第二章 量子の魔人(2)
アルフレッドがついに突き止めたリチャード・エンダー教授の自宅住所は、第三市の南部地区だった。
大学からは、歩いて一時間近く。
敵の首魁と思われる人物に存在を知られた以上、あまり昼間に堂々と歩きたくはない。意識不明に近い女性を背負っての行軍となれば、軍や警察に声をかけられて面倒なことにもなりかねない。そのため、夜を待って、闇にまぎれてエンダー教授の自宅に向かうことにした。
その自宅は、近郊の住宅地の中にあった。
白い壁とフラットルーフの一階建住宅。広い庭は一面が芝生で、植栽は少ない。広い庭に面した掃き出し窓から明るい光が漏れて庭に四角い光を落としている。
玄関から真面目に訪ねるよりは相手に警戒の隙を与える前にその庭に面した大窓から押し入ろうということになった。もちろん、押し入るといっても、いきなり窓ガラスを破ろうというわけではない。
アユムが狭いデッキに一段上がって広い窓から中をうかがう。
中年の男が大きなソファに座って、小さな本を読んでいる。壁面には何かのビデオが流れている。
コツコツ、と窓を叩くと、男は顔を上げた。
アユムの姿を認めると、一瞬の驚愕の表情の後、すぐに意味の汲み取りがたい笑みを浮かべて立ち上がる。
まもなく、ロックが外され、ガラス戸が横に引かれた。
「君か」
男がアユムに向かってうなずきながら言う。
「あの、どこかでお会いしましたか?」
アユムが恐る恐る尋ねる。
彼の顔に浮かんだ表情は、どうも、アユムのことを知っているという風にしか見えなかったからだ。
確かにそんなこともあるかもしれない。
もしかすると彼こそがエクスニューロの産みの親で、おそらく初代かそれに近い卒業生であるアユムの手術を、直接に監督していた可能性だってあるのだから。
だが、彼の答えは違っていた。
「いいや、私は君には会ったことが無い。だが、君の事はよく知ってる」
「それは――」
「――アユム・プレシアード君。そう、シャーロット・リリーを連れて逃げた、ウィザード部隊ではちょっとした有名人だよ」
くっく、とエンダー教授は低く笑う。
「フェリペのやつは、しっかりと私の情報を隠したと言っていたが――一体どんな魔法を使ったんだね」
「たばこの配送ルートを。他の職員の住所と突き合せると、この住所だけ、該当する職員のカードが無かった」
手短にアルフレッドが言うと、エンダー教授はあからさまに目を見開いて驚きの表情を見せる。
「……まさか、そんな裏口を見つけるとはね。ああ、そんなものは下ろしてくれないか」
アユムが向けている銃口に、怯えるようにエンダー教授は懇願の声色で訴える。
「私は驚いているし、敬意を払いたい。両手を上げたままでは、それも難しかろう。君が、フェリペのやつが言っていた、青年だね? 見事だ。よくぞ奴の裏をかいた。心底、君に驚いているのだ。だから、頼む」
困惑の表情でアユムがアルフレッドに目くばせをすると、アルフレッドはうなずいた。それを見て、アユムも銃を下ろす。
「――フェリペの仲間だと思っている、そうだろう? もちろん、ある意味で私は彼の友人だが、彼のくだらん思想や野望には興味はない。私は彼との契約上の責務は果たすが、その契約に、シャーロット・リリーを捕らえて引き渡すことは入ってないのだよ」
もっとも、この私が君たちと戦ってシャーロット君を奪いとれるとも思えないがね、と付け加えながら、エンダー教授は再び低く笑った。
***
かけたまえ、と言うエンダー教授の言葉に、わずかな逡巡こそあったが、結局、アユムの判断で全員がリビングのソファに腰を下ろすことになった。
脱力しているシャーロットは、リビングの続きの書斎から運んできた安楽椅子の背を倒して横たえる。
「……教授は、どうやら、ロッティに何が起こっているのか知っているようですね」
「もちろんだとも。あれは、私が作ったのだから」
――やはり、そうか。
彼の言動は、すでにそれを示していた。
意識を失わぬまでも廃人のように脱力した人間を前にして、何の驚きの表情も見せずにいられるわけが無い。
もしいるとしたら、その状態を何らかの事情であらかじめ知っていた人間だけだ。
――つまり、その設計者。
「なぜあのようなことになってるんです」
アルフレッドが乗り出す。
「私にも分からんよ。実のところ――あれは、失敗作なのだ」
「シャーロットさんが失敗作? でも私たちの中で一番強くて……」
「強い弱いではない。設計どおりに動作しなかった。それは、科学者の私としては、完全な失敗なのだ」
「何を言いたいのか分からないが……ともかく、僕らはそれを治す方法を聞きに来たんだ」
「ふん、性急なやつだ。楽しい会話を楽しむ余裕も無いのかね」
「なんだと――」
いきり立って腰を浮かせかけたアルフレッドを、アユムが制する。
「ごめんなさい教授。アル、とりあえず、ちゃんと教授の話を聞きましょう。……少なくとも、私は、興味があるわ」
「あ、ああ、すまない」
アルフレッドも突然の感情に駆られたことを恥じて頭を下げた。
「まあ聞きたまえ。大丈夫、君たちがここにいることは誰にも言いやせん。ともかく、もうディエゴ・デル・ソル大学はおしまいだからな、これが私の最後の講義になろう」
その言葉を聞いて、アルフレッドは別の感情が去来するのを感じた。
研究者であると同時に教育者としてあの大学にいたエンダー教授。
大学を守るという建前をかざして戦乱を振りまくミネルヴァ、学問の純粋さを守るというスローガンを掲げてさらにそれに反抗し始めた学粋派。
彼らがどのような看板を上げていようとも、もはや、あの大学は、研究、教育の場ではなくなってしまったのだ。
それも、たったこの数年のうちに。
教育者としてのエンダー教授の心中はいかばかりだっただろう。
そう思うと、先ほどから彼が時々漏らす低い笑いさえ、自嘲の色を含んでいるとしか思えなくなってしまった。
「君たちも気付いたろう、君たちの使っているそのエクスニューロは、この私が設計した。失敗もずいぶんやったが――ともかく、成功した。それは、原理的には、人間の中枢神経を拡張する。ただ拡張するのではなく、イオン移動速度に制限されていたその応答速度を、電子移動速度の域にまで高めることができる」
「高める? 補助、では無いのですか?」
エッツォが質問を挟む。
「正確にはバイパスだな。本来脳が持つニューロンの幾何学パターンのうち必要なものをエクスニューロ内に再現し、中枢神経応答を先回りして模擬し、結果だけを生体の脳に返す、そのようなものだ」
「では、エクスニューロ内には僕のコピーが?」
エッツォがそれに手で触れる。
「完全なコピーではない、何しろ幾何学的な配置が全く違うからな、完全なコピーは絶対に作れない」
そしてエンダー教授は胸ポケットから取り出したシガレットに火をつける。煙草を吸う人間を初めて見たアルフレッドは、思わず彼の吹き出した煙を見てのけぞる。
「もちろん、これは、エクスニューロの機能の一つだ。エクスニューロは、そのバイパス回路にもう一つ、重要な情報を付与する。それは――」
「――たとえば、銃口を見て弾道が分かるような、そんなものなんですね」
セシリアの言葉に、エンダー教授は深くうなずく。
案外セシリアは賢いんだな、などと見当違いの思いにふけるアルフレッド。
「その通り。だが、それは単なる幾何学的な予測機能ではない。それは、量子論的な推測機能だ。人間の感覚が捉えたあらゆる情報を統合して、旧量子論では否定され新量子論で別の形で示された『実在』を推測する機能だ。分かるかね、人間の感覚というものの異常さが。何百億という神経細胞とその軸索の先端に繋がった感覚器。そのどれもが、個性を持っている。発生の妙で偶然に生まれた個性だとしても、その揺らぎこそが重要なのだよ。量子論的に実在を算出するためには、とてつもなく多くの、互いに相関の少ない観測値が必要なのだ。人間の感覚器というのは、この特徴を完全に備えた、量子論的センサーの理想型なのだよ」
徐々に難解になる彼の言葉に黙り込んだ四人を見ながら、エンダー教授はシガレットの灰を灰皿に落として、一息つく。
「量子状態というやつは、観測で簡単に壊れる。逆に言えば、観測の『強さ』を弱くすればするほど実在に近づくことができる。しかし、弱い観測は十分な強さの信号を一度に得られない。だが、人間の感覚器は、何百億という相関の低い観測を一度に行い、そのすべての結果を同時に中枢神経に入力する。一つ一つは弱くてもその統合としての量子状態を得るのには十分なのだ。ある物事を見た瞬間にその本質を見抜くという量子推測のためには、まさにもっともすぐれた観測装置なのだよ」
彼がそこまで言ったとき、再びセシリアが口を開く。
「あの……よくわからないんですが、それはもしかして、『直感』のように、働くんでしょうか」
「ふむ、言い得て妙だな。そう、まさに直感だ」
エンダー教授の言葉に、得心した、と言うようにアユムがうなずいた。
「私たちの、この直感としか言いようのない新しい感覚は、まさしく直感だったというわけですね」
「呑み込みが早いね。その呑み込みの早さも、おそらく君たちが身に着けているエクスニューロの支援があるからだろうがね」
そしてアルフレッドは一安心する。
エクスニューロを着けていない自分が話に半分ほどしかついていけていないことは、おかしなことではないし、自分が飛び切りの馬鹿だということでもない、と。
「では教授、教えてください。ロッティには――シャーロット・リリーには、一体何が、起こっているんです」
すぐに言葉を継いだアユムに対して、エンダー教授は、もう一度深くシガレットの煙を吸い込み、吐き出した。そして、その火を灰皿に押し付けてもみ消す。
「予想しなかった効果なのだよ」
「何がです」
もったいぶった教授に対し、アルフレッドは待ちきれないとでも言うように促す。
「フェリペは、君たちにおかしなことを言わなかったかね。――そう、彼女が魔人だと」
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