捨てようとした、そのそばに
「行きたい場所がある」
用品店を出るなりクラヴィスはそう言って、二人分のサンドイッチと飲み物を買い、マリアを連れて街の西側に広がる森に入った。
行きたい場所があると言ったっきり黙ったまま、クラヴィスは黙々と歩いている。
(どうしたんだろう……)
鞄から見えるクラヴィスの顔は眉間に皺を寄せ口を引き結び、じっと前を見据えていた。
考え込んでいるのか、でも、どこか思い詰めているようにも見える。
(何もないといいけど……でも多分、それはないよね……)
クラヴィスは目の前に飛び出している木の枝を叩き折った。
そしてそれを掴んで、払うように放り投げる。
少し離れた所に木の枝が音を立てて落ちる。
(イライラしてる……)
森に入ってから、こんな調子が続いている。
しかもそれが、少しずつ強くなっているような気がする。
クラヴィスは苛立ちをそのまま吐き出すように深く息をつくと、足元の悪さも気にせず大股で進み始めた。
「ちょ、っと……まって……!」
後ろからマリアの声がかかる。
はっとして、クラヴィスはマリアを振り返った。
マリアは少し離れた場所の木を支えにして立っていた。
「──────マリア!」
クラヴィスはマリアに走り寄る。
「……大丈夫か?」
クラヴィスの声は、少し震えていた。
クラヴィスのそばに来たマリアは、両膝に手をついて、肩を大きく揺らした。
ぽたりと、地面にマリアの汗が落ちる。
顔を真っ赤にして、マリアは苦しそうにクラヴィスを見上げた。
「ちょっと……休みたい」
クラヴィスは申し訳なさそうに顔を歪めた。
「すまない。少し休もう」
クラヴィスはマリアの肩を支えて、マリアをそばにある石に腰掛けさせる。
マリアはぐったりと座り込み、クラヴィスから渡された飲み物を少しずつ飲んだ。
マリアはゆっくりと呼吸を繰り返す。
クラヴィスはそばに片膝をついて、それを見守っている。
マリアは座れた事と水分を取れた事で少し落ち着いたのか、顔はまだ赤いけれど呼吸が落ち着いてきていた。
マリアはクラヴィスを頭から下まで眺めると、首を傾げた。
「…………ここに何かあるの?」
クラヴィスはマリアから視線を逸らした。
マリアは飲み物をひと口、こくりと飲み込む。
じっとクラヴィスを見ている。
クラヴィスは視線を落としたまま、何かを言おうと口を開く。
けれどうまく言葉にできなかったのか、息をつきながら首を振った。
「……兄さんの事だから、何かしら理由があるんだろうとは思ってるけど」
マリアは呟くように、小さくそう落とす。
そして大きく息を吸って、胸を押さえてゆっくりと吐き出した。
「でも、もう少しゆっくりお願い」
俯いているクラヴィスの顔が、今にも泣きだきそうにくしゃりと歪んだ。
(────なんで?)
どうして、そんな顔をするの?
ぎゅっと胸が締め付けられる。
心がざわめいて、目が離せなくなる。
クラヴィスは一度目を閉じ、歪んだ表情を隠すと顔を上げた。
「──────ああ、すまない」
「…………うん」
マリアは静かにクラヴィスを見つめて、小さく頷いた。
そしてまたひと口、飲み物を飲む。
クラヴィスはその間を刻むように数回瞬きをする。
「……少し早いけど、昼にするか。サンドイッチは食べられそうか?」
「うん、少しなら食べられるよ」
「よし、じゃあ休憩してから行こう」
クラヴィスは立ち上がり、マリアの近くにある倒れている木に腰掛ける。
鞄からサンドイッチを取り出すとマリアに手渡した。
二人で並んでサンドイッチを食べ始める。
食べ始めたら喉が渇いていた事に気づいたのか、クラヴィスは飲み物を取り出して勢いよく飲み始めた。
「ゆっくり飲まないと」
「────ああ」
笑うマリアにクラヴィスはそう返事をして、飲むのを止めた。
座っている木に飲み物を置くとサンドイッチにかぶりつく。
お腹も空いていたのか、脇目も振らず食べている。
マリアはクラヴィスの様子に目元を緩ませて、サンドイッチをひと口口に含んだ。
冷たい風が通り抜けて、ざわざわと木々の葉が揺れる音が響く。
クラヴィスはすぐにサンドイッチを食べ終わり、また飲み物を飲み始めた。
ぼんやりと佇んでいるクラヴィスのそばを風が通り抜けていく。
マリアはサンドイッチを飲み込むと、クラヴィスに顔を向けた。
クラヴィスの様子を探るようにマリアはじっと見つめている。
「……ここに何かあるの?」
クラヴィスはぼんやりした目をマリアに向ける。
マリアを見ながら、瞬きを繰り返す。
そしてまた視線を森に戻すと、肩を落として小さく息をついた。
(…………クラヴィス?)
心がざわめく。
膝に肘を乗せ俯くその姿が小さく見えて、クラヴィスがこのまま消えてしまいそうに感じてしまう。
クラヴィスのきゅっと引き結ばれた唇はかすかに震え、細められた黒い瞳には、瞬きすれば今にも零れ落ちてしまいそうな熱を留めている。
──────胸が、苦しい。
胸の奥が、疼くように熱い。
(────クラヴィス)
私を見て。
いつもみたいに。
その手を、頭に乗せて。
何も考えずに。
好きなように、していいから。
好きなように、撫でていいから。
クラヴィスは顔を歪めて、自嘲するように鼻で笑った。
「…………兄さん?」
「……ああ」
クラヴィスは自分の腕の中に埋もれるように、くっくっと肩を震わせている。
マリアが不安そうに胸元に握り締めた手を寄せた。
ひとしきり笑って、クラヴィスは顔を上げる。
「見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「ああ」
ざあ、と葉が音を立てる。
少しだけ冷たい風が通り抜ける間、クラヴィスは片手で帽子を押さえた。
「あまり遠くはない。もう少ししたら着く」
「……兄さん」
クラヴィスはマリアに応えず、また視線を森に向けた。
マリアを拒絶するように、深緑のケープがクラヴィスを隠すように風に揺れた。
マリアは小さく息をつくと、静かにサンドイッチを食べ始めた。
目の前で、クラヴィスの手が小さく震えていた。
クラヴィスはそれをマリアから隠すようにぎゅっと握りしめた。
(クラヴィス……)
届かない声に、もどかしくなった。
休憩を取った場所から真っ直ぐ奥に進むと崖があった。
クラヴィスは崖をのぞき込む。
鞄が揺れ、一瞬崖の方にゆらりと放り出される。
(ひぃっ!!)
全身にぞわりと何かが駆け抜けた。
(やだやだやだ!! 落ちたくない落ちたくない落ちたくない!!)
クラヴィスの腰にぶつかるように鞄は戻り、内心で号泣する。
(もう近寄らないで!! 行かないで!! 離さないで!! 絶対嫌だ!!)
崖の様子なんて、怖すぎて確認すらできない。
クラヴィスは特に表情を揺らす事なく、頷くように一度目を閉じると、マリアを振り返る。
「ここまでだ。左に曲がるぞ」
崖から冷たい風が吹き上げる。
クラヴィスの外套が翻り、クラヴィスは崖から押し返されるように小さくたたらを踏んだ。
(もういやだぁっ!!)
怖い、怖いよ。
涙を流せたらぼろぼろ泣いてしまう自信がある。
マリアもクラヴィスに駆け寄ろうとして一瞬躊躇う。
マリアはそのまま木にしがみついて、クラヴィスに声をかけた。
「兄さん!! だ、大丈夫!?」
「────ああ」
クラヴィスは答え、ずれた帽子を被り直す。
そしてこれから向かう方向に鋭く視線を飛ばした。
「行くぞ」
「えっ……あ、うん」
マリアは歩き出したクラヴィスを追った。
(この先に何があるんだろう……)
恐る恐るのぞく崖は、底が見えない。
またぞわりと、足元から何かが這うような感覚がした。
(マリアの方に行きたい……)
マリアは崖に近づかず、木にしがみつくように進んでいる。
クラヴィスは特に気にする事なく、平然と崖の横を歩いている。
時々ふわっと上がってくる風に体が浮くたびに体の芯が抜けるような感覚になる。
(もうやだぁ……っ!)
今だけでいい。
私をマリアに預けてくれないだろうか。
そう期待を込めてクラヴィスを見るけれど、クラヴィスは前を向いたまま黙々と歩いている。
(うう……っ)
めそめそしながら、クラヴィスの鞄の中で恐怖に耐える。
「────え?」
ふいに、横からマリアが声を上げた。
マリアは前を向いたまま目を見開いて止まっている。
マリアの視線の先には平たく大きな灰色の建物が立っている。
灰色の建物から背の高い巨大な煙突が伸び、白い煙がたなびいていた。
「ああ」
クラヴィスは頷いた。
「あれがこの街の西側にあるごみ処理場だ。ちょうどこのあたりは、処理施設の裏手側になる」
「へぇ。見学はしに行ったけど、裏手側は初めて来たかも……」
「まぁ、普通は来ない」
クラヴィスは処理施設を眺めながら苦笑した。
そして自分の手のひらに視線を落とすと小さく息をついた。
「……行くぞ。この坂を下れば目的地だ」
「うん」
マリアはそんなクラヴィスの様子を見つめていた。
二人は並んで坂道をゆっくりと進み始めた。
さっきよりゆっくりになった歩調に、ほっとする。
噛み締めるように、土を踏み締める音が響く。
「…………二年前、ここを歩いた」
ぽつりと、クラヴィスが零す。
マリアはクラヴィスを見上げた。
クラヴィスは崖と鬱蒼としている木々に視線を泳がせる。
苦い笑いを浮かべながら、それでもどこか懐かしそうに目を細めた。
「来た時のように適当に森に入って……適当に進んで。木の枝を折ったり、石を投げたり」
ふ、と表情が沈み、クラヴィスの目の輝きが薄くなる。
「小さな崖を見かけたら……とりあえず跳んでみたり」
クラヴィスは言葉を続けようと口を開く。
けれど言う必要はないと思ったのか、クラヴィスはそのまま口を閉じた。
「……どうしてそんな事をしようと思ったの?」
マリアはクラヴィスの真似をするように景色を眺めている。
クラヴィスは考えるように、瞬きを繰り返した。
「──────どうなっても、よかったから」
掠れた声が漏れた。
「壊れても、死んでも。何もできなくなっても。何もかも、全部無くなってよかったから」
「…………どうして?」
ぎゅっと、クラヴィスの表情が歪んだ。
何かに耐えるように、震える拳を握り締める。
話そうと開く口も震えて、息も途切れ途切れに漏れた。
「──────好きな事を、捨てようと思った」
「好きな事を────捨てる?」
歩みを止め、はっと目を見開いてマリアはクラヴィスを見た。
クラヴィスは遠いどこかを見るように、乾いた笑みを浮かべる。
(クラヴィス)
見ている方が、心が痛くなるような笑みだった。
クラヴィスはそのまま前を向き、淡々と歩く。
置いていかれたマリアはクラヴィスに駆け寄った。
「兄さん」
「僕は、人形を捨てようとした」
マリアは言葉に詰まり、今にも泣きそうに顔を歪めた。
唇を震わせて、大きな優しい瞳には膜が張っている。
「どうして……」
「…………どうしてだと思う?」
クラヴィスは首を傾げて静かに微笑んだ。
優しく静かに浮かぶ笑みは、今にも消えてしまいそうだった。
(クラヴィスが────人形を捨てる?)
今こうして、私を大事にしてくれているのに?
「わ、……わからない。でも、兄さんがそう思うなら、それはきっと、それだけ兄さんにとってとても大きな事なんだと思う」
マリアは立ち止まり、クラヴィスにつかみかかるように言う。
「────うん」
クラヴィスは優しくマリアの腕を解いて、前に進む。
「ま、待って!」
クラヴィスはじゃり、と坂道を下り終える。
マリアはクラヴィスに置いていかれないように、進むクラヴィスの背を追う。
「そんなに珍しい事じゃない。どこでも、誰にだって起こるような事だ。でも……」
そのまま少し進むと少し開けた場所に出た。
(え……これは)
吸い込まれるような景色に目を奪われる。
マリアはすぐにクラヴィスに追いつくと、口をぽかんと開け呆然と立ち尽くした。
「僕はもう、どうしていいかわからなくなった。だから、全部捨てようとした。人形も家も家族も────自分も」
ざぁ、と撫でるように風が吹く。
クラヴィスの外套が悠然とたなびいた。
クラヴィスは帽子のツバを持ち、目元を和ませる。
それはこの森に入ってから初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「僕は不器用だから。そうする事しかできなかった」
さっきより強く風が吹いた。
あたり一面の地面を覆うように咲いている白や薄紫の小さな花が、波のように揺れる。
柔らかく、でも強く揺れる小さな花達は、楽しそうに寄り添っているように見える。
(綺麗……)
素朴な花だけど。
きっと、売り物になったりするような花じゃないと思うけれど。
でも確かにここにあるって、そう言っているようだった。
「色々あった。説明しても、きっと理解できないような事がたくさん。でも、その色々を辿って、ここに辿り着いて。自分の中のものを全部吐き出した時、思ったんだ」
呆然と花畑を見ていたマリアが、ゆっくりとクラヴィスに顔を向けた。
クラヴィスは胸元をぎゅっと握りしめ、心細そうに全身を震わせた。
涙をはらはら零しながら、くしゃりととけるように笑う。
「僕には、これしかないって」
マリアは息を詰めた。
「僕には、こうする事しかできないって」
クラヴィスと目が合った。
はらはらと優しい熱が降る。
そんな中クラヴィスはいつものように柔らかく微笑んで、目を細める。
クラヴィスは両脇の下に手を入れて、私を持ち上げる。
高い高いをするように持ち上げたあと、今にも壊れてしまいそうなものを扱うようにクラヴィスの右肩に抱き締められる。
マリアの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
(──────クラヴィス。ねぇ、クラヴィス)
クラヴィスが、クラヴィスでよかった。
今ちゃんと、笑えるクラヴィスでよかった。
クラヴィスはこの空気を味わうように、息を深く吸った。
「────マリア」
ぽろぽろ零れる涙を拭っているマリアは、クラヴィスを見上げた。
クラヴィスと目が合うと、くしゃと顔を歪めた。
赤くなった目からぽろぽろと涙が落ちる。
「道を変えるのもいい。もう二度と触れるもんかと、思ってもいい。諦めたって、いい」
クラヴィスは私を右肩に乗せ、マリアに向き直った。
「でも────世界は広いぞ」
そう言って、クラヴィスは笑った。
その笑顔は、陽だまりみたいにあたたかかった。




