弐 人生そんなに甘くはありませんでした――③
家を出て、〈白眉〉が住んでいるという噂の町の中心地へ向かったのだが、さほど歩かない内に目当ての人物とばったり出くわしてしまった。
遠目でもわかる、白い眉。派手な深衣に身を包み、一見人の良さそうなにこやかな笑みを浮かべた容貌をしている。
もうすぐすれ違うというとき、思い切って声を掛ける。
「あの! ……金貸しをされている方ですよね?」
本人に向かって〈白眉〉なんて名で呼んでいいものか迷う。
「んー? そうだよ?〈白眉〉って言うんだけど、知ってる?」
どうやら本人も自分のことをそう呼んでいるらしい。
頷いた私を見て、〈白眉〉がおもむろに口を開く。
「知ってるなら、どうして呼び止めたのかな? もしかしてお金貸して欲しいの? ……いいよいいよ、お嬢ちゃんみたいな可愛い子には、いくらでも貸してあげるよ」
そう言って私を見つめる。その表情は一見笑っているように見えるが、その瞳は冷たい。まるで値踏みをされているように感じた。
「いえ、そうではなくて……あなたにお話ししたいことがあるんです」
「なあんだ、お客さんじゃないの……あ、ボクのことは〈白眉〉でいいよ。あなたなんて呼ばれるのには慣れてないからね」
優しげな口調だが、温かみはまるでない声。私は言われるままコクンと頷いた。
「で、確認したいことって、何?」
「私は李 一琳といいます。父は李 伯明」
父の名を告げた途端、白い眉がピクリと動いた。
「あーなるほど、君は〈月季庵〉の看板娘か! へええ、噂では聞いていたけど、こんなにも綺麗だなんてね、驚いたよ。本当にね……」
そう言って〈白眉〉は、浮かべていた笑みを深くする。ねっとりと、纏わりつくような視線が気持ち悪い。
「父の借りたお金の件で――」
私が話を始める、とすぐに〈白眉〉が右手で私の唇を押さえる。冷たい手だった。触れられた口元から、ぞわりと肌が粟立つような感覚がした。
「込み入った話をするには、ここじゃちょっとね……丁度良かった。今から君のお父さんに会いに行く途中だったんだ。一緒に行くかい?」
確かに町中の立ち話ですますような話ではない。私も冷静なつもりだったが、やはり気が動転しているようだ。一回落ち着いた方が良いだろう。
私が頷いたのを確認して、〈白眉〉は私の口から手を離す。
「じゃあ、行こうか」
当然のように〈白眉〉は私の横に並んで歩く。一緒にいるところを他の人たちに見られたくないが、仕方ない。私は出来るだけ顔を伏せるように俯いて歩く。
だがそんな努力もむなしく、あっという間に見つかってしまった。しかも一番知られたくない相手、暁明に。
「一琳?」
下を向いていても、その声ですぐに暁明だとわかる。
十日振りに会ったのが、このタイミングだなんて本当についてない。
暁明は十八才で私塾を卒業し、本格的に父親の店を手伝い始めた。跡継ぎだしかなりしごかれているようだ。そのため最近は会う機会も減ってしまった。
「久しぶりね、暁明」
俯いたままでいるのも変だろうと、私は仕方なく顔をあげて返事をした。
今年で二十一才になった暁明は、随分と背が伸びた。健康的に日焼けした肌と、少し赤めの金髪。意志の強そうな真っ直ぐな眉と、まだ少し子供っぽさを残した緑の瞳。
いつも通りに振る舞ったつもりだが、さすがは幼馴染。私の動揺に気が付いたようだ。
「どうした? 何かあったのか? 様子が変だぞ」
「やだなあ、何もないよ」
「……じゃあなんでこんな男と一緒に歩いてんだよ……お前、〈白眉〉だろ?」
そう言って暁明は〈白眉〉を睨みつけた。
「これは、これは! 〈玉葉楼〉のお坊ちゃんではないですか。 そんな方が、ボクのことをご存じだとは思いもしませんでした」
「……お前の噂はこの町に住む奴なら誰でも知ってるさ。その特徴のある眉を見れば、顔なんて知らなくとも一目瞭然だしな」
暁明のあからさまな侮蔑にも〈白眉〉は表情一つ変えず、薄ら笑いを浮かべている。
「一琳、何があったんだよ?」
暁明がいつになく真剣な表情で私を問い詰める。
「俺にも言えないようなことなのか?」
どうせここでいくら誤魔化しても、いずれ知られることになるだろう。人伝に聞くよりは……そう観念した私は重い口を開いた。
「お父さんが借金しちゃって……その件で今から家に戻るところなの」
「おじさんが!? 嘘だろ……」
ショックを受けた暁明の顔から表情が消えた。
「いくらだ?」
「……九万」
「っ! ……わかった。後から俺も家に行くから、絶対諦めるんじゃないぞ!」
暁明はそう言い残すと、私の返事も待たず駆けていった。
小さな頃からずっと一緒に育ってきた暁明の考えなど簡単にわかる。きっと借金の一部だけでも工面してくれようと考えているのだろう。
だがそれには、暁明の両親に事情を説明するしかない。そうなれば、暁明との縁談はなくなるだろうな。それほどこの〈白眉〉は性質が悪いのだ。
暁明のことは弟のように感じることが多かったが、両家の意向もあり、それでもずっといずれは……と考えていた相手だ。それが目の前から消え失せた。
当然、ショックだった。そんな落ち込む私を嘲笑うかのように、〈白眉〉が言う。
「へえ、あの大店のお坊ちゃんって君の事……まあお嬢ちゃんは美人だし、お似合いだね」
「……幼馴染なだけです」
その関係すら今日限りかもしれないけどね!
先程まで感じていた〈白眉〉に対しての気持ち悪さは次第に怒りへと変わり、その横顔を睨みつける。もし視線で人を殺せるのなら、私は今罪を犯していただろう。
じっと暁明が消えた方向を見ていた〈白眉〉だったが、興味をなくしたように歩き出す。
「さ、行こうか。もうすぐだね」
私は〈白眉〉の後頭部を睨みつけたまま、家へ続く道を歩き続けた。
「ただいま……」
「お邪魔するよ?」
店の裏側に併設されている家の門をくぐると、父が玄関の戸の前で待っていた。その表情はいつもより厳しい。
「やあやあ、〈月季庵〉の旦那、久しぶりだね。この前は借りてくれてありがとう。お陰で何とか首をくくらずにすんだよ」
にこやかな〈白眉〉の態度に腸が煮えくり返る。何が首をくくらずにだ、この外道が!
「で、そろそろ返済してもらってもいい? 今日はそれを伝えに来る途中で、お嬢さんに出会ったんだ。あんまり綺麗なんで驚いたよ」
返済の話がでたところで、私は怒りを何とか鎮め口を開いた。
「あの!」
「んー? 何かな?」
「返済額ですが……正確な金額はいくらですか?」
私の問いに〈白眉〉は首を傾げると、腰に吊るした小さな手帳のようなものを開き、慣れた手つきでページを捲っていく。
「ええと、九万一千と三十クワンだね……お嬢ちゃんがわざわざ迎えに来てくれたし、三十クワンはおまけしとくよ。九万一千でいいよ」
おまけって……もともと借りたのは、十クワンなのに! それも無理やり貸し付けられてのことなのに! こんな理不尽なことがまかり通っていいの!? ムカムカがおさまらない。
「元は十クワンでしょ? どうしてそんな金額になるの! おかしいじゃない!」
「子供が大人の話しに首を突っ込んじゃいけないよー」
そう言って馬鹿にしたように笑う〈白眉〉に腹が立つ。
「馬鹿にしないでちょうだい!」
「一琳、やめなさい」
制止する父を無視して、私は叫んだ。
「子供じゃないわ! 十六才よ! もう一人前よ!」
事実、農村では十六才前後で結婚する。田畑を守る人手がいるためだ。ここのような都市部に住む者は、婚期こそもう少し遅いものの、十六才ならもう働いていてもいい年である。
暁明のように十八才まで学問に勤しむ者は稀で、商人の富裕層か貴族階級という少数の恵まれた者たちなのである。
「そう……なら、君が払うかい?」
私を見たまま、〈白眉〉の口が嫌な弧を描く。
「君なら三年も働けば、すぐに九万クワンなんて稼げるよ」
舐めるような視線に、全身の毛が逆立った。その時、これまで聞いたことのないような父の怒声が響く。
「馬鹿なことを言うな! 娘を売るような真似をするわけないだろう!」
「お父さん……」
「私は頼りない父親かもしれないが、それでも子供に身売りさせるような真似は絶対にしない。それくらいなら店を売る!」
怒鳴りつけたあと、父は〈白眉〉に向かって何か投げつけた。〈白眉〉に届く前に勢いを失い舞い散ったものは、店の権利書だった。
「お父さん!!」
私は父が代々受け継いできた店をどれだけ大切にしているか良く知っている。それに店を手放すということは、同時に家も失うということだ。そして職も……
だが父は私を見て、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「いつも頼りない父親で一琳には怒られっぱなしだが、たまには親らしいことをさせておくれ。店かお前を選べといわれたら、迷うことなくお前を選ぶよ」
「お父さん……」
こぼれそうになる涙を堪えて父と見つめ合っていると、嘲笑うような声がその場に響く。
「感動的な場面に水を差すようですまないねえ……でも、足りないよ?」
その言葉に耳を疑う。
「は? なんですって?」
「だから、足りないって言ってんの」
そう言いながら〈白眉〉は、地面に散らばった書類を拾い集めている。
「店を売ったとしてもおそらく八万クワン程だろうね。あと一万一千足りないよ?」
「馬鹿な! 買付人の話では、最低でも十二万クワンの値がついている」
そんなはずはないと、父が告げる。
だが〈白眉〉は平然と信じられないことを言う。
「手数料だよ、手数料」
「なっ、手数料だけで数万もとるというのか?」
「当たり前じゃないか。現金ならともかく、こんな店を貰っても、買ってくれる人を探す手間も時間も金もかかるんだから……嫌なら、現金で払いなよ」
我慢の限界などとっくの昔に来ていた私は、声を荒げる。
「話にならないわ! 暴利も暴利、出るところに出てもいいのよ!」
普通の人なら怯むはずの言葉でも、〈白眉〉には全くそんな様子はない。むしろ私を憐れむような、馬鹿にしたような視線を向けてくる。
「無駄だと思うけどねえ……それこそ無駄に時間と金がかさむだけだよ。役人なんてものは、僕よりさらにひどい……強欲の塊さ」
子の言い草からして、役人に賄賂をわたしているという噂も本当なのだろう。
もう駄目だ。万策尽きた。どうすることも出来ない。最後の手段であったはずの、店を手放すという選択でさえまだ借金が残るなんて……こうなったら、やはり私が稼ぐしかないのだろうか。
稼ぐと言っても売り子や茶くみ女などではないことは重々承知だ。これからの私の行く末など、簡単に想像できた。
こういうとき、アラサーであった鈴音の無駄な知識が本当に嫌になる。
とはいえ 私にはもう他に選択肢がなかった。
「わかった……店は売りません」
固い声で言った私を、〈白眉〉が興味深そうに見つめる。
「じゃあ、どうするのかな?」
「私が、働き――」
「駄目だ!」
当然、父がすぐさま私の言葉を遮る。
だがどうすることもできない。私は静かに首を横に振ってみせた。
「お父さん、そんなことしたら一家全員で野垂れ死にだよ……お父さんとお母さんだけでも、何とか普通の暮らしを手に入れてください」
「駄目だ! 店を売って、残りの金は親戚中を回ってでもなんとかする!」
「無駄よ、きっと……」
おそらく〈白眉〉の狙いは私だろう。私はいわば金の卵を産む雌鶏だ。この男がみすみす逃がすはずがない。
私が〈白眉〉の前に現れなかったら、おそらく店を手放すだけで済んだに違いない。当初の〈白眉〉の狙いはきっとそうだったはずだ。法外な手数料は、私を手に入れるため。そうだと確信していた。
大人の話に首を突っ込んだ結果の自業自得。わかっている。
「いいねえ、頭の良い子だ。ますます気に入ったよ……きっとお嬢ちゃんなら、上客が付くと思うよ。そうすれば、君のご両親も店を手放さずにすむはずさ」
〈白眉〉の頭の中ではすでに色々な計算が始まっているのだろう、ニタリと笑った。そして私の腕を掴む。
「じゃあ、行こうか。〈月季庵〉の旦那、代金はこの子から払ってもらうことにするから、気にしなくていいよ。孝行娘を持って、幸せもんだねえ」
「待ってくれ〈白眉〉! 金は絶対に用意する!! だから娘を連れて行かないでくれ!!」
追い縋った父を〈白眉〉は何の躊躇いもなく蹴り飛ばした。元々争い事を嫌う穏やかな性格の父だ。それに対し、荒事の中で生きてきただろう〈白眉〉。その力の差は歴然としている。
それでも何とか私を取り戻そうと、転ぼうが倒れようが何度でも起き上がって〈白眉〉に突進を続ける父を見て、私は悔しさに涙が零れた。
「お願い! もう止めてっ!!」
叫びながら二人の間に割って入った私だったが、〈白眉〉に乱暴に突き飛ばされ、派手に地面に転がされた。
「娘に乱暴するな!」
そんな言葉と共に、父が激昂した様子で〈白眉〉に殴りかかる姿が見えた。だが、当然これまで人を殴ったことのない父の拳はあっさりとかわされ、余裕の表情を浮かべたままの〈白眉〉によって暴力を受けている。
「どうして、私たちがこんな目に……お願い、誰か、助けて……」
私はこの世界に来て、初めて祈った。
だが熱心な信徒でもなく、日頃から祠にお供えをしているわけでもない私のそんな小さな囁きは、神様の耳には当然届かない。
殴られた父が地面に倒れ伏したのを、私は為す術もなくただ見ているしかなかった。
そんな父を見下ろしながら、〈白眉〉は薄ら笑いを浮かべたまま口を開く。
「ああ、面倒くさい。ボクこう見えても、暴力って好きじゃないんだよ。だって一クワンにもならないじゃない? ま、今回は治療費としていくらか上乗せさせてもらうから」
こちらへ戻ってくる〈白眉〉のこぶしと靴先に、赤い色を見た私は全てを諦めた。
下手に抵抗して、再び立ち上がった父がこれ以上傷つくのを見たくない。私は
その一心でひたすらに我慢した。
父の血が付いたままの〈白眉〉の手に腕を掴まれ無理やり立たされたあと、引き摺られるように門へ向かう。振りほどきたい、殴ってやりたい……そんな気持ちを必死に押し殺す。
私は父が力なく地面に横たわっているのを振り返り見つめていた。微かに動いている手で、生きていると安堵しながらも、悔しさと理不尽さと悲しみで溢れ出る涙を必死にこらえた。父に見せる最後の姿が泣き顔ではあんまりだからだ。
あと数歩で家の敷地外に出る。そうすれば、思いっきり泣いてやろう。<白眉>が困るくらい派手に泣いて罵って、駄々をこねてやろう……
そう思って、唇をかんで必死に零れ落ちそうな涙をこらえ続ける。それなのになぜか〈白眉〉はそれ以上動こうとしない。
どうしたのだろうかと私も前を向く。
涙でにじんだ視界の先には、少し年の離れた友人の姿があった。
「字皓さん、周藍さん……」
茫然とつぶやいた私に、字皓さんが有無を言わさぬ口調で告げる。
「やあ一琳……入ってもいいよね?」
私は藁にもすがる思いで、ゆっくりと頷いた。