一雫の救い
「ティア、今日もありがと。お疲れ様」
仕事が終わり、ぼんやりと店内を片付けていたらジョイに声をかけられる。
「……うん、ジョイもお疲れ様」
ジョイに向かって頷く。
声を出した喉が、少しだけ引きつった。
「今日はもう少しだけ作業して帰るから、ゆっくりしてて。夕食も、好きに食べてて」
ジョイはそう言いながらこちらに歩いてくる。
「……うん、ありがと」
近くに来たジョイを見上げて、でもずっと見ていられなくて、視線を落とした。
ぽんぽん、と頭を撫でられる。
その温かさに、なぜか胸が痛む。
「……今日はもういいから、ゆっくりしておいで。いつもありがとな」
ジョイは優しく、囁くようにそう言った。
柔らかいその声が、頭の上から包むように落ちてくる。
胸にある痛みに、小さくまた痛みが走る。
しかめてしまいそうになる顔を、気合いで抑えた。
「……うん。じゃあ、先に帰るね」
小さく頷いて、一歩下がる。
「ああ、気をつけてな」
「うん……ありがとう」
そうジョイに返して、重い体を引きずるように動かした。
部屋に帰ってベッドの縁に座る。
座っている私の足元を、夜の気配が混じった夕日が照らす。
外の喧騒から切り離された静けさの中で、夕日が少しずつ夜になっていく様をじっと見つめる。
じりじりと、胸の奥が焦げていくような気がした。
いつもなら身の回りを整えてのんびりしたり、元気があれば部屋を片付けたり、掃除をしたりする。
日記を書いたり、ノートを飾ったり、ジョイの両親が残した本を読ませてもらったりしている。
食べる事が何より好きで。
知らない味はたくさん世の中にあって、毎日どんどん世界が広がるのが楽しい。
ゆっくりと食事をとる事は、今一番、幸せだと感じる事だ。
────音にならない声が、漏れた。
開いた唇が渇き、小さくぱきっと音を立てた気がした。
か細く漏れる息が、途切れ途切れに震える。
胸に走る痛みは止まるどころか、どんどん増えていく。
何度も何度も、私に訴えてくる。
このままでいいのか。
何もしなくていいのか。
みんなを見殺しにしていいのか。
そう、私に突きつけてくる。
意識して深く、息を吸い込む。
でもそれを拒むように、がくがくと肺が揺らいだ。
────苦しい。
肺が、胸が、心が、押し潰されそうになる。
手が、自分の手じゃないみたいに震えて力が入らない。
私は、どうしたらいいのだろうか。
ただ思うのは、このままじゃきっとだめだって事。
このままここでこうして止まっている私は、だめだって事。
だって私は知っている。
情報を持っている。
博物館に百年前の元凶がいるかもしれない事を知っていて、わかってそれを、放置している。
握りつぶされるように顔をしかめた。
握りしめている胸元の服は、今にも千切れそうな音を出している。
──────痛い。
私の存在ごと、切り刻まれてしまいそうだった。
ぱらぱらと、柔らかい桃色のスカートに雫が零れ落ちる。
あっという間に柔らかい桃色は沈んで、くすんだ薔薇色に染まっていく。
────整えてから行くって、なんだろう。
私が整ったところで、何が変わる?
みんな、余裕がなくなっているように思う。
いつもより、周りが見えなくなっているように思う。
変だって、それはもう、ジョイも認識している。
今はまだ祈り花が異様に売れるだけで、誰かが傷つく方向には行っていない。
でもそんなの、あっという間に変わってしまったっておかしくない。
──────苦しい。
いつの間にか止めてしまっていた呼吸を、思い出したように繰り返す。
両手で胸元を握りしめる。
苦しさから逃れようと大きく上下する胸を、静まらせようと歯を食いしばる。
────このまま放っておけるのか。
博物館に行って、元凶の二人がいるかどうか確認できるだけでも、違うのではないか。
いやむしろ、それが正解だとしか思えない。
そもそも放っておく方がおかしいに決まっている。
だって私は知っている。
知っていて、ジョイを、クリスを、私に良くしてくれる大切な人達を、危険に晒している。
今この時も、私はみんなを、危険に晒し続けている。
立ちあがろうとして、足に力が入らず、崩れ落ちる。
思わず舌打ちする。
震える自分の不甲斐ない体に怒りが一瞬で沸き立った。
全力で足を殴ろうとして、この体はジョイのお祖父さんとお父さんからもらった事を思い出す。
足を睨みつけていた目を閉じて、深く息をした。
壊れない程度に足を叩いて、切り替える。
両頬も、ぱちん、と叩いた。
百年前実際に、それを目撃したわけじゃない。
私はずっと、物入れの奥に放り込まれていたから。
でも、気がついた時にはおかしくなっていた。
それって、今起こっているような事なのではないだろうか。
おかしいと思いながら、なんとなく流してしまう。
それを続けてしまったから、百年前の事件は起こったんじゃないだろうか。
目を開けて、真っ直ぐにドアを見つめる。
今動けるのは、私しかいない。
守れるのは、私しかいない。
がくがくと足は震える。
でも、歩ける。
「──────行くよ」
自分に命じるように呟くと、ドアを開けて、街に飛び出した。
まず向かったのは、エミルと見た噴水公園にある博物館情報を見た掲示板。
人混みの勢いに倒れ込むように掲示板に縋り付く。
そのまま博物館の場所をもう一度確認する。
博物館はこの街の北側、中心部を支点にしてちょうどここから真反対の場所にあるようだった。
あまり考えなくても真っ直ぐに北に向かって進めば辿り着けそうな気がする。
締め付けてくる胸を広げるように、大きく息を吸った。
震える足を、強引に動かす。
けれど思ったように足に力が入らず、ふらふらして歩いていた人にぶつかってしまう。
「すみません……っ」
普段よりかなり人通りが多く、言葉が届く前にぶつかってしまった人を見失ってしまった。
驚きが言葉になる前に、私もその流れに流されてしまう。
なんとか体勢を整えながら、北側に進路を取ろうとする。
(人が多い……なんで?)
考え事すらできない。
今ですら、すでに行きたい道から逸れているのに、考えていたらあっという間によくわからないところに連れていかれそうだ。
人がいない小さな空間になんとか飛び出す。
(出られた……!)
苦しい。
どっとのしかかってくる重みに耐えるように、膝に手をついて、深く息をした。
変な汗がじわじわと噴き出してくる。
数秒人混みに揉まれただけなのに、全身が鉛のように重い。
体を起こして、今ここがどこなのか確認する。
目の前には奥へと続く細い道がある。
行きたかった道からおそらく数本逸れてしまったけど、人通りは少なくて、大通りを進むより早く進めそうだ。
(よし……!)
がくがく震える足を叱咤して、通りに入った。
通りは静かで、少しだけ夜の匂いが強かった。
少し離れた場所から喧騒の気配を感じながら、黙々と前に進む。
体を支えるために壁についた手からは、少し湿った冷たい石の感触がする。
それはどんどん、冷たくなっていっている。
足の裏からは、ぼこぼこした、どこか懐かしい感覚がした。
噴水公園とは違い、まだこの道は少し古いのかもしれない。
ただ同じように淡々と歩いていると、ふいに思い出す。
今のこの道が、あの時の道に似ているわけではない。
似たような揺れ、静かな空間、空気。湿った匂いに、流れる緩やかな風、息づかい。
そのひとつひとつが、少しずつあの時へ私を引き戻していく。
────百年前も、こんなふうに歩いていた。
いや、走っていた、だろうか?
あの時の私は、元凶の二人の元に辿り着く前の私は、どうだっただろうか。
何を、考えていただろうか。
自分の苦しそうな息づかいに耳を澄ませ、あの時の自分に思いを馳せる。
──────苦しかった。
胸が、引き裂かれるようだった。
希望を、期待を、安心を、愛を、私の全てを、とても綺麗に壊されてしまったから。
私は、いらない存在なんだって、知ってしまったから。
本当は、そんな事、わかってた。
何度も何度も、そんな事わかっていたけど、それでも諦めなかっただけ。
今まであった、今まで積み重ねてきた思い出を、信じたかったから、信じただけ。
目の前に出されてる事実を理解しながら、それでも欲しいものに、手を伸ばしただけ。
ぽろぽろと、涙が溢れて、目の前が歪む。
緩やかに流れる風が、涙を優しく払う。
喉が悲しいというように震える。
胸はぎゅうぎゅうと締め付けて、もう、無くなってしまいそうだった。
──────苦しいよ。
苦しかったよ。
思い出してる、今、この時も。
────元凶の二人の所に行って、その後どうなったのか。
足が止まる。
ぱらぱらと、もう暗くなってしまった石畳に涙が降り注ぐ。
両手で止まらなくなった涙を押さえる。
当たり前にそれで収まるわけがなくて、ぱらぱらと涙は落ち続ける。
「お嬢さん、大丈夫かい……?」
恐る恐るというように、おそらく年配の女性が声をかけてきた。
ひゅっと、喉が鳴った。
体が強張る。
ぎゅうっと目に当てている手に力が入る。
「…………大丈夫です」
一言声にするたびに、胸の痛みが破裂しそうだった。
「……本当に? よかったら、少し休んでいかないかい?」
「……大丈夫です」
触れられたくない。
誰にも。
年配の女性にそれだけ言って、何も見ずに進む。
膝が崩れるけど、無理やり立て直して進む。
涙で前が見えない。
自分自身も、見えなくなってる。
それでも、今は誰にも、触れられたくない。
年配の女性から見えない場所に行きたくて強引に通りをぐねぐねと曲がる。
そのせいで何度か曲がった先で足がもつれる。
反射的に手を着いて受け身を取ろうとした。
──────“壊れる”
咄嗟に左腕を庇って、うまく受け身が取れず石畳の上を滑るように転んでしまう。
「……っ」
衝撃に体がミシリと音を立てる。
自分を抱きしめるように体を縮めた。
────痛い。
体も、心も。
はらはらと、涙は止めどなく零れる。
石畳から伝わってくる冷たさが、痛みに毒を混ぜているようだった。
まるで自分で、痛みを増やしている気持ちになる。
博物館に、行かないといけない。
行くべきだ。
それでも。
「…………かなしいよぉ……っ」
声にならない声が、心が、そう静かに絶叫する。
どうして、私ばっかりってそう叫ぶ。
私も、欲しかった。
私も、笑顔で過ごせる、そんな時間が。
安心できる、そんな場所が。
元凶の二人は確かに放っておけない。
わかってる。
でも、全てを壊されて、傷ついて、それでも守って、さらにまた私の大事なものを壊さないと、だめなのだろうか?
そこまでしないと、だめだったのだろうか?
どうして、私が?
どうして私は、大事なものを全て捨てないといけない?
私は何か、そんなに悪い事を、したのだろうか?
頬に当たる湿った冷たさに、私の熱が溶けるように混じる。
私だって、逃げたい。
誰かに、守られたい。
何も、失いたくない。
元凶の二人の所に行ったら、また、壊される。
──────ねぇ。
「…………行かないと、だめなのかなぁ……っ?」
両手で顔を覆った。
全身を貫く熱が止められなかった。
どんどんその熱は、強くなる。
ずっと我慢して抑えて、耐えてきたものが、蓋が外れて噴き出しているみたいだった。
失うのは怖い。
傷つくのも怖い。
壊れるのも、怖い。
私にも、どうか、少しでいい。
一雫でいいから、救いが、欲しいよ。




