【やおた第7話】レンズの曇りと沈黙の山嶺
【やおた:第7話】レンズの曇りと、沈黙の山嶺
2020年代初頭。
50代後半になったやおたは、一年の大半を自社所有の山で過ごすようになっていた。
かつて彼を「変人」と呼んだ会社員時代の同僚たちは、今や定年後の再雇用や年金の話に明け暮れているが、やおたの世界には、そんな世俗の数字は一切入り込まない。
だが、彼にも抗えない「老化」の波は寄せていた。
愛用の望遠鏡を覗き込む際、以前よりもピントを合わせるのに時間がかかるようになった。飛蚊症が視界をよぎり、星の瞬きなのか、自分の目の不調なのか判別がつかない夜もある。
「……レンズが曇っているわけじゃない。俺の目か」
やおたは、観測デッキの冷たい手すりを掴み、独りごちた。
若い頃は、まだ見ぬ新種の生物や、宇宙の果てにある未知の天体を探し出すことだけに情熱を燃やしていた。でも、50代後半になった今の彼は、何かを「発見」することよりも、ただそこに「在る」ことを観察することに、より深い充足感を覚えるようになっている。
ある冬の夜、麓の村で大規模な停電が起きた。
山全体が、これまでにない深い闇に包まれた。やおたは観測を止め、防寒着に身を包んで外に出た。
そこには、機材を通さずとも肉眼でありありと見える、圧倒的な銀河の河が流れていた。
かつて中学生の自分が、裏山で「ツチノコがいるはずだ」と信じて疑わなかった、あの根拠のない熱気。
今の自分は、最新鋭の機材を持ち、土地の所有権まで持っている。けれど、この広大な宇宙の静寂を前にすれば、自分がいかに小さな存在であるかを痛感させられる。
「……それでいいんだな」
彼は、重い腰をさすりながら、山小屋の暖炉に火を入れた。
膝の痛みも、視力の衰えも、すべてはこの山の一部として朽ちていく過程に過ぎない。
深夜、SNSを通じて都市部の喧騒や、同世代の焦燥が断片的に伝わってくることもある。しかし、やおたはスマートフォンを遠くに置き、パチパチとはぜる薪の音に耳を澄ませた。
彼はようやく、追い求めるべき「答え」など最初からなかったのだと、静かな確信を持って受け入れ始めていた。
山は、ただ黙って、彼を包み込んでいた。




