痙攣するし思うように動けなくなる。それのなにが面白いのか、なにが気に障るのか、自分のどこが悪くて誰になんの迷惑をかけたのか、エリアスには全くわからなかった。
いくら泣いても謝っても誰も助けてくれない。
それでもほんの少しでも何かを許してもらえるのなら、振りおろすその手をたった一度でも止めてもらえるのなら――どれほど惨めだろうと必死に懇願し続け、何もかも差し出して許しを乞うしかなかった。
「……ごめんなさい……」
半無意識的に口から漏れる。ぽろっと落ちただけのそれは、細く水を垂らすように連なっていった。
「ゆるしてください。申し訳ありません……生まれてきてごめんなさい。お願いしますゆるしてください……。なんでもします。なんでもしますから死ねないことゆるしてください、ごめんなさい。生まれてきてすみません。本当に反省してます。生きていてすみませ……」
「エリアスってば」
不意にぐんにゃりと視界が歪んだ。
ぼやけた世界は徐々に焦点を見つけてクリアになり、心配そうな顔をした幼馴染の顔が映る。
「エリアス聞こえる? 俺、テオだよ。俺のことわかる?」
言いながら、何かなめらかなもので頬を撫でられる。
涙を拭われているのだと――自分がいつの間にか泣いていたのだと理解すると、エリアスは静かに目を細めた。