【ちく第7話】震える指先と沈黙の 墨出し
【ちく:第7話】震える指先と、沈黙の墨出し
2020年代、名古屋。
50代後半になったちくは、夜明け前の薄暗いガレージで、一人静かに愛車のエンジンをかけていた。
息子に代を譲ってから数年。今は「相談役」という名の、現場の穴埋め役のような立場だが、彼自身は今も、腰袋を巻かなければ自分の重心がどこにあるのか分からなくなるような感覚を持っていた。
だが、現場に立つたびに、突きつけられる現実がある。
墨出し(柱の位置を決める線を引く作業)をする際、以前なら一発で決まっていた指先が、わずかに、本当にわずかだが震えることがあるのだ。
「……老眼鏡、新しくせなあかんな」
ちくは、現場の仮設トイレの鏡で自分の顔を睨みつけた。
日に焼けて深く刻まれたシワ。かつて重い鉄筋を軽々と担いでいた肩は、今では慢性的な四十肩(いや、五十肩か)の痛みを抱えている。
若い職人たちがスマートフォンで図面を確認し、レーザー測定器で一瞬にして垂直を出す横で、彼は一人、手垢のついたコンベックス(巻尺)を握りしめていた。
あるリノベーションの現場で、どうしても計算が合わない古い梁の歪みに直面した。
若手たちが「設計ミスだ」「やり直すべきだ」と騒ぐ中、ちくは黙って梁の下に潜り込んだ。
木材の匂い、湿り気、そして長年耐えてきた構造の「悲鳴」を、手のひらで感じる。
「……ここは、理屈じゃねえんだわ」
彼は震える手でノミを握り、コンマ数ミリの調整を施した。
ピタリとはまった瞬間、現場に静寂が訪れた。若手たちが感嘆の声を漏らしたが、ちくはただ、軍手で額の汗を拭っただけだった。
賞賛が欲しかったわけじゃない。ただ、自分の中に残っている「感覚」が、まだ錆びついていないことを確かめたかっただけだ。
夕暮れ。片付けの終わった現場に一人残り、ちくはタバコに火をつけた。
かつては「もっと大きな建物を、もっと高く」と、上ばかりを見ていた。
でも、今は違う。
目の前の歪んだ木材をどう生かすか。明日、この家で暮らす誰かが少しでも長く笑えるように、自分に何ができるか。
節々の痛みを感じながら、彼はゆっくりと腰を上げた。
派手な成功も、華やかな未来も必要ない。
ただ、明日もまた、この腰袋の重みを感じて現場に立てること。それが、今の彼にとってのすべてだった。




