8話 ハンカチのお礼と満たされないお詫び②
昼休みになると、朝の言葉通りにヒューゴはセレスの教室まで迎えに来てくれた。しかし彼の後ろに薄ら笑いを浮かべるニーナの姿を見てセレスはうんざりするのだった。
「ついそこでニーナに見つかっちゃってさ、セレスと昼飯を食うって言ったら一緒に食べたいって聞かないんだ」
言い訳をしながらヒューゴは苦笑いを浮かべる。一応申し訳なさそうな顔をしているが、悪いと思っているようには見えなかった。
「セレスさんだけヒューゴとランチをするなんてずるいじゃないじゃない。私だって学生らしい思い出が欲しいのに、婚約者がいないから全然楽しくないのよ。私を仲間外れにして、セレスさんだけヒューゴと楽しく学院で過ごしているなんてひどいわ」
「っ……」
セレスは絶句してしまった。確かにニーナには婚約者がいない。しかしそれは彼女が高望みをしているからだとヒューゴから聞いている。それに今回のランチは観劇のチケットを譲らされた詫びなのだ。それなのに今日も付いて来ようとするニーナの神経も、簡単に受け入れてしまうヒューゴの頭の中も、セレスには理解ができなかった。
「飯もさ、人数が多い方が楽しいじゃん、とにかく食堂へ行こうぜ。貴族科の食堂って初めてなんだ。美味いものはあるかな?」
「じゃあ私が案内してあげるっ! ヒューゴが好きそうなメニューもあるから一緒に選びましょう!」
ニーナはヒューゴの腕を引き、セレスを置いてさっさと歩き出した。
教室の中を振り返ると、こちらを見ている生徒は一様に微妙な表情を浮かべている。ヒューゴとニーナの声は大きいのでこのやり取りは教室中に聞こえていただろう。こんな場所で揉めたくないと思ったセレスは、二人の後を追って食堂へ行くしかなかった。
「そういえばセレスさん、昨日の歌劇なんだけどすっごく良かったの! あれは絶対に見るべきよね! それでね、その話をしたらお母さまも観たいって言うのよ。チケットってまだ余っていないの?」
「……もうありませんわ」
「本当にそうなのぉ? つまんなぁい。もう一回くらい見てもいいと思ったのになあ。あの劇団って帝国でも有名なのね。近くに座っていた人たちが話していたのだけれど、帝国のクロイツ侯爵家が支援して有名になった劇団らしいの。帝国人なら平民でもクロイツ家の名前くらいは知っているでしょう? あの歌劇は侯爵夫人が、領地で暮らしている侯爵令嬢のために作った歌劇なんですって! でもその歌劇に登場する主人公とヒロインがね、まるで私とヒューゴの関係みたいな幼馴染同士なのっ。本当に昨日はヒューゴにくっついて出掛けてよかったわあ! ありがとうヒューゴ!」
「礼なら俺じゃなくてセレスに言えよ」
「それもそうね、ふふふ。ありがとう、セレスさん」
ニーナは笑いながらゆっくりと礼を言う。ニーナの態度には明らかにセレスを嘲る様子が感じられる。セレスは無意識に自分の手を強く握っていた。
前を歩くヒューゴとニーナが食堂へ入ろうとしているところだったが、セレスは足を止めた。
「……そういえば、昼休み前の授業が終わる時に、先生から教員室へ来るように言われていたのを思い出しましたわ。申し訳ございませんが、今日の昼食はお二人で召しあがって下さい」
食堂に入るドアの前で立ち止まったセレスは低い声でそれだけ言うと、ヒューゴが言葉を返す前に頭を下げて二人に背を向けた。背後から小さく「無理しちゃってぇ、ふふふ」というニーナの声が耳に入ってきたが、聞かなかったフリをするしかなかった。
淑女としてはあるまじき行為だと分かっていたが、居た堪れない心境に陥っていたセレスは小走りで校舎から外へ出て行く。そして誰もいない裏庭まで来ると、冷たい石のベンチに座る。瞳からは涙があふれて止まらなかった。
「……私がっ、何をしたって言うのよっ」
ヒューゴに好きな令嬢がいるのなら、レーデン王国へ来る前に身を引くつもりでいた。でも調べてもそのような令嬢はいなかった。それにヒューゴの実家であるマドック辺境伯家へ婚約の話を持っていった時だって、彼の両親に確認をしたのだ。好きな令嬢も婚約を考えている令嬢もヒューゴにはいないと聞いたからセレスとの話を進めてもらったのだ。
ニーナだって学院に入学するまではここまでひどくはなかった。多少ヒューゴにじゃれつくようなところはあったが、それだけだった。理由は分からないが、今のニーナはあからさらまにセレスに対して敵対心を持っているのだと分かる行動ばかり取っている。
一年かけてセレスが築いた、ヒューゴとの素朴で穏やかだと思っていた関係が、こんなにもろく崩れてしまうとは思わなかった。それはセレスにとって衝撃的な事で、セレスが頑張って作ってきたはずのヒューゴとの絆なんてどこにもなかったと突き付けられているような気持ちになってしまう。
セレスは教室へは戻らずに医務室に行くと、養護担当の教師に気分が悪いと伝えてからそのまま早退した。
◆◆◆
夕方の時間、部屋で過ごしていたセレス宛に、紫色をしたライラックの花束が届けられた。まさかヒューゴがそんな事をと心のどこかで期待をしてしまい、逸る気持ちで誰が贈ってくれたのかを確認したら、送り主の名前にはセレスが兄と呼んでいる幼馴染の名前が書かれてあった。
セレスの幼馴染である彼は二歳年上で、家同士の家格も近くセレスが物心をつく前から家族ぐるみで定期的に会う関係だった。
幼い頃はセレスも彼によく懐き、一緒に遊ぶことも多かった。しかしセレスがヒューゴを好きになってしまった事で、セレスの方から距離を取るようになった幼馴染だった。
セレス個人とは付き合いが薄くなってしまった彼だが、セレスの家と彼との関係はずっと続いていて、彼からは時々気まぐれのようにこうして花やお菓子を贈られるのだが、この一年は何も贈られていなかったので、その事をすっかり忘れていた。
メッセージカードは毎回付いていないし、不定期に送られてくるものなので、彼がどのような理由で送っているのかがわからない。彼からは大した物でもないし、気が向いた時に送っているだけだから、お礼の返事はいらないと言われているので、これまでセレスからはお礼の手紙すら返していなかった。いつも受け取るばかりで、たまに顔を合わせた時にお礼を言うだけなのに、どうしてなのか彼はセレスへのささやかな贈り物をやめる事はなかった。
セレスは早速侍女に水の入った花瓶を持ってきてもらうと、ライラックを自分の部屋に飾る。アメジストのような薄紫色の可愛らしい花を見ていると、昼間にあった刺々しい記憶も少しだけ薄まっていくような気がした。
「ありがとう、お兄さま……」
幼い頃に柔らかく笑いかけてくれた彼の顔を思い出しながら、セレスはそう呟いた。
帝国にいた頃は恵まれ過ぎていたから、何も考えずに彼から贈られるまま受け取っていたが、レーデンで孤独を味わっている今だからこそ、ささやかな気遣いから贈り主の人柄を感じるのだった。
彼の優しさに甘えるわけにはいかないと思いつつも、今はその優しさが嬉しかった。
花を飾った事で、気持ちが落ち着いたセレスは、刺繍糸と針を取り出すと、アルウィンとの約束を守る為に、黙々と刺繍の練習を始めるのだった。
ライラックの花言葉には「友情」「思い出」とあるが、
セレスに贈られた紫色のライラックの花言葉には「初恋」という意味があった。




