プロローグ
時計の針は、すでに深夜三時をとうに回っていた。
静まり返ったオフィスに、カタカタとキーボードを叩く音だけが空しく響いている。
私の名前は、篠原結衣。二十八歳、会社員。
「……ふう」
パソコンの画面から目を離し、こわばった首を左右に回す。ゴリ、と骨が鳴る鈍い音が、静まり返ったオフィスの深夜の空気に痛々しく響いた。
視界の端がかすみ、まぶたの裏が熱を帯びている。机の上は、血眼になって書き殴った付箋やマーカーの文字で埋め尽くされたリファレンス資料の山。
効率が悪いと嗤われようが、泥臭いと遠ざけられようが、今の自分にはもうどうでもいい。他人の軽薄な言葉などではなく、自分がこの手で汗をかいて集めた事実の積み重ねだけが、かろうじて今の自分を支える唯一の土台だった。
乾ききった喉を潤そうと、冷めきったコーヒーマグに手を伸ばす。底にわずかに残っていた苦い液体を飲み下すと、胃のあたりが重く冷たく痛んだ。
――あと少し。あと一息だけ見直せば、この企画書の精度は完璧になる。
ガタガタと震える膝に無理やり力を込め、冷たい水で意識を叩き起こそうと立ち上がった。
――あの会議室に入るまでは。
◇
「素晴らしいよ、美代ちゃん! 君は我が社の若きエースだ!」
翌日のプレゼン会議。役員たちの拍手喝采が響く中、壇上で得意気に微笑んでいるのは後輩の林田美代だった。
彼女の手にあるのは、私が昨夜、血の滲む思いで作ったあの資料。
(……え?)
頭が真っ白になった。
美代は昨夜、私がデスクに置いておいた完成資料を無断で持ち出し、自分の名前で提出したのだ。
「ありがとうございます。結衣先輩っていつも要領が悪くて残業ばかりされてますけど……私は限られた時間で成果を出すのが得意ですので、お役に立てて光栄です」
美代は涼しい顔でそう言い放ち、横で立ち尽くす私へ、冷ややかな視線を投げてきた。
役員たちは「さすが美代ちゃんは効率的だね」「それに比べて篠原はいつも遅くまで残って何をやっているんだか」と深く頷き合っている。
『私の成果です』と声を上げようとした。
でも、誰が信じてくれるの?
これまでも、何度も何度も同じ事があって、最初は言葉にしていたけれど……嘘つきだと罵られ、他人の努力を奪う事ばかり考えて残業しているふりをしている怠け者だと噂を流された。
喉の奥が張り付いたようにカサカサで、うまく声が出ない……。
誰に気が付いて欲しくて、信じて欲しくて、すがるように見つめる……。
けれど、役員たちは美代の言葉にすっかり感化され、私の存在など視界に入っていない。
手塩にかけて育てたプロジェクトも、徹夜の苦労も、すべて他人の手柄として横取りされた。
(どうして……真面目に頑張ってきた私の努力は、何一つ報われないの……?)
激しい動悸と目眩が襲う。
視界が暗転し、私は冷たい床へと崩れ落ちた。
苦しいッッ…痛い…痛くてたまらない…
何故なの?嫌よ…死ぬのは嫌ッッ…
私は、ただ努力しただけ…無駄だった?
なんの為に努力したんだっけ?誰かの為に?誰かに認められたかった?違うッッ違う!
私は、私の為に努力しただけ!!
視界がぼやける…息が出来ない…
助けて……もしも次の人生があるのなら…
あぁ…あぁ!悔しい!悔しい!ツライ!痛いッッ…嫌ッッ…なんで私がこんな思いをしなきゃいけないの?寂しい…死ぬのは…嫌ッッ…嫌よ…
ゆっくりと閉じた瞼から、一粒の涙がこぼれ落ちる。
それは冷たい床に落ちる瞬間、まるで硬質な宝石のように、一瞬だけ蒼く澄んだ光を放った――。
ブツリと糸が切れたように、そこで『私』の意識は途絶えた。




