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その10


 すもも組のメンバーは、さっそくエコ体験コーナーとなるプールサイドへと向かった。有川と環境大臣はすでに来ており、アナウンサーの袴田と打ち合わせをしている。

 プールのフェンスの外、2メートルぐらいの位置にロープが張られて、一般人はその外側から覗き込むようにプールを見ていた。プールサイドへの入場時間までまだ10分ほどある。


 充はいつも通り、行動場所に到着すると、皆より一足先に周囲の様子を確認しに回る。

「ひめ。かいじょうには、いっぱいおりますぞ」

「わるいにんじゃ、いたの?」紗由が身を乗り出す。

「いえ。びゅーちほーな、おねーさんが」

「ちょっと! ナンパなら、おしごとおわってからにしなさいよ!」真里菜が怒る。

「それから、わるいにんじゃを、みはるものどもが、いっぱい」

「で、わるいにんじゃはどこ? なんか、ぜんぜん、わるいにおいがしないんだよねえ」歩み寄る真里菜。

「それが…それらしきやつは、あっちに行ってしまいました」

「あっち?」


 充の視線の先を一斉に見る一同。

「あっちって、まえのばしょ?」首をかしげる真里菜。

「ばしょがかわったの、しらないのかなあ。かなこ、おしえてきたほうがいい?」

「うーん。おしえなくていいよ、かなこちゃん。ちゃんとアナウンスきかないのが、わるいんだから」

「わるいにんじゃは、あたまと、みみも、わるいでござる」

「あはは! おもしろいね、充くん。あはは!」

「これじゃあ、たいじできないよ」

 ぷーっと膨れる真里菜に紗由が声をひそめて言う。


「こっちでやってるって、きがついたら、いそいでやってくるよ、きっと。だから、ゆだんしちゃだめ。みんなもね」

「はい!」奏子がはっきり返事をする。

「ちゃんとブレスレット、つけてる?」

 皆を見回す紗由に、腕を差し出す一同。その腕には、それぞれの石が取り付けられたブレスレットがはめられている。

「恭介くん。ひだりの手だよ」

「あ…まちがえた」そそくさとはめ直す恭介。「あ!…ぜんぜん、ちがう」


「でしょう?」ニッコリ笑う紗由。「こわいことになったときはね、石といっしょに“ふうじろ!”って、おもうんだよ」

「う、うん」

「いっかいで、だめなときは、とうきょうにいる、ふたごちゃんに“たすけて!”っておねがいすれば、だいじょうぶ」

「わ、わかった…」

「よし。じゃあ、みんな、がんばろうね!」

「おーっ!」

 5人は円形になって右手のこぶしを振り上げ、そのこぶしを頭の上でタッチさせると、準備運動に取り掛かった。


  *  *  *


 プールサイドの、紗由たちがいる反対側の辺りには、係員が足早にテーブルとよしずのようなものを運び込み、簡易席をセッティングし始めた。ハイビスカスの花を正面両サイドに飾り立て、マイクにも同様に赤いハイビスカスが添えられている。

 放送席の後ろにあるテーブルには、横一列にハイビスカスのプランターが置かれており、放送席で打ち合わせている有川と袴田は、まるで花の中にいるかのようだ。


 そしてその席には、しばらくすると保が現れた。

「袴田さん、遅くなりました」

「ああ、総理! さあ、どうぞこちらへ」

 袴田がすばやく立ち上がり、保を席へ案内すると、入場を待っている観客から、その姿が一瞬見えたのか、ざわめきが起こった。

「ありがとうございます。袴田さん。先月の記念式典ではお世話になりました」

「いえいえ、こちらこそ大変お世話になりまして、ありがとうございました。本日はイベントへのご参加ありがとうございます。一瞬お姿が見えただけで、観客が騒がしくなってきましたよ。さすがの人気ですね」

「いやいや、皆さん、想定の範囲外というのがお好きなんですよ」微笑む保。


「今回は手品をご披露くださるとか…」

「総理は昔から手先が器用でしてね」傍らで有川が笑う。

「実は…そのことなんですが、アシスタントの到着がちょっと遅れておりまして、手品は後のほうにさせてもらえないかと。エコプールの紹介と、そこで子どもたちが使う水泳用遊具をメインという形で構成していただいて。ご挨拶は最初にさせていただきますが」

「そうですか…では、係の者たちに連絡を。調整いたします」


「すみませんね。こちらの都合で飛び入りさせてもらうのに、わがまま言いまして。その代わりと言っては何ですが、孫たちが使う遊具も、エコ仕様の開発中試作品を用意させました。おそらくテレビ初公開ですので」

「はい。承知しました。まだ観客に周知しておりませんので、ご心配なく、どうぞ」

 袴田は無線機を取り出すと、担当部署への指示を始めた。


「おい、西園寺。何だって出番を延ばしたんだ。練習不足か?」からかう有川。

「まあ、そんなところだ」

「アシスタントって誰だい?」

「一条くんだよ」

「賢児くんの結婚式でも、女性陣にすごい人気だったな。プロをアシスタントにするとは恐れ入ったよ、総理」

「売れっ子を従えるのはひと苦労だよ。別の仕事が長引いているようだ」

「そうか。まあ、けっこう面白いショーになりそうだな。楽しみだ」


「インバーターという二人組も来るぞ」

「あのアーミールックで出てくる人気マジシャンか? 恭介もファンだよ。それはまた、ずいぶんと大盤振る舞いじゃないか」

「彼ら、誠くんの弟子なんだ。特別サービスってところかな。それに彼らは手品の後に、うんちくを言うだろう? エコうんちくをしてもらおうと思ってな。この手のものは、大人より子どもに楽しんでもらわないと」

「そうだな。子どもと言えば、紗由ちゃんたちにも、この後、頑張ってもらわないとな」

「ああ。今回成功するかどうかは、彼女らにかかってる」

 保は一瞬険しい表情になり空を見上げたが、袴田の声で、いつもの笑顔に戻った。


  *  *  *


 保の姿を見つけた観客たちが騒ぎ出すと、プールサイドで女性インストラクターから使う予定の遊具の説明を受けていた周子たち保護者も、説明を待って少し離れたところにいた紗由たちも、騒ぎ声が気になってしかがたない様子だった。


「どうもありがとうございました、先生」

 周子が頭を下げるが、目線は騒ぎ声の方向に向いている。

「いいえ。お子さんたちには、別の者が全員分お持ちしたところで、また個別に説明させてもらいますので、少しお待ちください」

 そう言って下がるインストラクターもまた、目線は騒ぎの先にあり、傍らの夕紀菜がくすりと笑う。

「何かと思ったら、やっぱりそうね。保おじさまだわ」夕紀菜が響子にささやいた。

「どちらに行かれても、人気でいらっしゃいますよね」微笑む崇子。


「でも、沖縄での人気は、何と言っても有川先生ですわ」

 周子が言うと、崇子はうれしそうに会釈した。

「空港前の歓迎横断幕もすごかったですよね」疾人が言う。

「女子高生が“建ちゃーん!”て声を掛けていたのには、さすがにびっくりしましたけど」

 響子が笑うと、夕紀菜がすかさず話に割り込む。

「あんず組には、“けんぞちゃん”て呼んでる子もいるわよ。小宮山前総理の親戚筋」

「知らなかったわ」目を丸くする響子。

「さすがに保先生を“たもつちゃん”とは呼んでないようだけどね」

「そんなの、世界広しといえども、華織おばさまだけだよなあ」笑う疾人。

「でも、あの子たち、時々真似してるわよね」

 夕紀菜が紗由たちのほうを見ると、5人組は5人組で、保のほうを気にしていた。


「やっぱり、すごいにんきだね、たもつせんせい」恭介が小さい声で言う。

「やっぱり、じいじせんせいに、うちのかいしゃのかわいいみずぎ、きてもらえばよかった…」真里菜が悔しそうに言う。

「じゃあ、ちょっと行ってくるね」紗由がスタスタと保のほうに歩き出した。


「あ。行っちゃった…」

 真里菜が充の腕をひじで押す。“姫をガードしろ”という合図だ。そっと歩き出す充。

「ねえ。さゆちゃん、どうして行っちゃったの?」不思議そうな恭介。

「きっと、さくせんです」奏子が答える。

「さゆちゃんはね、さくせんをするか、おやつたべるか、しょうたくんスキスキか、どれかなの」なぜか自慢気に言う真里菜。

 恭介は、ふうんと言いながら、保に抱きついている紗由を遠目に眺める。

「さくせんて、てきにするんじゃないの? なかまにも、するんだ…」

「そういうこともあるの! もう、なかまのくせに、いいかげん、わかりなさいよ」

「なんだよ!」

 恭介はふくれっつらで真里菜に言うが、仲間だと認定されたことが少しうれしく、くるりと背を向けると、プールの水を覗き込み、そこに映る自分に向かって、にっこり笑った。


  *  *  *


「こら、紗由。じいじは打ち合わせ中なんだよ。…すみません、行儀が悪くて」

 保は、駆け寄ってきて抱きつく紗由に相好を崩しながらも、袴田の手前、頭を下げた。紗由は保に言われると、素直に保から手を離し、袴田のほうへ向き直る。

「おしごとのじゃまして、ごめんなさい。じいじをよろしくおねがいします!」

「はい」思わず即答する袴田。「いやあ、本当に可愛くて賢いお嬢さんですねえ」

「じいじぃ。さゆ、ほめられちゃったよぉ」

 可愛く首を傾ける紗由の様子に、袴田は仕事も忘れてニコニコ顔になる。

「よかったなあ、紗由」紗由の頬をなでる保。


「あ! マイクにおはながついてる!」

 紗由は、マイクのハイビスカスを斜めから覗き込むと、両手でふんわりと花を包み込んだ。

「こっちも、おはなだ!」放送席を覆うよしずの両側に付いているハイビスカスを、順番に眺めに行く紗由。

「こら、紗由。いい子にしてなさい」

 保が言うと、紗由は保のひざに走りよって来た。

「じいじ、しってる? ハイビスカスのおはなはね、おきなわだと“あかばな”って言うんだよ。さゆ、おべんきょうしてきたよ」

「ほお。そうか、偉いな、紗由」

「すごいですねえ、紗由ちゃん」袴田が感心する。


「紗由ちゃんは、みんなのキャプテンだから、お勉強もしっかりしてるんだね」紗由の頭を撫でる有川。

「はい!」

 紗由が元気に返事をすると、有川は丁度いいとばかりに言葉を続けた。

「そうだ、紗由ちゃん。じいじの手品は、さゆちゃんたちの後にやることになったんだ。だから紗由ちゃんたち、先に頑張っておくれ」

「あれえ…じいじ、やりかた、わかんなくなっちゃったの? おじさま、じいじをてつだってあげて」

 心配そうに言う紗由に、保は笑顔で答えた。

「いや。お手伝いなら誠くんがしてくれるから大丈夫だよ。でも、ちょっとお仕事が忙しくて、まだ来られないんだよ。だから、紗由たちが先に頼むよ」


「おにいさん、いそがしいからねえ。おでしに、いろいろおしえないと、いけないし」

「そうなんだよ。今頃きっと、本番に向けて準備中だよ」

 そう言って静かに笑う保の横顔を、有川がじっと見つめる。

「じゃあ、さゆがさきに、やっておくね」

 紗由は保に向かって笑うと、有川と袴田にぺこりと頭を下げ、すもも組メンバーたちのところへと走っていった。


  *  *  *


 東京の賢児一家は、和江に支度してもらったプールに続く客間のサンルームで、のんびりと南国気分を味わっていた。20畳近くあるサンルームには、解放されたガラス窓の斜め前方に100インチのテレビが置かれ、そこに映る沖縄エコリンピック会場の青い空が、東京の晴れた空と続いているかのような錯覚を覚える。


「お飲み物でございます」和江がトロピカルドリンクをサイドテーブルに置いた。

「和江さん、すごいねえ。沖縄にいるみたいだよ」

「プールサイドの椰子の木とか、花とか、入り口のゴザとか、ムード満点です。ありがとうございます」玲香が聖人をあやしながら、頭を下げる。

「それは、よろしゅうございました。ごゆっくりなさって下さいませ」

「あー」

 お礼を言うかのように、聖人と真琴が笑顔で手足をばたつかせると、和江も顔をほころばせながら頭を下げ、戻っていった。


「紗由たちの行進、大賑わいだったな」

「そうですね。おそろいのかりゆしが、皆よく似合ってました」

そういう玲香たち4人も、おそろいのかりゆしに着替えている。真里菜が聖人と真琴へとプレゼントしてくれたものだ。“ついでに”賢児と玲香の分も置いていったのだが。

「会場、大盛況だぞ。ほら、今4箇所映ってるけど、全部すごい人だ」

「本当、人だらけですね…あら、どうしたの、まーくん」

 聖人を後ろから右手で抱きかかえ、ひざの上に乗せていた玲香は、プールのほうに向かって手を伸ばし足をばたつかせる聖人の背中を、やさしくさすりながら語りかける。


「真琴もプールが気になるんだな。ほら、よしよし」

 賢児が真琴の頭をなでたその時、聖人と真琴の動きがピタリと止まった。二人同時にテレビ画面を振り返り、じっと見つめている。

「あ…」玲香が一瞬びくっと身体を震わせ、自分の左手を見る。

「どうした?」

「あの…今、この石に何かが流れたみたいになったというか…」

 玲香が、左手にはめていたブレスレットの石を日の光に透かすようにして眺めると、賢児のスマホが鳴った。


「もしもし、賢ちゃんかあ?」

「おう、翔太。今、沖縄なんだろう? どうだ、そっちは」

 話しながら、オンフックにして、目の前のサイドテーブルに置く賢児。

「ええ感じや。紗由ちゃんとの新婚旅行はここに決まりやな」

「紗由は、まだ仕事中か?」

「そや」

「エコ実験があるんだったわよね?」玲香が割り込む。

「そっちは変更になってな、今、プールに居よるわ。エコプールの仕組みや、エコ素材でできた水泳道具を紹介するんやて」

「プールで水着姿もご披露か。まりりん、いちいちポーズ取りそうだよな」賢児が笑う。


「今んとこ、皆、準備体操に一生懸命や。保先生は、有川先生と一緒に放送席で打ち合わせやし。ああ…まだ、お客は入れへんようやけど、外にぎょうさん、おるなあ」

「翔太。おまえ、どこにいるの?」

「“命”さまと一緒にホテルん中や。会場のプールがよう見えるで。道路の向こうがプールなんや。さっきの行進も、ここから見よった」

「伯母さんも、そこにいるのか」

「サンドレスで、ハイビスカスティー飲んどられる。ビューチホーやでえ」


「他の人たちは会場なの?」玲香が聞く。

「そうや。あっちこっちで仕事中。あ、そうだ。賢ちゃん、ブレスレットはめといてな」

「ブレスレット?…ああ、そうか」

 賢児は胸ポケットからブレスレットを取り出すと、左手にはめた。聖人と真琴が賢児のほうを見上げて、「あー」と声を上げる。

「何か、びんびん来るなあ。低周波のマッサージ機みたいだ」首を回す賢児。

「4つの位置に気ぃつけてな。ほな」翔太はそれだけ言うと電話を切った。


「位置? 翔太? あれ…唐突に終わりだな…」

「4つの位置というのは、これのことですね」玲香が再びブレスレットを陽にかざす。

「玲香と俺と聖人と真琴の石か?」

「ええ。4つということは、たぶんこれも結界なんでしょう」

 玲香は手を下ろすと、自分の左手、抱えている聖人の左足、賢児の左手、賢児に抱えられた真琴の左足、その4つが四角形に形どられているのを順番に確認しながら言った。


「もしかして、さっきの行進も結界なのか?」

「有川先生を守る結界ということなのでは」

「なるほどな…で、こっちは何を守るんだ?」

「うーん。よくわかりません。でも、翔太がわざわざ電話してくるわけですから、これからの紗由ちゃんたちの行動とリンクしているということなのでは」

「さっきは真ん中の有川先生を守った。とすると、プールの中で真ん中にくる人間を守るってことかな」

「そうかも。この子たち、さっきから、テレビとプールを交互に眺めています」

「うーん。のんびりバカンスというわけにも、いかなそうだなあ」苦笑する賢児。

「紗由ちゃんたちも、“お仕事”しているわけですからねえ。しょうがないかもしれないわねえ、まーくん、まこちゃん」

 玲香が言うと、双子たちは「あー」と声を上げ、手を上下に揺らした。


  *  *  *


「さゆちゃん、さくせん、どうだったの?」戻ってきた紗由を、奏子が覗き込む。

「うん。てじな、してきたよ。おはなのなかに、石をいれてきた」

「ひめ。れいのてじなでござるな」紗由の後ろから戻ってきた充が頷く。

「うん。こうやって…」

 紗由が右手で、水着の上に着ているパーカーのポケットの上を撫で、次の瞬間、手を開いて見せると、石が1つ、人差し指と中指の間に挟まれていた。

「それで、おはなをナデナデして、まんなかにポイ」

「うわあ、すごーい!」拍手する奏子。

「じょうずだね…」恭介が悔しそうに褒める。


「恭介くん、マジックへたっぴだもんねえ。とくべつじゅぎょうしてもらってるのに」ふふんと笑う真里菜。「でも、いいんじゃない。トランプは、いちばんつよいし」

 けなされたと思った途端に褒められた恭介は、困った顔で充のほうを見た。

「そうでござるよ、恭介どの。トランプであいての“手”をふうじるのは、すごいぶきでござるぞ」

「そ、そうかな…」

「うん。だから、恭介くんは、あいての“手”を、よーくみながら、ふうじてね」

 紗由はにっこり笑うと、プールの外側の一点に視線をやった。


  *  *  *


 美智香は、辺りを気にしながら、少しずつ建物のほうへ近づいていった。建物に入るとすぐ、右手奥にあるトイレへと向かう。

 ドアの外には「点検中」の札がかかっており、別のトイレへの案内図が貼られている。

 美智香は周囲を確認しながら、そーっとドアを開け、中へ入った。しばらくすると、ドアが開き、美智香はビクッとして振り向いた。

「大丈夫、私よ」

 衣装は違っていたが、その声は、さっき美智香に声を掛けて来た女性だった。

「さっきの…お姉さんですか?」清掃係の格好をした女性を見つめる美智香。

「ええ、そうよ。ありがとう、来てくれて。お願いした通りに、言った箇所を確認してきてくれたかしら?」

「は、はい。プールの周りと、元の会場…このビルのメインホールを見てきました」


「何か感じた?」

「あの…気のせいかもしれないですけど…私のことを気にしてるような人が何人もいました。見られてる感じが。あいつの仲間に見張られているのかもしれません。だから、気をつけながら来ました」

「本当に賢くて可愛いお嬢さんだわ」微笑む女性。「見られているような気がしたのは正解。あなたのことを守ろうとして、気をつけている人たちがいるの」

「あいつの仲間じゃなくてですか? 私が逆らったら、ママのことを傷つけるつもりで見張ってるんじゃないんですか?」

 美智香が泣きそうな顔で見上げると、女性はやさしく微笑んだ。

「ママのことは、もう心配いらないわ」


「え?」

 美智香が驚くと、女性のスマホが鳴った。

「はい。今、彼女と一緒です。はい。わかりました。代わります」

 女性が美智香にスマホを渡すと、美智香は戸惑い気味に電話を受け取った。

「もしもし……ママ? ママなの?」

「美智香…よかった…大丈夫? ケガはない?」

「うん。大丈夫よ、ママ。ママは大丈夫なの? あいつにひどいこと、されてない?」

「ええ。助けていただいたから、ママは平気」

「よかった…」

 互いの無事に安堵のため息をつく二人だったが、それも束の間、美智香は自分がするようにと言われたことを思い出し、暗い顔になった。今、母親が無事だとしても、また同じような目にあうかもしれないと思ったからだ。


 そして、その気持ちを察したかのように、美和子は娘に告げた。

「美智香を傷つけるようなまね、ママが絶対にさせないわ。誰にも。そのためにも、そこにいるお姉さんの言うことを聞いてちょうだい」

「何をするの?」

 美智香が尋ねると、女性は彼女の肩をぽんぽんと触れ、にっこり微笑んだ。

「私から説明するわ。ママに会う前に、ひと仕事お願いしたいの」

 美智香は彼女をじっと見つめ、うなづくと、電話で美和子に告げた。

「わかったわ、ママ。お姉さんの言うとおりにする。その代わり、終わったら、私が知りたかったこと、全部教えてね」

「美智香…」

「約束よ」美智香は、それだけ言うと電話を切り、女性に渡した。「私は何をすればいいんですか?」


「まずは、この人形を会場に持って行ってほしいの」

「この人形…おじいちゃまに送られてきたのと同じですか?」一歩後ずさる美智香。

「おじいさんの所へ送られてきたのは、これを真似した偽物よ」

 女性がそう言って人形を差し出すと、美智香はおそるおそる受け取った。

「かわいい…。この前の人形とは、全然違う…」

「それとね、現場では彼の指示通りにしてほしいの」

「え? で、でも…」

「大丈夫よ。友達に害が及んだりはしないわ。それは私の味方が阻止する。でも、彼はまだ、あなたのママを保護したことを知らないから、味方のふりをしておいてほしいのよ」


「ママを保護したのに、捕まえないんですか?」

「今捕まえても、奴の仲間がまた、あなたやママに近づくかもしれない。もっと悪い奴をおびき出して、大元のところで決着させたいの。わかってくれるかしら」

「…あいつだけ捕まえても、駄目だってことですね」

「辛い思いをさせてごめんなさいね。でも、これはあなたにしかできない仕事なの」

「わかりました…」


「それから、その前に確認しておいてね。“火”の力の及ぶ範囲を」

「範囲…?」

「人や動物を狙って試したこと、ないでしょう?」

「もちろんです! そんな危ないこと、しません」

「だから、ここで実験してから実践。ここなら水も使いたい放題だし」ウインクする女性。

「そうですね。ここなら、そんなに危なくないです」

「それに私も実験に参加したいの。どこまで“消せる”のか、私も確認しなくてはならないから」

 女性は美智香の手をとり、その人差し指をやさしく撫でた。


  *  *  *


「それで瑞樹、俺は何をしたらいいんだい?」

 従兄弟の瑞樹の協力要請とやらに、雄飛は困惑していた。

「封じてほしいんだ」

「封じるって…キックの“火”をか?」

「違うよ。奏子ちゃんだ」

「奏子ちゃんて、まりりんちゃんの仲良しだろ?」

「ああ、そうだよ」

「彼女はね、すごい力を持ってるんだよ」大地がにこにこしながら説明する。「でも、みんなの前でそれを使ったらまずいんだじょ。普通の人には秘密だからね」


「まだ小さいからね、制御がちゃんとできない。おまえの力を借りて、調整したいんだよ」

「僕が、奏子ちゃんの気持ちがふわふわになるようにするから、おじさんは、奏子ちゃんの“ぷんすか”が、それ以上、外に出ないように封じておくれなんだよん」

「“ぷんすか”…? 彼女が怒ると何かが起きるのかい?」

「最低でも割れるような頭痛で失神、下手をすれば脳障害だろうな」

「うわ…。それはすごいね。でも、それなら彼女を使えばキックぐらい倒せるだろうに」

「まあ、物理的にはね。だが、この仕事の依頼主は、それを望んではいない。

 そいつ一人を捕らえたところで、ずっと閉じ込めておけるわけじゃないし、反省のないまま、そんなことをしたって、もぐら叩きになるだけだ」


「“そいつ一人”って…やっぱり四辻先生の事故は組織がらみの陰謀だったってことか?」

「僕にはそこまでのことは、わからない。だが、キックとやらを封じこめるには、おまえの力に頼るしかないんだよ。頼む」頭を下げる瑞樹。

「いや…そんなことが、できるのかどうか…」

「できるさ。山科本家の跡取りじゃないか」

「そうだけど…」


「それと、ここだけの話にしておいてほしいんだが、西園寺総理がうちの会社の特別インタビュー、あと一押しで応じてくれそうなんだ。

 この仕事の後には、総理も出席する懇親会があるから、最終確認をおまえがしてくれて、営業部企画ということで社長に報告してくれても構わない」

「おい…」

 思わず噴出しながら、やっぱり瑞樹にはかなわないと雄飛は思った。


 こいつは普段は腰が低く、無駄な争いをしない代わりに、本当に必要な時には相手の競争心とプライドをうまくくすぐりながら、自分の思うように動かすのだ。

 若くして『Misaki』の編集長になったのは、単に社長の娘婿という理由からではない。実際、彼が就任してから実売部数も伸びている。

「懇親会は何時からだい」

「ありがとう。引き受けてくれると信じてたよ、雄飛」微笑む瑞樹。

「パーティーはね、夕方の6時からだよ。僕も真里菜と行くんだ」


「…で、具体的な手順は?」

「まずは、大地に見せてやってくれ。大地が判断する」

「大地が…?」驚く雄飛。

「…おじさんも、子どもが仕事するのは嫌いなのにゃ?」

「え?」

「真里菜が仕事すると、悪口言う人、会社にいっぱいいるもん。真里菜は皆におしゃれしてもらうために、いつも一生懸命なのに…」しょんぼりする大地。


「いや。おじさんは、そんなことは思ってないよ。子どもだって、仕事を一生懸命する人間は大好きだ。子どもの仕事を周りの大人が認めるということは、大人以上に力があるということだよ。真里菜ちゃんもそうだし、大地だって、きっと…」

 そう言いながら、雄飛はまたも誘導されたと思い、笑い出した。

「大地。おまえ、パパにそっくりだな」

「パパよりハンサムだって、ママは言うじょ」

「…そうだな。ごめんごめん」

 ほんわかした大地の顔を見つめながら、雄飛は楽しそうに笑った。


  *  *  *


「じゃあ、僕はそろそろ先生のところへ行くから。後は頼んだよ、澪」

「任せて、兄さん。成功を祈るわ」

「それはマジックのほうかい?」

「もちろん。“あっち”に関しては、兄さんの力はお義母さまと同じぐらい安定してるもの」

「ははは。頑張ってくるよ」

「でも、その格好じゃあ、誰だかわからないわね」

「昔から四辻先生の家によく出入りしている僕の顔は、知られている可能性が高いからね。本意ではないが、仕方ないよ」


「そうねえ。せっかく可愛い人がたくさんいるのに、それじゃあ声も掛けられない」

「おいおい。僕はナンパしにここまで来たわけじゃないぞ」

「そうよね。今まで近づいてきた人に優しくしちゃってたのは、兄さんの責任じゃあないわ。仕事が終わったら、せいぜい頑張って。兄さんが幸せになれるよう、私はいつも応援してるし、奏子ちゃんにも早く“お花をまく係”をさせてあげてね」

「…はいはい。でも、まずは“鬼退治”だよ」

 女性物の琉球舞踊の衣装に身を包み、赤いルージュを引いた誠は、手にしていた古典舞踊の楽器、四ツ竹を鳴らして弟子たちを呼び、保の待つプールサイドへと向かった。


  *  *  *


「充くん、どこいくの?」

 プールサイドを離れようとする充に、真里菜が声をかける。

「おしっこでござる」

「はやくもどってきてね」

「らじゃー!」


 充が元気に走っていくのを見ながら、恭介が不思議そうにつぶやいた。

「プールにくるまえに、行ったばかりなのになあ…」

「きんちょうしてるのかしら」奏子が言う。

「でも、そんなにおいしないけど…かみがた、なおしに行ったのかな。かがみなら、まりりんがかしてあげたのに」

「すぐ、もどってくるよ」

 紗由がそう言っても、恭介は何かが引っかかる様子で、難しい顔で周囲を見回した。だが恭介自身、その引っかかりの理由はわからず、もやもやとした気分に見舞われていた。


  *  *  *


 翔太と一緒に沖縄に来ていた清流旅館の一行は、紗由が引き続き出演するというプールのほうへ向かっていた。

「紗由ちゃん、さっきも可愛かったわねえ」

「かあさんの作ったかりゆし、似合ってたわね」

 鈴音が言うと、うれしそうに笑う弥生。

「次は何をやるのかしら」

「エコ実験ですって」パンフレットを見ながら答える鈴音。

「って、なあに?」

「さあ…?」

 顔を見合わせて笑う鈴音と弥生。


「まあ、行けばわかるさ」飛呂之が言う。

「そうね、早く行きましょう」

 ふふふと鈴音が笑い、飛呂之、光彦、弦子も足を早める。

「あら? ねえ、あれ、充くんじゃない? あそこのトイレの入り口の近く」

 弦子が指差す方向を見る一同。

「おや。本当だ。出演者がこんなところにいて、いいのかな」

「一緒にいる人、プールのインストラクターか何かかしら。ビート板持ってるし」

「何かの道具を受け取りに来たとか、お手伝いに来たとか、そんなところじゃないの。充くん、働き者ですものね」

 弥生が言うと、皆、そうだねと言って、再び会場へと急いだ。


  *  *  *


“しまった。部屋に忘れてきたか…”

 会場の地図を確認しようとして、ポケットにないことに気づいたショウが部屋に戻ろうと歩いていると、通りすがりの数人が、イベント会場がプールサイドへ変更になったと話をしているのを耳にした。

“キックは知ってるんだろうが…”

 ショウは念のため、キックに電話をかけたが、どうやら電波の悪いところにいるらしく出なかった。

“また後でかけるとして、一応、彼女にも伝言を頼むか…”

 ショウは再び電話をかけるが、そちらも出ない。

“どういうことだ? 彼女は部屋にいるはずだし、電波の届かないところというのはおかしい…”

 嫌な予感にかられたショウは、慌てて部屋に駆け込んだ。


「いない…?」

 部屋に戻ると、そこはもぬけの殻になっていた。唖然として部屋をぐるりと見回すと、ショウは舌打ちをして、慌ててプールサイドへと走っていった。


  *  *  *


 一方、プールのほうに到着したキックは、スマホを確認するとショウからの着信履歴がいくつもあるのに気づき、慌てて電話した。

「何してたんだ!」いきなりショウの怒鳴り声が聞こえてくる。

「バイブレーターにしておいたんだよ。周囲の注意を引いたら困るだろ。プールサイドに入場するときは電源を切れってアナウンスされてるんだ」

「miwaがいない。彼女も一緒に消えてる。おまえ、何か彼女に指示したか? あの人から何か聞いてるか?」

「いや、何も。何でいないんだよ。向こう側に二人とも連れ去られたのか?…まさか、彼女がmiwaを逃がした?」

「どちらの可能性もある。子どもはどうした?」


「ちょ、ちょっと待って」

 キックは慌てて約束の待ち合わせ場所へ駆けて行くと、そこにはフェンスに寄りかかる美智香の姿があった。

「いるよ。待ち合わせ場所に」

「いるってことは…母親が俺たちの元にいないのを知らないってことだな。…よし、作戦はそのまま実行だ。母親をつかまえたままのふりをしろ」

「わかった」

 キックは難しい顔で美智香に近づいた。


  *  *  *


 言われた通りの場所で待っていた美智香は、やってきたキックの横へ歩み寄ると、プールのほうを向いたまま声をかけた。

「あなたにわかりやすいように、ここでやります」

「確認の手間がはぶけて助かるよ。母親似の聡明なお嬢さんだねえ」

「でも…ここだと人が多すぎて、気持ちが集中できません。通る人がぶつかってきたりするし。

 もう少し、あっちに行ってもいいですか? あのベンチの上だったらプールが見えるし、子どもの私が上ってても、変に思われたりはしないと思いますから。

 プール内に…できれば、いいんですよね」

「あ…ああ、そうだな。確かにプールのすぐ傍はうるさい」

 キックは美智香の言うとおりに、プールサイドの金網の外側を半周するような形で、木陰の下のベンチへと歩いていった。


  *  *  *


 プールサイドのスポーツインストラクターに混じって、風馬はトレーニングウエア姿にスポーツキャップをかぶり、遊具の準備をしていた。同じくインストラクター姿の澪が、ビニール袋をいくつも抱えて、足早に走り寄ってくると、小声で囁いた。

「星印が充くん用」

「わかった。龍は?」

「紗由ちゃんに頼まれて、ビデオ班なんですって。先に着いてると思ったんだけど…」

「ビデオ班なら、ほら、あそこに一眼レフデジカメ抱えたのが、最前列に陣取ってる」

「あら。ステージパパ全開…」

 準備体操する紗由に、必死で何度も手を振る涼一を見つけると、澪はクスリと笑った。

「あの映像が、後で検証するときに役に立つ。せいぜい頑張ってもらおう」

 風馬は澪からビニール袋をひとつ受け取ると、5人組のところへ行き、ビート板を配った。


  *  *  *


 すもも組の出番が回ってきた。

「奏子、大丈夫?」

「うん。ちゃんと、いつもどおりにできるから」翼に向かって笑う奏子。

「翼くん、かなこちゃん、がんばろうね」真里菜が少し緊張した面持ちで近づく。

「だいじょうぶでござるよ」

 今しがた戻ってきたばかりの充が言うと、充の影に隠れるようにしていた恭介も、声を少し大きめにする。

「うん。だいじょうぶ!」

「このパタパタ板は、つかまりやすくて、いいでござるし」充がビート板をなでる。

「じゃあ、みんな行くよ!」

「おー!」

 5人はこぶしをつき合わせるようにして声を上げ、翼も慌ててその輪に加わった。


  *  *  *


 インストラクターが一人ひとりにサポート要員として付きながら、6人はプールの中に入り、翼と奏子以外の4人はビート板につかまって、水に浮いた。奏子は翼の両手につかまり、ぱしゃぱしゃと足を動かしながら浮いている。インストラクターたちは、6人のビート板を再度点検し終わると、プールの壁際へと散っていった。


「それでは、園児たちによる、エコグッズを用いたパフォーマンスをごらんいただきましょう」

 水泳用具に関する説明が一通り終わり、袴田が紗由たちのシンクロ開始をアナウンスすると音楽が鳴り出した。

 観客席からは拍手が沸き起こる。放送席の有川も割れんばかりに拍手を送っている。


 紗由たちは、翼と奏子を囲むようにして、ぐるぐると回り出した。4人から2人への距離はそれぞれ3メートル近くあり、翼と奏子の動きをじゃましないようになっている。

 紗由がビート板を手放し、プールの中に潜って底を蹴って水面から飛び出ると、他の3人も順番に同じ動作をする。

 その間、翼は奏子の手を握ったまま、彼女の身体が水面を滑るようにしながら、ぐるぐると2、3度回した。会場の拍手はさらに大きくなる。


「はんたいまわりだよ!」

「はい!」

 4人は逆回りを始め、翼と奏子は、奏子のジャンプに備えて、いったん動きを小さくした。少し離れた場所では浮いていたビート板に炎がともり、一部の観客から声が上がった。

 そして、しばらくすると、翼は身体を水の中に頭が出る程度に沈め、その肩に奏子を乗せようとする。

 奏子をジャンプさせるタイミングが整ったかと思われたとき、本来、そこにポジションを構える予定ではなかった充が、ビート板を抱えて翼と奏子の前に進み出て来た。

「充くん、そこじゃないよ!」真里菜が叫ぶが、充は耳を貸さずに進む。

「いいよ、まりりん!」紗由が言う。

「さゆちゃん…?」


 翼は、充の動きを妙に思いながらも、何かを感じ取ったのか、そのまま予定通り奏子を持ち上げ、その身体を空に押し出すように腕を前に出す。

「えい!」それに合わせるようにして、充がビート板を二人の前に投げた。

 奏子が一番高いポイントに達した時、彼女を覆い隠すかのような位置にあったビート板は、炎に包まれ、奏子の一瞬後に、彼女の横1メートルほどの場所に落ちた。

 プールに浸かったビート板の火は、すぐに消えたが、その直後、数メートル離れた水面に炎の柱が上がった。


  *  *  *


“恭介!”

 水面に浮かぶ炎の柱を前に有川は叫んだ。

 正確に言うなら、叫んだつもりで、それは声にはなっていなかった。

 ただ、身体の奥から何かが噴き出てくるような衝撃があり、一瞬、身体は異常な暑さに包まれた。その身体の異変とは裏腹に、意識はやけにクリアになり、視界も明るくなった。

“な、何だこれは…恭介…無事なのか…?”

 有川が目を細めて恭介のほうを見つめると、恭介も有川のほうを見つめていた。

“おじいちゃん…”

 

「おっと、これはどうしたことでしょう」放送席の袴田が大げさな感じでアナウンスする。

「そ、そうですね。一体これは…」

「あ…何かが…上から…」

 袴田の声と視線を追って、観客一同は上を見つめた。


  *  *  *


「賢児さま、炎が!」東京で画面を見つめていた玲香が叫んだ。

「何だ、事故か!?」

 水の上で上がる火柱という状況をよく理解できない賢児たちは、ひたすら画面を見つめる。同様に、画面の中では、観客たちも妙に静かに水面を見つめている。

 しばらくして、アナウンサーの声が響き渡った、その時、空から黒いマントがひらひらと舞い降り、炎の柱の上に覆いかぶさった。

「マントが火を…!」

「親父!」

 賢児が思わず指をさした先には、炎を消して水面に広がり浮いていたマントの下から、ゴムボートに乗り姿を現した保の姿があった。


  *  *  *


 最初、何が起きたのかわからずにいた観客たちは、事態を飲み込むと割れんばかりの歓声を上げた。

「総理―!」

「すげえ!!」

「きゃーっ!」

 興奮に包まれる観衆に、保はゴムボートの上から笑顔で手を振り、ボートを手でこぎ、子どもたちのほうへと近づいていった。。


  *  *  *


“あっちだ…”

 奏子は、水の中から浮き上がると、充が投げたビート板の延長線上、プールの外をじっと見つめた。

“あのひとが、おにいちゃまに、ひどいことしようとしたんだ。みちかちゃんに、やらせようとしたんだ…”

 歓声の中、奏子は、プールサイドから投げられたビート板につかまると、ぎゅっとこぶしを握り締め、強いまなざしをキックに向けた。

“石が、おこってる”

 奏子は一瞬のうちに、自分の石とキックの姿を頭の中で重ね合わせ、思い切り強く念じた。「えいっ!」さらにこぶしを強く握り、目をつむる奏子。


 だが、奏子が目を開いた時、さっきと何も変わっていなかった。

“あれ…?”

 奏子がきょろきょろと辺りを見回すと、翼が奏子の手を取り、にっこりと笑った。

「奏子、落ち着いて。僕は大丈夫だから」

「わるいひとが、いる…」泣きそうな顔で言う奏子。「いしが…いしが、おこってる…」

「大丈夫。大丈夫だよ。皆でやっつけるから」翼が答えながら、奏子の手をさする。

「かなこ、やっつけに行く。みんなが、あぶないもん」

「だめだ。人前では、しないはずだろう? おじいちゃまとの約束を忘れたのかい」

 笑顔で周囲を見回し、疾人と響子のほうに笑顔で手を振りながらも、きつい口調で言う翼に、奏子は黙り込んだ。

「みんなが、いろんな形で奏子を守ってくれてるんだ」

 翼は、何度も何度も奏子の頭を撫でた。


  *  *  *


 拍手と歓声の中、紗由はビート板につかまって、ぷかぷか浮かびながら、口を尖らせた。

「じいじは、いいところ、もってくんだからあ」

「まあ、そう言うな、紗由」

 保は、紗由の頭を撫でながら、ボートで横を通り過ぎると、紗由の横まで泳いで来ていた充の頭も笑顔で何度か撫でた。そして、少し離れていた真里菜と恭介にも手を振ると、奏子と翼を抱き上げてボートに乗せた。

「じいじせんせい!」奏子が保にしがみつく。

「おお、奏子ちゃん。いい子だねえ。とっても上手にできてたよ。翼くんもだ」

「ありがとうございます、先生」頭を下げる翼。

「ありがとうございます…」

 奏子は、翼が耳打ちすると、観客に手を振るが、その顔は、まだどこか強張っている。

「ほら、奏子。上手にできたねって、みんなも拍手してくれてるよ。よかったね」

「おにいちゃま…」

 奏子はしっかりと頷くと、翼の手をぎゅっと握った。


  *  *  *


 美智香の横にいたキックは、呆然とプールを見つめていた。自分をにらんでいる奏子の眼差しにも気づく様子がない。

「なぜ…?」

「もう一度、やりましょうか?」美智香が表情を変えずに尋ねた。

「あ、ああ…」

 キックが美智香を振り返ると、プールからは保の声が聞こえた。


「皆さん、こんにちは」

「こんにちは!」と一斉に返事する観客をにこやかに眺めながら、保はボートの上の翼と奏子の肩にパーカーをふんわりと掛けた。翼には鮮やかなブルー、奏子はオレンジだ。

「これは、ペットボトルから作られたパーカーです」

 保はエコ素材についての説明を始め、プールサイドには二人の男性がペットボトルを両手に出てきた。

 何が始まるのかと思ったのも束の間、男性たちは数歩前に歩み出て、ペットボトルを空に投げると、受け取るときに、そのボトルはパーカーに変わっていた。

 それを広げると、客席からは一気に歓声が上がる。


「皆さん、こんにちは。インバーターでーす!」

 パーカーを1枚から2枚へと増やしながら挨拶する二人が、保のほうへ手を広げると、保の手にはTシャツが握られており、客席は益々盛り上がっていく。

 続いて、琉球舞踊の衣装に身を包んだ美女が現れ、さまざまなグッズを衣装の中から取り出してはインバーターに投げ渡すと、観客はさらに声が大きくなった。


「もう一度できるのか」観客の歓声とは裏腹に、悔しそうにつぶやくキック。

「狙ったポイントしか燃やせませんから、狙った人に届かないかもしれませんけど」

「え?」

「おじさん、知らなかったんですか? 動くものには使えませんよ。燃えろと思った場所しか燃えない。動いたら、ずれます。私、何度も練習しましたから」

 美智香に言われて、確かに自分は建物や地面など、固定物にしか使ってみたことがなかったと、キックは思った。

「でも、やってみます。私には、そうするしかありませんから」

「…物分りのいい子で助かるよ」

 美智香はキックのほうを見ずに、着ていたパーカーを脱ぎ、キックに渡した。

「持っていてください」

「あ、ああ…」


「うまくいくよう、強く願っててくださいね」

「やけに好意的だな。力が及ばなかったのが悔しかったのかい?」

「静かにしてください」

 有無を言わせぬ口調で言う美智香に、キックは思わず黙る。

だがキックが黙ったのは、美智香のせいだけではなかった。緊張しているせいか、心臓の鼓動がどんどん高まっているように感じる。息苦しい感じが、波のように寄せては引く。


 そして、傍らで美智香はプールのボートを見つめているが、手を動かす様子はない。インバーターのエコ解説の傍らで、保と翼、奏子の3人が乗ったボートは、どんどんプールの端に寄っていく。

「おい…行っちゃうぞ…」

 だが、美智香は答えない。

「おい…!」

「言いましたよね。動くものには使えません」

「じゃあ…プールから上がって…から…」

「プール内にという約束でした。あとはご自分でどうぞ」

 スタスタと歩き出す美智香。途中から駆け出す彼女を、キックは後を追おうとする。

「おい!……おい…」


 美智香との距離がどんどん離れていくが、キックは身体を思うように動かせない。

「く…苦しい…」

 胸を押さえながら、その場にうずくまり、気を失うキック。

 だが、その直後、背後から女性がキックの首の脈を取った。

「小父さん、飲みすぎやいびんよ」

「しょうがねーらんなあ」

 その隣にいた男がため息を漏らしながら、キックを肩にかついで歩き出しだ。


「まったく、脇が甘いこと」未那がつまらなそうに言う。

「こいつも、あくまで発炎筒だっていうことだろう」同じく、つまらなそうに答える進。

「そんな回りくどいことしなくても、さっさと華織さまに挑めばいいのに」

「そこまでバカじゃないんだろう。そこは評価してやろうじゃないか。それに、こうなった以上は、華織さまの予想通り、明日に持ち越される。問題はそっちだ」


「そうね…午前中の動きだけ、何とか止められればいいけど」

「難しいのは事実だ」

「解禁時間まで油断大敵ね。それに、お兄ちゃんのほう、弟が倒れても寄ってこないところを見ると、逃げちゃったわね」

「そういうことだな。まあ、そっちも追々に」

 進はキックを、よいしょと持ち上げなおすと、未那に微笑んだ。


  *  *  *


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