05 世界に広がる琥珀色
……それは私の、エルミーヌ・エーレンファルトの結婚式の日取りが決まったある日のこと。祖父の戦友や、世話になった商会、そして親族に招待状を送ってから日にちが過ぎたある日のこと。
私は、お爺様に部屋へ呼び出された。
「お前の父は……儂の息子は来ない」
そして、祖父の部屋に入るなり、その事実を伝えられた。
……手紙は出したのだ。王都に居る父と母に向けて、正式に招待状は送ったのだ。
ただ、返事は無かった。だから薄々気付いていた。
私は――親に見守られることなく、結婚式を迎えるのだと。
「あれは儂を恥じておる。民と口を利く父を、身分を軽んじる者だと思い育ってな……儂も悪かったのだ。戦で長い間、家を空けて……帰った後の儂は、息子にとって別人だったのだろうよ」
祖父はぶっきらぼうに、だけど同時に寂しそうに、椅子に座ったままぽつりと呟く。
手には杖が今も握られている……私がこの地に来てから随分時が経った。最近の祖父は、杖をついて歩く事すら苦しい。足腰が大分弱ってきている……それ以上に心も、弱っている。
気の所為などではない筈だ。だって祖父の顔はあんなにも――苦痛に満ちているのだから。
「結婚式で、娘の手を引く役目は父親のものだ。だが来ないのなら仕方がない。この爺がお前の手を引くことになる……杖のついた老人で我慢してくれ」
「お爺様。我慢などと、そんなことは決して――」
……言いかけた私は、その口を閉ざす。
何も言えない。こんな祖父の顔は初めて見る。
どうしてそんなに、悲観したような顔をされるのですか?
「……お前が、この領地に来た日のことを覚えているか?」
「はい。覚えております」
忘れない。忘れられる筈もない。
あの日は寒かった。冬の始まり……地面には薄っすら雪が積もっていて、王都から追放されたばかりの私には身が凍る程の寒さを感じた。
そして祖父と対面して、私は。
「儂はあの時、お前を叱ったな。皆の前で未熟者だと叱責した」
そうだ。私は叱られた。貴族としての心構えが出来ていなかった小娘は、歴戦の老将軍に厳しく叱咤された。
けど、あれは激励の類だ。あの日の言葉があったから、今の私がある。小娘だった私を、真っ直ぐ見据えて、生き方を示してくださったから……私は勝利を手にすることが出来た。
抱いている想いは感謝しかなく、私にとって祖父は――。
「儂はな……あの日の夜、部屋で一人泣いた」
祖父のあまりに弱々しい吐露に、言葉を失ってしまう。
一度も見た事のない、一度も見せた事のない、偉大な祖父の――心の内。
「儂の孫娘が、あんなにも華奢な娘が荷ひとつで、侍女の一人さえ付けられずに追い出され、寒空の下で立っておった……そんなお前を、儂は貴族として叱らねばならなんだ」
掠れた声で、祖父は語る。
震える声で、祖父は俯く。
そこに居るのは護国の将軍などではなく……私の……私の――。
「そして……成長したお前の晴れ姿を、親は見にすら来ない。祝福されるべき孫娘の手を、こんな爺が引かねばならん」
祖父は、己の節くれ立った手で自らの顔を覆う。
手の隙間から流れ出る水滴。その名を知っている筈なのに、想像さえしたことがなかったから……祖父の頬を伝うものが何なのか、すぐに判断できなかった。
「こんな……こんな馬鹿な話があるか……っ! こんな惨い話があるか……っ!」
……祖父が泣いている。山脈のように雄々しくて、城壁のように強固な祖父が、涙を流している。自分のためではなく、こんな私のために……親が来ない現実に悲しむことすら出来ない、こんな私の代わりに泣いてくれている。
――自然と、足が動いた。
「お爺様」
祖父に駆け寄り、その手を取る。
老いて、しわくちゃで、枯れ木のようになってしまった祖父の手。自分の手で触れた瞬間、私の頬にも「何か」が伝った。目から止めどなく、ぽろぽろと零れ落ちていく。
――ああ、私は親に愛されなかったけれど。
――愛してくれる家族は此処に居たんだ。
「ありがとう御座います。こんなに嬉しいことは他にありません」
ならば、私は幸せだ。父と母に疎まれて祝福されないのだとしても……この身は幸福だ。
あなたは私に厳しさと愛情を下さいました。蔑むのではなく、目を逸らすのでもなく、エルミーヌ・エーレンファルトの考えを否定せず――私に貴族の生き様を教えてくれました。
そんなあなたが泣いてくれるのなら。
そんなあなたに祝ってもらえるのなら。
そんなお爺様に手を引いて頂けるのなら。
「――それに勝る幸せは、この世にありません」
そして私と祖父は、二人一緒に笑った。
そして……二人一緒に泣いた。
◇◇◇
結婚式の前日、私は明日夫になる人と二人、屋敷の居間で紅茶を楽しんでいた。
茶の中に入れるものは勿論、我が領地の宝『フロストマルクの雫』。この蜜を垂らすだけで、紅茶にまろやかな甘みが広がり味わい深くなる。葉の種類にもよるけれど……香ばしさも加わって、私好みの味になるのだ。
ちなみに、私の夫になる――ロランドも同じ感想。
彼は私の隣に腰掛けて『雫』入りの紅茶を飲み……ふと、懐かしむように口を開く。
「不思議です。騎士爵である私が、エルミーヌ様と婚姻を結ぶなんて……今でも信じられません。夢を見ているのではと、毎朝頬を抓っています」
「あら? ロランドは私では不足と言いたいのかしら?」
「まさか。貴女様で不足ならば、この世に満足できる伴侶など存在しないでしょう」
「……」
澄ました顔で、言ってくれる。
フロストマルクに来てから長い付き合いだけれども、この人は平然と人が驚くようなことを口に出す。いや、口だけじゃなくて行動もか。私自身が望んだこととはいえ、令嬢がぶっ倒れるまで走り込ませたり、容赦なく剣の鍛錬をさせたり……ロランドに打ち込まれた木剣の数は、数え切れないほどだ。
うん。ロランドの剣に比べればその辺の野盗なんて、大して怖くない。刃物を出せば女が怯えると考えている甘っちょろい賊を、私自身何度も叩きのめして――。
……そうだ。『フロストマルクの雫』の名が知れ渡ってから、賊の数も増えた。兵士も増員して守りは固めているけれど……この地で、特にシロップ作りの時期には気を抜くことが出来なくなった。
今こそ北方には、盤石の備えが必要とされている。
「ロランド。お爺様の言った言葉を覚えている? この地には後継が必要だと……お爺様の跡を「正式」に継ぐ者がいなければ、王都から代官がやって来ることになると」
「勿論。覚えておりますとも。……その代官が「まとも」な者である可能性は低いとも」
ここは結局のところ左遷地だ。メープルシロップのお陰で徐々に栄えてきてはいるけれど、その本質はまだ変わらない。名声を得ても、厳しい気候までは変わりようがないから……この地に来る者は、王都で何かしらの「醜態」を犯している可能性がある。
いえ、そうではないにしても……この地の利益を狙う輩が来ないとは限らない。
それこそ――甘い蜜に群がる虫のように。
「この地は全部――お爺様が守ってきた土地よ。戦が終わってから三十年、守り続けてきたお爺様の領地。不届き者に譲る訳にはいかない」
だからこそ祖父は、私を次期領主に任命した。その旨は、既に王家にも伝えられて了承を得ている。……メープルシロップを、特に気に入った王妃様と姫様のお陰でもあるらしい。これほどの甘味を生み出せる者ならば、領主としての手腕も期待できる、と。
……「心付け」として献上した、最高品質の「黄金」は実に効果的だったようだ。
独りで正義を謳っていても誰一人守れない。自分自身の身さえ守れない。
だから味方を得た。この国で、貴族が逆らえない絶対の権力者を。
真正面から堂々と……琥珀を超えた、黄金の蜜を以て。
……でも、こういう策略じみたことは、やはり私の趣味ではない。あれから月日が流れて、ある程度こなせるようになったけど……それでもまだ、甘さが残る。
だから、傍で誰かに支えて欲しい。欲に溺れたり、弱さに傾きそうな時、隣で支えてくれる信頼できる誰かに。
「――私の隣に居てくれる人は、辛い時にハンカチを差し出してくれるような紳士がいいわ」
隣に座る、黒髪の騎士の顔を見上げた。
初めて会った時と変わらない、精悍な顔。苦汁を飲んで、醜さや愚かさを知って……それでもなお清くあろうとする人。
こんな人に、生涯を支えてもらいたい。
「――男は懸命に前を向く健気な女性を見ると、手を差し出さずにはいられないのです」
欠点があるとすれば、歯の浮くような台詞を平然と言う部分か。
本当にもう……ロランドはいつもこうだ。私の欲しい言葉を言ってくる。私の願う行動を取ってくる。綺麗な黒瞳に私を映して――磨き抜かれた剣のような逞しさで、私の手を握る。
「ロランド。私と一緒に、この地を守ってください」
「――謹んで拝命いたします」
――そして明くる日。
私はロランドと夫婦になり……フロストマルクの名を、正式に継いだ。
でも、それは戦いの終わりじゃない。貴族としての戦いに、終わりなんて無い。
祖父は言った。生涯が学びであり、終着なんて無いのだと。貴族は民と領地を守るため、生涯戦い続けなければならないのだと。
結構――望むところだ。祖父が愛したこの地を、私とロランドが生涯をかけて守り通す。
この道の途中で止まる気なんて無い。常に私は、勝利を目指す。
――北の大地フロストマルク。
冬になれば雪が降り積もり、厳しい気候で苦しめる辺境の地。
だけどそこには『雫』が落ちる。ぽたり、ぽたりと『雫』が垂れる。
雪解けの季節に、春の初めに、透明な滴が桶を満たす。
心を蕩けさせる甘味の蜜。
その名はやがて、春の代名詞となり――世界中に琥珀色を広めていくのだった。
これにて完結です。




