Ⅰ.過去のトラウマ①
ベッド脇に置かれた看病用の椅子に座って、ウィリアムは少女の金髪をそっと撫でる。
白い顔を歪めて浅い呼吸を繰り返すウリカは、苦しみながらも懸命に闘っているようだった。
脳裏にふと昔の思い出が蘇る。幼い少女にあの子の面影を見たせいかもしれない。
ウリカがまだ今のマリア嬢と同じくらいの年齢だった頃、自分は『ビル』と呼ばれ、この少女の傍にいた。
明るい笑顔を振りまく幼い少女は、いつでも元気いっぱいだった。元気が過ぎて振り回されることも少なくなかったが、ウィリアムにとってはそれが救いにもなったのである。
当時はこの国に流れ着いた直後で、不慣れな土地での生活に不安が多かった。
だが子爵令嬢のお転婆につき合わされて四苦八苦しているうちに、気づいたら不安を忘れていたのだ。
(つくづく無邪気さは最強だな……)
うっかりさきほどのクリスティーネを思いだして、慌てて首を振るウィリアムである。
いま考えれば、本音を隠さない少女の傍にいるのは心地よく、あの頃が一番幸せだったように思う。
あの事件で兄を失い、この地を離れなければならなくなったとき、自分の胸中は強い憎しみと惜別への悲しみに満ちていた。
あんな思いはもう二度とごめんだ。過去の思い出を捨て、希望を捨てて何にも期待しないと決めたはずだった。
この国に戻ってきてからも、ウリカとの思い出は忘れたふりをしていたし、彼女にも思いだされたくなかった。
だから一旦は遠ざけようとしたのに、彼女はそれを許してはくれなかった。
あの頃のように無邪気に懐に入り込んできて、ウィリアムの心に居場所を作ってしまう――この子を失いたくないと思ってしまう。
「……ウィリアムさん?」
弱々しい声が聞こえてはっとする。
物思いに沈んでいた意識を引き戻して視線を落とすと、ウリカが薄く目を開け、こちらを見上げていた。
「どうして、ここに……?」
不思議そうに尋ねられて、わずかに動揺したウィリアムはとっさにとり繕うような反応をしてしまった。
「こういう状態になっていることを予想して、薬を作りに来てやったんだ」
横柄な言い草に、しかしウリカは微笑んだ。
「心配してくださったんですね」
「ただの風邪ではない可能性があったから来ただけだ」
なおも突き放すような言葉を返すが、やはりウリカは笑う。
「ただの風邪の可能性もあったのに来てくださったんですね」
「俺はただ、研究者として……」
反射的に反論を続けようとしたが、意地になって言い返すほど却って言い訳じみてくる気がして、ウィリアムはやめた。
「……悪かったな。遅くなって」
「来てもらえただけでも嬉しいです……でも、ごめんなさい。せっかくお薬を作ってくださっても……」
ウリカの表情が曇る。ウィリアムはその頭を優しく撫でた。
「話は聞いている。だが今回ばかりは、仕方ない、で終わらせるわけにはいかないんだ。このまま薬を飲めずにいれば、最悪命を落とすことにもなりかねない。たとえそれを免れたとしても、視力を失う可能性が高い病だ」
なるべく怖がらせないように静かな声で坦々と説明する。
ウリカは申し訳なさそうに眉を下げた。
「薬は飲んでもすぐに吐きだしてしまうんです。何度も頑張ってはみたんですけど全然ダメで……お医者さまが精神的なものが原因だから、私本人の意思だけで克服するのは難しいだろうって言っていました」
「薬の作用で幻覚を見たことがあるせいだろうな。かなりひどい幻覚だったらしいから」
「私はあまり覚えていないんですけど……」
「心的外傷とはそういうものだ。たとえ本人に自覚はなくとも、心のどこかで覚えている。そして体がそれに勝手に反応してしまうんだ」
「どうすれば克服できるんでしょう……? 本当に死にそうになったら飲めるのかな……」
途方に暮れたような呟きに、ウィリアムの罪悪感が膨れ上がる。
「かもしれないな……」
そう呟いたあと、覚悟を決めて椅子から立ち上がる。
「だがそれでは遅い……よく聞け、ウーリ」
身を乗りだしたウィリアムは子爵令嬢の愛称をごく自然に口にして、言葉を続けた。
「目は錬金術師の命に等しい。新しいものを生みだす一流の錬金術師を目指すなら、視力を失うわけにはいかないんだ。質の良いものや新しいものを生みだそうと思ったら、材料などの微妙な調整が不可欠になる。盲目でそれをこなせるのはひと握りの天才だけだ……それこそ、五十年に一人、出るか出ないかというな」
ウィリアムはウリカの額や頬に手をあてて、体温の状態を確かめる。二日もこれだけの高熱に晒されて、かなり辛かったはずだ。
自責に駆られて落ち込んでいる場合じゃない。どんな手を使ってもこの子を助けなくては……。
「視力を失いながら錬金術を続けることなんて、俺にもお前にも無理なんだ。だから、どんなことをしても薬は飲ませる。俺がお前の心的外傷を治してやる」
断言する錬金術師をウリカは不思議そうに見つめた。
「薬を飲むと怖い思いをする――その思い込みが薬を吐きださせる要因だ。つまり、薬は安全なものだと体が理解できればいいわけだ」
「でも、それが出来ないから、今まで薬を飲めずにいたわけで……」
ウリカが消極的に反論する。不安げに揺れる瞳が、疑心暗鬼を振り払えずにいることを物語っていた。その不安を、まずは拭いさってやらねばならない。
「俺の薬に調合ミスはない。俺を信じるか、ウーリ?」
自分の言葉に自嘲しそうになるが、今はそれを表情に出すわけにはいかない。少しでも懸念を払拭し、希望を持たせてやらなければ、彼女は前に進めないままだ。
自信に満ちたウィリアムの態度を目にして、ウリカの碧い瞳に輝きが宿る。
弱気になっていた彼女も、もう一度勇気を出してみようという気になったようだ。力強く頷く子爵令嬢が挑むような眼差しを向ける。
ウィリアムは嬉しそうに笑った。
「よし。それなら、俺が手伝ってやる」
ウリカの背中の下に左手を差し入れて少女の上体を起こすと、ウィリアムはベッド脇の卓上に置かれた水差しを手にとった。
グラスの三分の一ほどまで水を入れ、小鉢に入った液状の薬を混ぜる。
ほんのりと甘みのついた薬は、水に混ぜ入れることで砂糖水と同じ感覚で飲める。少しでも『薬』という意識を薄れさせ、小さな子供にも飲ませやすくする工夫だ。
さらに懐から小瓶を取りだし、その中身をグラスに注ぎ入れたウィリアムは、薬をウリカに渡すでもなく、ちらりと彼女に視線を投げる。
不思議そうに首を傾げた子爵令嬢に、彼はまさかの凶行に及んだのである。