宰相宮・12
ユーノが場所の手配の為に、そしてライラが運動のできる服装の入手の為に出ていくと、私は一人きりになったが、それでももう退屈は感じなかった。我ながら現金なものだ。
気が早いと思いつつ、いそいそと昨日のマットを広げ、入念に柔軟をする。こんなところで怪我でもしたら洒落にならない。
ゆっくりと筋を伸ばしていると身体がゆっくりと温まってじんわりと心地良さが広がる。長く息を吐いて前屈から身を起こした時、荷物を抱えたライラが戻ってきた。
意外に早かったと思いつつ、声を掛ける。
「おかえりなさぁい」
「只今戻りました」
答えたものの、ライラはそのまま入って来ない。困ったように眉尻を下げつつ、その場で訊いてきた。
「キーネに会いたいという人がいて、今一緒に来ているのですが、通してもいいでしょうか?」
「私に? 私は構わないけど、でも――」
私じゃなくて宰相が構うんじゃないかと続けようとした私の言葉を待たず、開かれたままの扉から大柄な女性が入ってきた。
日に焼けてそばかすの浮いた顔、首の後ろで簡単に括られた焦げ茶の髪。あっさりしたシャツとズボンに包まれたピシリと背筋の伸びた身体。
「失礼します」
低めの声と硬めの口調も合わせて、彼女が騎士とか兵士とか呼ばれる職業に就いていることが察せられる。歳は私やライラより少し上だろうか。
「こんにちは。初めまして」
どういう態度を取ったらいいのか分からなかったので、とりあえず立ち上がり無難な挨拶だけを口にして、頭を下げる。
この西洋風の世界でお辞儀が通用するとは思えないまま、それでもその他の挨拶が思いつかなかったので自分の習慣に従ったけれど、意外なことに相手もきっちりと綺麗なお辞儀を返してきた。
「突然お邪魔をして申し訳ありません。近衛騎士団所属、マリアベル・ドゥーズと申します」
近衛騎士っていうのはユーノの護衛ってことだよね。女性の兵士がいるっていうのはさっき聞いたけど、王子さまの護衛にも女の人がいるとは思わなかった。
それはともかく。
「私は構わないんですけど、でもここは近づかないように言われているのでは……」
「ええ、そういうことになってますね」
マリアベルさんは拍子抜けするほどあっさりと頷いた。
「だったら、あなたが宰相に怒られたりとか、それでユ――殿下の立場が悪くなったりとか、するんじゃないですか?」
ユーノと言いかけて慌てて殿下と言い直す。飄々とした印象の人だけど、近衛ってことはユーノを敬わないと怒り出すかもしれない。
「ご心配には及びません。殿下の了承は得ておりますし、私のすることで殿下のお立場がどうということはここでは起きません。そもそも私が宰相に叱られるのは珍しくもありませんから」
「珍しくない?」
近衛の人を宰相が叱るって、そんなによくあることとは思えないのだけれど。
鸚鵡返しに尋ねた言葉に、マリアベルさんはにこりと笑って頷いた。
「はい、宰相は私の父です。私は小さな頃から大層お転婆でしたのでさんざん叱られてきました」
「父って、宰相がお父さん!?」
「はい、そうです」
悪戯が成功した子供のような笑顔をまじまじと見たけれど、そう言われれば似てなくもないかな、程度のことしかわからない。宰相の顔をそんなにじっくり見たわけでもないから、比べようがないというのが正直なところだ。
助けを求めるようにライラを見ると、私の気持ちが伝わったようで、苦笑気味の笑顔でこくりと頷いた。
「本当なんだ」
「はい。驚かせてすみません。実は今キーネが身につけている下着は、マリアベルさまのために用意されていた中から未使用のものを拝借したんです」
確かにマリアベルさんは大柄で、私と似たような体つきをしている。
「昨日は予備のものでしたし、衣裳係の手配でしたから特にマリアベルさまに断りは入れていなかったのですが、今回は一式全部ですから、ご本人にお伝えしないわけにはいかず……」
ライラが困ったように語尾を濁した。
「噂の『竜を連れた魔法使い』が女性で、しかも稀人だなんて、これはもう直接会ってみるしかないじゃないか」
困惑気味のライラとは対照的に、マリアベルさんはおおらかに言い放つ。
「そんな噂になっているんですか?」
「ああ。火事を起こす悪い魔物か、はたまた恵みの雨の御使いか、いろんな噂が飛び交ってる」
やれやれ。そんなことを言われているのか。
「で、本当のところはどうなんだ?」
単刀直入な問いにきっぱりと答える。
「私はただの異世界人です。特殊な能力は持っていません」
「ふうん」
マリアベルさんは私の顔を値踏みするようにじっと見た後、にこりと笑って肩を竦めた。
「何をもって特殊というかはわからないはずだけどね。とはいえ、私はここに上げ足を取るために来たんじゃないんだ」
言ってマリアベルさんは腕に抱えていた袋を示した。
「服を貸すのは構わないが、着方がわからないだろう?」
言われてライラのほうを見る。
「騎士の服って、そんなに違うんですか?」
首を傾げたライラに、マリアベルさんは簡単に答えた。
「実際に見てみればいい。着替えはあっちでするのかな」
「は、はい」
先に立って大股で歩き始めたマリアベルさんの後ろを、私とライラは急いで追いかけた。
初対面の人の前で裸になるのは抵抗があったけれど、この場合は仕方がない。
幸い下半身の下着は今着ているものそのままでよかった。上半身は一旦脱いで、ブラというよりベストとかチュニックとか呼びたいような袖なしの下着を身につける。正面と脇の紐を調節すると胸がしっかりと安定した。先程まで着ていた下着も色気よりも実用性を取ったという印象だったが、これはさらに実用性を追求しているようだ。
この下着の上に、前ボタンのシャツを着る。下半身はズボン。シャツもズボンも厚手でごわごわした布だが、ゆったりしているので動きの邪魔にはならない。手首のカフス部分はかなり長くなっていて、紐で編むように止める。
「動いているときに解けないように、ここはしっかり縛らないと」
言いながらマリアベルさんが両腕とも留めてくれた。編み方、結び方にコツがあるらしい。
伸縮性のある靴下を履きその上に重ねるようにズボンの膝下をきゅっと締める。肘も膝もゆったりと余裕を持たせて動き易くし、その先を絞ることで邪魔にならないようにしているようだ。
靴は足首まであるショートブーツ。走るには少々ゴツいが困るほどではない。練兵場がどんなところかは分からないが、競技場のトラックや舗装道路のような平らな場所ではないはずだから、華奢な靴はよりはがっちりしたものの方がいい。
しかも、持って驚いたことに、見た目よりもこの靴は軽い。普段がしっかりした革靴なのでその延長で想像していたのだが、どちらかというとスニーカーとか運動靴という括りに入るものだ。脇などは革でできているが、底や留め具の部分はプラスチックのような弾力のある素材が使われている。
何でできているのか尋ねたところ、樹液を固めたものらしい。比較的高価なので普段使いの靴に用いることはあまりないが、騎士には必要なものとされているそうだ。ちなみに女性騎士用の下着にも少量ながら使われていて、それでバストの安定がいいらしい。
マリアベルさんは豪快に見えて細やかな気遣いのできる人で、靴は同僚からも借りて複数持ってきてくれていた。二人で抱えるほどの荷物になった原因はここにもあったらしい。
いくつか足を入れてみて、しっくり馴染んだものを選んで本格的に紐で縛る。こちらもまた独特の縛り方があるらしく、マリアベルさんが丁寧に結んでくれた。
「確かに、これは私ではできませんでしたね」
鮮やかな手つきで紐を扱う手元を見ながら、納得したように言うライラが言った。