1.水の聖霊に愛された令嬢
空にまだ紫の雲がたなびく早朝。
王城の窓に朝日が差し込む頃には、すでに大勢の使用人たちが忙しく働き始めている。
そんな慌ただしい王城の一角でのこと。
「こらこら、順番ですよ」
柔らかな声が響く。
王太子妃教育のために与えられた執務室。
その広い机の上で、小さな水の玉がぽよんぽよんと跳ね回っている。
まるで子供達がクッションの上で遊んでいるようだった。
「きゃう!」
「ぴゅい!」
「ふふ、押したらだめです。みんな順番です」
エリアーヌ・アルヴェールは苦笑しながら指を差し出した。
すると水の玉たちは慌てて整列する。
まるで先生に叱られた園児みたいに。
「よくできました」
そう言って頭を撫でる仕草をすると、水の玉たちは嬉しそうにきらきら輝く。
その光景を見ていた侍女のリリアは思わず笑う。
「お嬢様。本当に聖霊たちはお嬢様の言うことをよく聞きますね」
「聞くというより、一緒に遊んでいるつもりなのでしょう」
エリアーヌが微笑むと彼女の周囲には水の聖霊達が集まる。
それは彼女が『水の聖霊王の愛し子』だからだ。
もっとも本人はそれを特別なことだと思っていなかった。
実は彼女には前世の記憶がある。
魔法のない世界でたくさんの子供達に囲まれ、幼稚園といわれる場所で『先生』と呼ばれていた記憶が。
元気な子。
泣き虫な子。
いたずら好きな子。
どの子も少し手がかかっても、本当は良い子だった。
だから聖霊達だって同じ。
騒げば叱り。
褒める時は褒める。
危ないことをしたら止める。
エリアーヌには、ただそれだけだった。
「さて、それではお仕事をしましょうか」
エリアーヌが席に着くと聖霊達は一斉に机の端へ移動する。
邪魔をしてはいけない。
それを理解しているのだ。
積み上げられた書類は今日の分だけでも百枚近くある。
領地からの陳情。
河川管理の報告。
物流網の調整。
魔力結界の維持計画。
王都の水路整備。
そして王太子エレイン関連の案件。
「……今日も多いですね」
小さくため息をつく。
不満があるわけではない。
誰かがやらなければならない必要な仕事なのだから。
「お嬢様。本来ならこれは王太子殿下が確認なさる案件では……?」
リリアが恐る恐る尋ねる。
エリアーヌはペンを走らせながら答えた。
「そうですね」
「でしたら――」
「でも放置すると大変なことになりますから」
優しく微笑む。
リリアは王太子が普段仕事の確認をしていないのを知っていた。
全てエリアーヌが処理していた。
王都の水不足問題も。
国境の結界修復も。
交易路の改善も。
表向きの功績は王太子のものだが、実際に動いているのはエリアーヌだった。
◇
陽の光が大分高くなった頃ノックもなく扉が開いた。
「エリアーヌ!」
現れたのは婚約者である王太子エレインだった。
整った容姿に豪華な衣装、見た目だけなら王族として申し分ない青年だ。
だが。
「おはようございます、エレイン様」
「そんなことより聞いてくれ!」
エリアーヌの挨拶など気にせず続ける。
「先日の討伐遠征で私の人気がさらに上がったらしい!」
「それは良かったですね」
「うむ!」
エレインは得意げに胸を張った。
しかし、遠征に必要な補給計画も、兵站管理も、現地の水源確保も、全てエリアーヌが采配した。
エレインは何もしていない。魔獣討伐自体も騎士達が行い、ただ現地に控えただけだった。
「凱旋の夜会の準備は大丈夫か?」
「はい」
「当然だな」
当然。
その一言に侍女のリリアは眉をひそめる。
エリアーヌは相変わらず穏やかだった。
「会場準備も警備計画も順調に進んでおります」
「ならいい」
エレインは満足そうに頷くと、そのまま踵を返す。
書類には一切目を通さず執務室を出ていくと、静寂が戻る。
しばらくして、リリアがぽつりと言った。
「お嬢様は怒らないのですか?」
「何をですか?」
「全て、です」
エリアーヌは少しだけ考え、苦笑する。
「子供ができないことを責めても仕方ありませんから」
「……」
リリアは返事に困った。
王太子は二十三歳で、決して幼児ではない。
だがエリアーヌの目にはそう映っているのだろうか。
確かに中身は幼児のようなところがあるのはリリアにも感じられる。だが王太子がそれでいいのだろうか。
その時、窓辺の水盤が突然大きく揺れた。
聖霊たちが一斉に震え、楽しげだった空気が変わる。
「どうしました?」
エリアーヌが立ち上がると一匹の聖霊が飛び出してきた。慌てた様子で何かを訴えている。
「……え?」
エリアーヌの表情が僅かに曇った。
「お嬢様?」
「学園に、妙な力を持った方が現れたそうです」
「妙な力?」
「人の心を無理やり惹きつける力……みたいですね」
リリアが息を呑む。
魅了系の魔術は禁術に近い危険な能力だ。
「困りましたね」
エリアーヌは静かに穏やかな声で言う。
しかし足元の聖霊たちは、まるで何か良くないものを感じ取っているように、不安そうに彼女へ寄り添った。
「大丈夫ですよ」
エリアーヌがしゃがみ込み、小さな聖霊たちを撫でながら優しい声で告げると聖霊たちは少しだけ落ち着きを取り戻した。
窓の外では噴水の水が静かに揺れる。
まるで嵐の前触れのように。
◇
その頃、王立学園では薄桃色の髪の少女が勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「ふふっ。やっぱりチートって最高」
彼女の周囲には何人もの男性が侍っている。
貴族子息だけでなく教師までいる。
誰もが彼女に見惚れていた。
少女の名はミリア。
この時、彼女は気付いていなかった。
この国で最も怒らせてはいけない相手がすでに自分を見つめていることを。




