表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

何かを得るよりも、「捨てる」ことで前へ進む―坂口安吾、さよならの美学

「捨てる」ことへの思い。

裸でいることへの羨望。

本当の自分、素の自分でいたいという欲求ー


長い歳月を経てもなお、多くの人を惹きつける無頼派作家 坂口安吾。


高校生の頃から読み耽っていたが、

今でも時折読み返したくなるのが 「風と光と二十の私と」


若い頃の自身の経験(教員時代)を基にした、随筆というか回想録のような作品。

何かを求めてやまないタイプの人たち、

根を張らず旅をし続けるタイプの人たちには、

とても共感できる作品だ。


どこまでも求め続け、探し続け、走り続ける。

そんな人には、坂口安吾に妙な「同志感」を感じるはず!



「風と光と二十の私と」坂口安吾 ~捨てることへの思い~



若い頃、理由もなく胸の奥がざわつき、

満足というものは、どこかパンドラの箱のように思っていた。

同時に微かな絶望を感じていた。


何かを得るよりも、むしろ「捨てる」ことでしか前へ進めないような、

あの妙な焦燥と渇き。



坂口安吾の「風と光と二十の私と」は、

そんな二十歳の私の魂に、衝撃的に響いた作品である。


黄昏感を漂わせながら、

どこか激しく荒々しい生きる力が溢れ、

読むたびに胸が鼓動し、

生命の源までが震えるような感じがした。


坂口安吾の作品はどれも満足を拒み、安定を嫌いながら、

自分自身の生を生きようとする力強いものが流れている。

そこに、私は今もなお共鳴し続けている。


-----------------------------------------------------------------------------------------------



高校・大学時代に読み耽った。

文庫本はまだ手元にあるが、黄色というか茶色というか、

なんとも言えない色に変色している。

その色は、私が走ってきた軌跡。


時々ふっと読み返したくなる作品が

「風と光と二十の私と」だ。

まさに二十歳くらいの頃、魂に響いた箇所がここである。



「私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。

生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、

私一人だけジッと物思いに耽っている。

音といえば柱時計の音だけである。

あの喧噪けんそうな校庭に人影も物音もなくなるというのが

妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、

自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。


私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、

ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。

ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、

私に話しかけたような気がするのである。

私はその朦朧もうろうたる放心の状態が好きで、

その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、

どやされることがあった。

オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。


「満足はいけないのか」

「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。


できるだけ自分を苦しめなければならぬ」

「なんのために?」

「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。

人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。

満足は誰でも好むよ。けだものでもね」


本当だろうかと私は思った。


私はともかくたしかに満足には淫していた。

私はまったく行雲流水にやや近くなって、

怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、

二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、

私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。

私はなべて所有を欲しなかった。

魂の限定されることを欲しなかったからだ。」




------------------------------------------------------------------------------------------------------




満足をするとそこで終わってしまう、

そんな焦燥感に駆られていた若い頃。


「修行」とか「一心不乱に打ち込む」ことを好む人には、

そういう傾向がある。


今でも、自分を酷使し、果てしなくストイックにやっていると、

生きている実感がわく。


のんびりするとか落ち着くという状況はあまり好みではない。

かえって落ち着かないのだ。


どこまでも求め続け、走り続ける。

それが好きだからだ。


そういう種類の人には、ものすごく共感できる文章だと思う。



坂口安吾の文章には、なんともいえない黄昏感、

せつなさ、秘めた物哀しさがある。

それでいて強烈でパワフルで、生命力があり、

「激しく生きるチカラ」に魅了されるのだ。




---------------------------------------------------------------------------------------------------




「私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。

なぜ、やめなければならないのか。

私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、

それは「さとり」というものへのあこがれ、

その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。

教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。

私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、

所詮名誉慾というものがあってのことで、

私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。

私は一向希望に燃えていなかった。

私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、

そして内心は世を捨てることが不安であり、

正しい希望を抛棄している自覚と不安、

悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。

まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。

そうしたら、どうにかなるのではないか。

私は気違いじみたヤケクソの気持で、

捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、

ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。

自殺が生きたい手段の一つであると同様に、

捨てるというヤケクソの志向が

実は青春の跫音あしおとのひとつにすぎないことを、

やっぱり感じつづけていた。

私は少年時代から小説家になりたかったのだ。

だがその才能がないと思いこんでいたので、

そういう正しい希望へのてんからの諦めが、

底に働いていたこともあったろう。


教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、

私の歴史の中で、私自身でないような、

思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。」




---------------------------------------------------------------------------------------------------




「捨てる」ことへの思い。

裸でいることへの羨望。


本当の自分、素の自分でいたいという欲求。


刷り込まれた常識や「こうあるべき」という先入観、

そういった囚われをすべて捨て去り、自由でいたい。


捨てるというのは、単に目に見える物だけではなく、

目には見えない心の囚われを捨てるということだ。


20歳の頃に魂が共鳴し、

それから長い歳月が過ぎた。

いまでも共感する気持ちは変わらない。


え?成長していないということか?

いえいえ、

根底にあるものは変わりようがないということだ。


「私は私」




        ~おわり~



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ