プロローグ
彼が初めて彼女と会ったのは、彼自身の記憶も朧げになるほど幼い頃だった。
小さくて柔らかな彼女の手を引きながら、おぼつかない歩き方をする彼女と緑溢れる彼女の家の庭を歩いたのが彼女との最初の思い出だった。
こうして幼い彼女との交流が始まった。最初の数年はお互いの家族を交えたのもので、彼の中では幼い頃の温かな思い出として大切に残されている。
彼には兄もいたが、彼女と遊ぶのは歳の近い彼の役目だった。
子どもながらに空気を読む事が得意だった彼は、家族や使用人たちの様子を見て、自分はいずれ彼女と結婚をするのだろうと感じていた。
彼が十歳の誕生日を迎える前の日の事だった。両親に呼ばれた彼は、彼女との結婚が決まったのだと伝えられる。物心がついた頃からの付き合いだったので、彼は彼女が自分の結婚相手となる事を自然に受け入れていた。
まだ八歳の彼女が自分との結婚をどう思っていたのか彼には分からない。彼女は話をする事が大好きだから、あと何年か過ぎればきっと自分たちの将来の事を話すようになってくれるだろう、そんな風に彼は思っていた。
自分を兄のように慕う彼女との関係は、庭に植えられている常緑樹のように変わることもなくそれから何年も続いていった。
二歳年下の彼女は表情がくるくると変わり、おしゃべりでかわいらしい女の子だと思っていたから、彼女と作る家庭は賑やかで陽だまりのように暖かなものになる、彼はそう思っていた。しかし自分が彼女との未来を考えていて、それを彼女に伝えなかった事を、彼は長い間後悔する事になるのだった。
そして彼女からは自分との将来について話される事はなかった。
彼の思いを裏切る出来事が起きたのは、彼女が結婚相手と決められてから三年が過ぎた頃だった。
十一歳になった彼女はついに恋をするのだが、相手は彼ではなかった。
それが彼女にとっての初恋だった。
彼女は運命を見つけて、彼が運命を失った瞬間だった。
その日から彼の世界は変わってしまう。
彼は彼女を失ってしまうかもしれないと思った時に初めて気付くのだった。彼女の事が大好きで、誰よりも大切な存在だったということに。
彼女の両親は、いずれ彼と婚約を結ぶつもりではいた。しかしそれは数年先の未来であって、彼と彼女はまだ正式な婚約者ではなかった。
彼女が初恋の相手を慕う気持ちは強く、想いの度合いは日増しに強まっていく。親が決めた結婚相手、それは彼女の恋を阻む存在でしかなく、彼は無理に近づこうとはしなかったが、それでも彼女の中では彼を拒絶する気持ちが強くなっていく、初恋の彼を思うほどに。これは彼女の両親にもどうしようもできなかった。
しかし彼女の初恋は実る事なく、相手に気付かれないままだった。さらに彼女は恋する相手に再び会う事はなかった。一見するとそれは彼にとって幸いにも思えた。しかしその事は、彼にとって逆風となるのだった。
恋した相手に会えないという時間は、彼女の想いをより強くする燃料となり、胸の内で燃えている彼女の恋心を大きな炎へと変えてしまったのだ。そしてしばらくの間、その事は誰も気付かれなかった。
彼女に近づく事さえ出来なくなってしまった彼は、遠くから彼女を見守る事しかできなくなっていた。どんなに恋焦がれても、彼女の心が決まってしまった以上、彼の想いは一方的なものでしかなかったのだから。
長年の交流も虚しく、彼に残されたのは幼馴染という何の意味も持たない立場だけだった。そして彼は、彼女との間に唯一残されたその場所を拠り所とする事しかできなかった。




